【銀座五丁目】 「飲む、ってコーヒーのことだったんですか」 「当たり前やん」 竹団トップの戸澤愛は、松竹梅合同公演の終演後、先輩の松団トップ才原霞に誘われて銀座五丁目にある老舗の喫茶店に来ていた。酒を出すわけでもないのにこんな夜中まで営業しているその喫茶店は、大通りから路地へ入ったビルの上階という少々わかりづらい場所にあり、知る人ぞ知る銀座のナイトスポットになっている。 エレベーターを降りたとたん目の前に現れたケーキのショーケースに、戸澤は一気に興奮した。 「わあ美味しそう」 「せやろ」 「ケーキセット、千五百円もするんですか?」 「それくらいこの辺の店では普通やん」 「でもこれじゃ気軽にケーキお代わりとかできないし」 戸澤にとっては高級喫茶店のケーキも定食屋の丼ご飯と大差ない。どちらにしても一人前だけでは足りないのが戸澤の胃袋である。 「今日はおごるさかい好きなだけおあがり」 「ほんとですか?」 戸澤は嬉しさのあまりうふふふふと不気味に笑った。 先輩のおごりと聞いたからには遠慮などしている場合ではない。戸澤はまずオレオチーズケーキとオーソドックスなイチゴのショートケーキを注文しようと心を決めた。第三候補のモンブランに行くかどうかはその二つを食べてからの相談だ。 才原はこの店の常連らしく、何も言わなくても奥の個室に通された。この店には喫茶店には珍しいしっかりとしたドアのついた個室がある。だから政財界や芸能人に常連が多いのだ、とここへ来る道すがら才原は言っていた。 マホガニーのテーブルを挟んで向かいに座った才原は、外したマフラーの上へばったりとうつぶせた。 「お疲れですか?」 「年には勝てへんわ」 ぼやく才原は、そうは言っても戸澤など及びもつかないようなエネルギッシュな舞台人で、つい一時間前までは限界を感じさせないパワーで歌いまくり踊りまくっていたのである。どちらかというと淡々とこなすタイプの戸澤から見れば、一回のステージにかける才原の本気さは眩しいくらいだった。 「またまたー。私より全然元気なくせに」 「あと三年したらわかるって。ああ、戸澤は来年で任期終わりか。ずるいなあ。……ケーキ決まった?」 「はい。才原さんは?」 「シフォンケーキ。あとウインナコーヒー」 「あ、生クリーム好きなんだ」 「うん。ふわふわが好き」 才原がかなり疲れている様子なので、普段は気の利かない戸澤もさすがに個室を出て店員を呼び、二人分の注文を済ませた。 今夜どうして才原がわざわざ終演後に自分を誘ったのか、その理由は戸澤には心当たりがなかった。いつも才原は仕事が終わると部下の粟島と一緒にすぐ帰ってしまう。他の団員たちは、年に一度の合同公演だからと浮かれ騒いで、毎晩のように団の違う同期や友人たちと飲みに行くというのに。 「今日は甲子ちゃんと一緒じゃないんですか?」 才原は深緑色のマフラーから物憂げに視線だけを上げた。 「金子と飲むんやて。金子に聞いてへんの?」 「ああ、そういえばそんなこと言ってたかも」 「いいなあ飲める人は。酔っぱらうのって気持ちいいんやろな。集まって酒飲むだけで楽しそうやもんなあ……」 酒の飲めない才原は粟島に置いて行かれてひがんでいるようだった。 「ついていけばよかったのに。別にソフトドリンクでもいいじゃないですか。才原さんならアルコールいらないと思う」 「お子様の入れない店やって」 「え?」 「粟島に言われた」 不満感たっぷりにマフラーに顎を押し付けている才原を見て、戸澤は声を出して笑ってしまった。なんて可愛い人なのだろう。竹団時代は他人のことなど歯牙にもかけなかった粟島がつきっきりで面倒を見ているのも頷ける。 「いいですねえ仲良しさんで」 「そうでもないよ」 ふてくされたような表情を見て、戸澤はまた笑ってしまう。お世辞にも素直な性格とはいえない粟島のことだから、きっとあの愛想のない無表情で才原を困らせているのだろう。 粟島と金子の二人が今夜酒の肴にしているのは、ここにいる自分たちのことではないかと戸澤はちらりと思った。同じ準トップという立場同士、直属の上司であるトップの愚痴は山ほど胸に溜まっているに違いないし、お互いにプライベートでも好きな相手であればなおさら話は尽きないだろう。 「それより戸澤、金子といつ別れるん」 「今のとこ別れる予定はないですけど」 もともと細い目をさらに半分に細めて睨むと、才原は笑いながら体を起こした。 「好きなんや」 「つばさはいい子だもん」 もう付き合って二年九か月になる恋人は、肌になじんだシャツのように、改めて好きだなどと言うのも水臭いほどの存在になっている。 「戸澤もええ子やで」 「何なんですか、気持ち悪い」 「戸澤って恋愛とかあんまり向いてないタイプかと勝手に思ってたけど、意外とそうでもないんやな。金子も最近がぜん良くなってきたし、うまくいってるんは見てたらわかる」 「うーん……まあ、なんだかんだ言って三年近く続いてるから、相性いいのかも」 「体の相性も?」 戸澤は切れ長の目をぱちくりさせた。才原がそんな下ネタめいたことを言うのを初めて聞いたからだ。 「才原さん、どうしたの?」 「二人の面白い話聞きたいねん。たまにはガールズトークしようや」 「ガールズトークっていうか、セクハラ親父の会話じゃないですか。そういう話は未央ちゃんとかとしてくださいよ」 そこへノックがあり、ケーキを持ったウェイターが入ってきたので、戸澤の意識は完全にそちらに奪われてしまった。 ロイヤルコペンハーゲンの白と藍色のケーキ皿に乗せられたオレオチーズケーキのボリュームに、満面の笑みが浮かぶ。同時に才原の前に置かれたシフォンケーキも大きくてふわふわとしていかにも美味しそうだ。そこへケーキ皿とお揃いのカップアンドソーサーに注がれたコーヒーが運ばれてきたら、もう一瞬も待てはきかない。 「いただきまぁす!」 遠慮なく大きく切り取った一口を頬張って至福のひとときを噛みしめていると、才原は携帯電話を取り出した。 「磯田も呼ぼうっと。いい?」 「どうぞどうぞ」 こっくりとした白いチーズケーキと苦みのあるチョコレート味のビスケットが、丁寧にドリップされたコーヒーに素晴らしく合っている。悩んだ末に最高の組み合わせを選び取った自分を誇らしく思いながら、戸澤はケーキをぐんぐん食べ進めた。 一方、ケーキにまだ手をつけずに電話をかけていた才原は、しばらく耳に当てていた携帯を離して首を傾げた。 「電波の届かない場所にいるか電源が入っておりません、やて」 「ふうん……電池切れかなあ。夕子ちゃんにかけてみたら?」 「あの二人絶対一緒にいるもんな」 にやにやしながら再び携帯を耳にあてた才原は、すぐに話し始めた。 「もしもし井之口? 私。さっき磯田に電話したんやけど……え、壊れた?」 どうやら磯田の携帯は故障しているらしい。 「へえ。それで井之口は今どこにおるん。……銀座のどこ? ひとりやったらこっち合流せえへん? 五丁目のすずらん通りの角の喫茶店、知ってるやろ」 電話を切った才原は携帯をフォークに持ち替えながら言った。 「磯田、携帯壊れて買いに行ったんやて。井之口いまひとりで飲んでるっていうから呼んだ」 「ここお酒ないから夕子ちゃん可哀想じゃないですか?」 「なんで。来たがってたもん」 先輩に呼び出されたらどんな時でもノーと言ってはいけないのが花水木歌劇団の不文律なので、戸澤などは、後輩を呼ぶのにわりと気を遣う。しかし才原はそんなことはまったく気にしていないようだ。 二人が演出家の悪口をしゃべりながら一つめのケーキを食べ終わったころ、ウェイターが井之口を案内して現れた。 「お連れ様がいらっしゃいました」 梅団準トップの井之口夕子は、イエローのダウンジャケットにケーブル編みの紺のマフラーをぐるぐる巻きにして、ニットキャップをかぶったうえにマスクをかけていた。それらの防寒具をはずしながら二人の先輩にぺこりとお辞儀をする。 「お疲れ様です」 「いらっしゃーい。こっち来て」 才原は上機嫌に自分の隣の席をたたいて井之口を呼んだ。まるで若い女の子を隣に座らせたがる酔っ払いの親父のようだ。戸澤は井之口が少し気の毒になった。仕事の後の一杯を邪魔された挙句に先輩に呼び出されて気を遣わなければならないのだから。 「夕子ちゃんごめんね、飲んでたのに」 「いえ、ご一緒できて嬉しいです」 井之口ははにかむように微笑んで椅子に座った。同じ男役でも、男に間違えられそうな戸澤や才原とは違って井之口は華奢で女らしい顔立ちをしているので、化粧もしていないのにテーブルに花が咲いたようだ。 「大変だね、未央ちゃん、携帯壊れたなんて……落としちゃったりしたの?」 何気なく聞くと、井之口は言いにくそうにうつむいた。 「実は、私が壊したんです」 その告白に驚いて何かあったのかと聞き返そうとした戸澤を押しのけ、急に目に生気をみなぎらせた才原が身を乗り出した。 「えっ、ケンカ? 何があったん? 浮気?」 今日の才原はよほど『面白い話』に飢えているらしい。 才原の想像はきっと戸澤と同じだろう。何気なく見た画面に浮気の証拠のメールを見つけ、怒りにまかせて携帯を床にたたきつける井之口、という陳腐なものだ。 「浮気じゃないですけど……」 口ごもる井之口に、戸澤は優しく微笑みかけた。 「夕子ちゃん、この人今発情期らしいから気にしないで」 「何や発情期て」 「だってそうじゃないですか、さっきから人の私生活聞きたがるし」 「誰かて聞きたいわそんなもん。トップと準トップが同棲してるんやで? あ、梅団もか」 才原にニヤつかれ赤くなってうつむく井之口を見て、本当に可愛らしい子だなあと戸澤は感心した。女だらけなだけに何もかもあけすけになりがちな花水木歌劇団に十年も在籍していてこんなに擦れていないなんて、天然記念物のようだ。 「わざと壊したんじゃないんでしょ」 「いえ……その……、聞いていただけますか?」 大先輩に囲まれて遠慮がちな井之口を、才原は戸澤が噴出しそうになるほど甘い声でうながす。 「もちろん、何でも言うてみ。あ、飲み物はコーヒーでいい?」 「はい」 「あっそれと私ショートケーキ追加で」 ウェイターが再び呼ばれ、注文を受けて出ていった後、井之口はぽつりぽつりと話し始めた。 「昨日の夜の話なんですけど、風呂に入ってたら、み……磯田さんが」 「未央でいい」 すかさず才原の合いの手が入る。 「……未央が、服着たままいきなり風呂場に入ってきて、私に携帯向けてカシャって撮ったんですよ、こっち裸なのに。消せよって怒ったんですけど消さないから、携帯にシャワーぶっかけてやったら、未央が怒りだしてケンカになって……」 戸澤はなんともいえず気恥ずかしい幸福感に襲われ、耐えきれずにテーブルに突っ伏して背中を震わせた。 「人の裸を勝手に撮るなんてありえないって言ったら、ツアー行く前に夕子の写真欲しかったとか言って、マジわけわかんないんですけど」 「ああー!」 才原と戸澤は同時に叫んだ。 磯田は、合同公演が終わった後、全国を巡演するツアー公演に主演することが決まっていた。こんなうぶで可愛い恋人を置いて一か月の旅に出なければならないのだ。磯田としてはありとあらゆる井之口の姿を携帯に収めて持ち歩きたいところだろう。携帯を壊されて怒ったのも、修理代やらアドレス帳のデータ喪失やらのことよりも、今まさに撮影したばかりのお宝画像が失われたことへの怒りに違いない。 「写真ならそのへんのパンフレットから切抜いて持って行けばいいじゃないですか。なんで裸の写真なんか……それも風呂で体洗ってるとことか、信じられない。携帯のひとつやふたつ壊されても文句言えないと思いませんか」 つらつらと不満をのべる井之口のふくれた顔も微笑ましい。口元からほのかにウイスキーの香りがするところをみると、少し酔いが回っているのだろう。普段なら絶対にこんな打ち明け話はしない子なのだ。 「パンフの写真は可哀想だよー。私未央ちゃんの気持ちわかるな」 「何言うてんねん! 勝手にヌード撮るなんて許されることやないやろ。ダメ絶対! 磯田にはきつくお灸すえてやらなあかんな」 エロ親父のくせに心にもないことを……と思いながらも、戸澤は、井之口の前で思いきりいい格好をしている才原をじろりと睨むだけにとどめた。 そのとき突然、ジャズの着信音が鳴り響いた。井之口の携帯だ。 「すみません、マナーモードにしてなくて」 急いで携帯を確認した井之口は、助けを求めるように二人の先輩を交互に見た。 「未央が新しい携帯から電話してきてる」 「出て、早く」 「でも、なんて言ったらいいか……」 「私が教えるから!」 才原の瞳は先ほどの疲れた様子が嘘のように冴えわたっている。 井之口は緊張した様子で電話を耳に当てた。 「もしもし。……え、今? 銀座の……銀座で飲んでる」 井之口は才原の『しぃっ』というジェスチャー指導に従って慌てて場所を誤魔化した。 「……何時に帰るかって?」 才原は店のナプキンにボールペンで『かえらない』と殴り書きして井之口に見せている。この返事ではケンカが泥沼化しそうだと思いながらも戸澤は静観することにした。 「今夜は帰らないから。……うるさいな、どこでもいいだろ。じゃあね」 恋人同士なのだから仕事の時とは違う言葉づかいになってもおかしくはないが、いつも礼儀正しい井之口のまるで反抗期の少年のような口ぶりは戸澤を驚かせた。 通話の後、井之口は完全に携帯の電源を切ってしまった。今夜は着信拒否をするつもりらしい。 「だいじょぶ?」 「大丈夫です。ここで許したらあいつもっと調子に乗るし」 磯田は意外と尻に敷かれているようだ。 「泊まるとこあるの?」 「寮に行って後輩の部屋に泊めてもらいます」 「きっと後でもめるよそれ……」 自分の身に置き換えて過去に金子に嫉妬された行動の数々を思い起こすと、戸澤にはそれはやめておいたほうがいい選択に思えた。磯田はツアーで会えなくなるのを寂しがっているだけなのだから、早く帰って一晩でも多く一緒に過ごせばいいのにと思う。 しかし才原は戸澤の心配をさらりとぶちこわした。 「カップルなんてもめてなんぼや」 ウェイターが井之口のコーヒーと戸澤のケーキを運んできた。新しいコーヒーの香りがたちのぼり、戸澤もお代わりが欲しくなる。 「才原さん、コーヒーもう一杯頼んでもいいですか?」 「待って。なあ井之口、それ飲んだらカラオケ行こ。せっかく明日休みやし、一晩中付き合うで」 「本当ですか? 実は才原さんにお話ししたいことがいっぱいあって……」 才原の誘いに目を輝かせている井之口を見て、戸澤は深々と溜息をついた。 「元気だねえ二人とも」 「戸澤も一緒に行くんやで。二人きりやったらそれこそ磯田が発狂するわ」 もめてなんぼと言いつつ磯田の気持ちもちゃんと考えているところが才原らしい。戸澤はハイハイと頷くしかなかった。 「わかりましたよ……でも言っときますけど私マイク離しませんからね」 「いいよ、合同公演やから出番少なくて歌い足りんやろ。はい、戸澤愛ソロリサイタル開催決定」 おざなりな拍手を浴びながら、戸澤はやけになってケーキを口に押し込んだ。 その後のカラオケには粟島と金子も有無を言わさず呼び出され、結局、磯田が知ったら間違いなく怒りそうな大宴会となったのだった。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |