【銀座四丁目】 仕事で失敗してまっすぐ家に帰りたくないときなんて、誰にでもあるものだ。 そう、花水木歌劇団の団員にも。 松団男役の瀬尾みゆきは、終演後、劇団本部へ戻るバスには乗らず、楽屋口からそのままふらふらと歩いて晴海通りへ出た。 今日はなぜだかついてないことばかりだった。舞台袖で二度も大道具にぶつかってスタッフに怒鳴られるわ、早替りを手伝っている才原にブラシと間違えてスプレーを渡してしまい「ノリツッコミさせる気か」と睨まれるわ、挙句の果てにフィナーレの群舞で自信満々に踊った振りが一小節ずれているわ……悪魔に魅入られたとしか思えない。 こんな自己嫌悪のかたまりになりそうな夜には、気の済むまで銀座を歩いて何か慰めになるものを見つけて衝動買いするかやけ食いするかというのがいつもの瀬尾の対処法だった。 その日、七時過ぎの銀座は、冬の平日の夜にしてはいつもより人出が多いように思えた。その原因は四丁目の交差点まで来たときにわかった。交差点にそびえたつ三越デパートの壁面に、「銀座バレンタインウィーク」の看板が大きく掲げられていたのだ。 (バレンタインデーか。関係ねえ……) デパートを見上げたせいで少しずれたべっこうぶちの大きなメガネを押し上げて、ニットの帽子を深くかぶりなおす。 劇団に入る前は、男役にはファンからのチョコレートが殺到するのだろうと思っていたが、実際は自分にはそんなことはまったく起こらなかった。公務員である花水木歌劇団の劇団員はファンから物やお金を受け取ることを厳しく禁じられているということもあるが、それでも好きな人はなんとかして渡すものだ。現に松団の先輩である才原や粟島の化粧前には、スタッフのつてを頼ってこっそりと楽屋へ運ばれた本命チョコレートが毎年山積みになっている。 しかし瀬尾はそんなものをもらったこともなく、劇団の仲間からの友チョコをありがたく頂くだけの立場だった。女子校育ちなので、好きな男の子にあげたという学生時代の甘酸っぱい記憶すらもない。 (どうせ私なんて……) バレンタインのことを考え始めるといっそう気が沈む。瀬尾は四丁目交差点を曲がり北へと足を向けた。レコード店もあれば本屋もある、瀬尾の定番ルートだ。 しかし、今日はいつも立ち寄らない小さな店にふと目が留まった。 なぜなら、普段はひっそりとしているその店に次々と女性客が入っていくからだ。 (何だ?) ガラスのドアを開けて店内を覗いてみると、そこは小さなチョコレートショップだった。いや、ショップというよりブティックという言葉がふさわしい。大きなガラスのカウンターケースにまるで宝石のようにきらきら光るチョコレートの粒が並び、白い手袋をした店員がひとりずつ客の相手をしている。 (高そうな店だな……) 覗いてはみたものの、ひやかしで入れる雰囲気でもなかったので、瀬尾はそのまま引き返そうとした。 が、そのとき、店の奥にいる一人の背の高い客に気が付いた。黒いパンツスーツに白いブラウス、ストライプのスカーフ。服装、体型、姿勢、醸し出すオーラからみてあきらかに花水木歌劇団養成所の生徒だ。 (あの子知ってる! たしか杉山とかいう……) 周りの女性客より頭ひとつ背の高い彼女は、生粋の日本人なら染めてもパーマをかけてもなかなかそうはならない、グレーとブロンドを混ぜたような微妙な色合いの柔らかそうな癖毛だった。そして青白いほどに肌が白く、鼻も高い。 瀬尾は彼女から視線を離さず素早く店に入った。あれは、一年生の分際で劇団にまで噂が聞こえている養成所きっての問題児、杉山瑞穂(すぎやま みずほ)に違いない。 「いらっしゃいませ」 店員の呼びかけを無視し、瀬尾は人混みをすり抜けて杉山に近づいた。杉山は真剣なまなざしでガラスケースの中のチョコレートを見つめている。 「……誰にあげるの?」 急に囁かれて、杉山はぎくりとしたように瀬尾を見た。 「杉山君でしょ。いいの? ウィッグのその色。校則違反じゃん」 ニヤリと笑うと、杉山はやっと瀬尾が何者であるかわかったようだった。目を伏せて規則通りの三十度の礼をする。 「……これは地毛です」 「嘘はよくないなあ。髪の毛全部自分で剃っちゃったんだって? 校則どおりにセットするのが面倒だからって。劇団じゅう知ってるよ」 「……恐れ入りました。でも、染めるのは禁止ですけどウィッグの色は校則には載ってません」 なんと、口答えしてくる。たしかに明るい色のウィッグは地毛と見紛うほど彼女の顔立ちに似合っているが、公費で教育を受けている養成所の生徒は派手な格好は厳禁なのだ。まったく今どきの十八歳は……と瀬尾は年寄くさい感情を抱いた。 「書いてあるよ。第五条、化粧・髪型は整列時に一様に見えるよう整えるべし、って」 もちろんそんな校則は口から出まかせで、からかっただけなのだが、杉山は焦った様子で瀬尾のダウンジャケットの裾をつかんできた。 「すみません。先生には黙っててください」 図体は大きくても、やっぱりまだ一年生だ。彼女の素直さやノーメイクの肌の幼さが、瀬尾には急に可愛く思えてきた。 「そうね、バレンタインのチョコくれたら考えてもいいな」 ガラスケースを見ながら冗談で言うと、杉山はさらに困った顔をした。 「お金、ないんです。千円しか」 「え?」 「いちばん安い三個入りの詰め合わせ……千二百円だから買えなくて」 「それでさっきから見てるだけなのか」 こんな銀座のど真ん中の高級店に千円札一枚を握りしめて来るなんて、まるで大きな中学生のようだ。 「養成所の生徒がこんなところで買い物なんて贅沢だよ。手作りチョコにしなさい」 「ここのチョコレートが好きだって聞いたんです」 瀬尾は少し驚いた。一年生は勉強に忙しすぎて恋愛どころではなく、憧れの上級生にチョコレートをあげるくらいが関の山だと思っていたが、杉山はこんな高級ショップのチョコレートを好んで食べるような男性と知り合いなのだろうか。 「ふうん。養成所の生徒だって知ってて高い物買わせるような奴はろくな男じゃないよ。気をつけな」 だが、杉山は色白の頬をわかりやすく染めて言った。 「違いますよ……同期です」 その顔を見て、瀬尾は不覚にもキュンとしてしまった。 同期生を好きになりバレンタインにチョコレートを渡して告白しようとして彼女の好きな店まで買いに来たものの予算が足りずに立ち尽くしている若い男役見習い……こんな青春ドラマの一場面に居合わせるなんて、今日の悪い出来事を全部差し引いてもおつりがくるくらいの幸運だ。 「わかった、それじゃ一個だけ買えばいいんじゃない? 三個で千二百円ってことは一個四百円でしょ」 「できるんですか?」 「できるよ。それから私にも一個、口止め料」 「でもそれじゃ帰りの電車代が……」 「本部までタクシーで送ってくよ。私も寮生だから」 そこは大人なところを見せて、瀬尾は杉山のためにカウンターの店員を呼んでやった。杉山はもう一度瀬尾に綺麗な会釈をして進み出ると、遠慮がちにハート型のチョコレートを指差して一つ包んでもらっている。 「え、一個しか買わないの?」 「こんな高い店のチョコレート買わせる男はろくな奴じゃないっておっしゃいましたよね」 「…………」 まったく記憶力の良いことだ。彼女が養成所で教師たちを手こずらせているというのもなんとなくわかる気がした。見た目はすがすがしく、姿勢も表情もキリリとしているのに、素直だったりかたくなだったり一筋縄ではいかない匂いがぷんぷん漂っている。 淡い色の巻き毛が似合うフランス人のような美貌に百七十五センチ以上は確実にある長身、そして噂によれば帰国子女で英語のネイティブスピーカーらしい。きっと入団したらあっという間にスターになってしまうのだろう。自分とは素質が違う。 そのとき、何だかわからない衝動にかられて、瀬尾は店員に声をかけた。 「この『ハニーハート』の三個入り一つください」 意外なことに、今、生まれて初めて誰かにチョコレートをあげたいと思ったのだ。 「杉山君」 「はい」 店の外に出てタクシー乗り場へ向かって歩きながら、瀬尾は彼女のみぞおちに小さな茶色の紙袋を押し付けた。 「はい、これ、私からのプレゼント」 「えっ……」 「誤解しないで。同期ちゃんにあげるチョコを買ってあげたんじゃないよ。これは杉山君に」 杉山はまっすぐに瀬尾の目を見つめたまま袋を受け取り、またお辞儀をした。 「ありがとうございます。でも、私の本命は同期の岸田布美子なので告白にはお答えできませんけど、いいんですか?」 「言うねえ……」 片思いの相手の名前をフルネームで宣言され、瀬尾は思わず笑ってしまった。 その岸田という子も知っている。杉山の学年の主席で、同学年の生徒のまとめ役をしている娘役見習いだ。忙しそうに目じりを吊り上げて本部の廊下を駆けまわっているのを瀬尾もちょくちょく見かけていた。 養成所の一年目から劇団じゅうに名前を知られている優等生と問題児――これはもし成立したら新世代のビッグカップルと言ってもいいかもしれない。劇団一の情報屋としての瀬尾のミーハー魂がうずいた。 「いいよ、別にこっちは本命チョコじゃないし。上手くいくといいね、岸田君と」 「はい」 澄んだ薄茶色の瞳を潤ませ、頬を紅潮させて頷く杉山に、瀬尾はもう完全に心を奪われていた。 (よし、この子を応援しよう。恋も、舞台も……) タクシーで本部へ向かう間じゅう、瀬尾は、初めてのバレンタインチョコをあげた相手の恋の相談に乗ってやったのだった。 →NEXT 銀座五丁目 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |