花ものがたり 若葉の章 〜初デート〜

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 年が明け、やっと週末の外出禁止令がとけたというのに、瑞穂は携帯電話をぼうっと見ている時間が増えた。
 養成所の生徒たちは年末年始に二日だけ実家へ戻ることを許されたが、そのときに久しぶりに会った家族とボーイフレンドのことが頭から離れないのだ。
 入学して9か月が過ぎた今になって、瑞穂はホームシックというものを初めて経験していた。

「じゃあ、行ってくるね」

 ふと頭を上げると、日曜日の朝だというのにばっちりと髪を整え制服を着た布美子が鏡を見ていた。心なしかいつもより化粧が濃い気がする。

「どこ行くの?」
「銀座」
「何しに?」
「買い物」
「一人で?」
「どうでもいいでしょ」

 あやしい、と起き上ったとき部屋のドアがノックされて瑞穂の疑問は解けた。

「岸田、準備できた?」
「はい!」

 コートをつかんでドアへ飛びつく布美子を、瑞穂は信じられない気持ちで見送る。

「マジで? 休みだっていうのに豊原と一緒とかありえない……」

 布美子は瑞穂のぼやきを聞きもせずるんるんと出かけて行った。布美子は、わりと初めからそうだったが、もうすっかりこの学校に順応しきっている。あんなに偉そうに怒ってばかりいる二年生と、休日に二人で買い物に行くほど親しくなるなんて瑞穂には理解できなかった。だいたい、そういうときはいちばん気安い同室の相手を誘うものではないのか。

「豊原かよ……」

 瑞穂はもう一度ぼやいて携帯をいじった。年末に帰省した日から、ボーイフレンドとのメッセージのやりとりがぽつぽつと続いている。四月に入学してから年末まで一度も会えなかったのに、まめにメッセージをくれる彼はとてもいい奴なのだ。

『今、なにしてる?』
『暇』
『私も』

 時計を見ると、まだ午前10時だ。瑞穂はすぐに決断した。

『逗子の駅前のマックに来て。12時に』
『デート禁止って言ってなかった? いいの?』

 瑞穂はためらわなかった。

『いいよ』

 養成所の生徒は外出時には常に制服を着用しなければならない。瑞穂は制服に着替え、適当に髪を整えると、すっぴんのまま寮を出た。地下鉄で東京駅へ、そしてJRで実家のある神奈川県の逗子市へ……約束の12時は少し過ぎてしまったが、無事に彼と落ち合うことができた。
 逗子は海辺の町だ。瑞穂の高校時代の思い出は、ほとんどビーチでの出来事ばかりだった。夏には水着の客でごったがえす駅前のファストフードも、海水浴場が使われない冬はすいている。

「歩!」

 年中日に焼けている彼は軽く手を挙げた。

「瑞穂、その制服超目立つな」
「空港スタッフみたいでしょ」
「銀行の窓口の女みてぇ」

 瑞穂は恥ずかしくなって襟元のスカーフを外した。ジャケットの袖もシャツの袖と一緒にまくり上げ、ボタンも上からふたつ開ける。これで制服らしさはなくなったと思ったが、彼はくすくすと笑った。

「カッコいい。なんか、男みたいだな。さすが花水木歌劇団男役」
「隠し切れないオーラ出ちゃってる?」

 冗談でごまかしながらも瑞穂は少し傷ついていた。せっかく会いに来たのにおしゃれもできない自分がうらめしい。せめてこの短い髪でさえなかったらと思った。かつらでもかぶって変装すればよかったかもしれない。

「ああ。いまどき男でもそういうリーゼントとかマジありえねぇから」

 心底楽しそうに笑う様子を見て、瑞穂はやっと外の世界の空気を吸った気がした。

「でも中身は変わってないよ」
「変わってるよ。なんかもう、バリバリ社会人じゃん」
「そうかな……」
「俺なんかまだ浪人生だし。別世界の住人だよ」
「そんなことないって」

 厳しい生活のなかで人を見る目も厳しくなっているのに瑞穂は気付いた。彼は少しも変わっていないしそのことはむしろ喜ばしいのに、妙に甘えた人間のような気がしてしまう。
 だが、久しぶりに男という生き物を目の前にして、瑞穂の心はほっとしていた。女は敵に回すと怖いので無意識に気を遣うが、男には本当のことを言っても喧嘩をしても、まっすぐ受け止めてくれるという安心感がある。

「女の園ってどんな感じ?」
「楽しいときもあるけど、言葉で言い表せないくらい疲れる」
「だろうな、瑞穂なら……」

 笑っている日に焼けた横顔が素敵だと思って、自然と顔を寄せたとき、ふと手首のミサンガが目に留まった。いかにも手作りらしい、不器用なアルファベットが編み込まれた青いミサンガだ。

「……彼女、いるの?」
「いるよ」
「いつから?」
「夏ぐらい」
「二股してたってこと?」

 彼は戸惑ったような顔をした。

「二股って。何か月も音沙汰なかったし、普通フェードアウトだろ?」
「……だよね。じゃ、帰るわ。もう連絡くれなくてもいいよ」

 瑞穂は狭いスツールから立ち上がった。生まれて初めて振られた衝撃を、習い覚えた背中の演技で押し隠しながら。




 彼と別れて店を出たとき、瑞穂は、コートの下に隠した白いカッターシャツやスーツをすべて脱ぎ捨てて切り裂きたい衝動に襲われていた。社会から隔絶された寮の中で特殊なルールに従って生活しているうちに、どんどん人間が改造されていく気がする。
 同じ服、同じ髪型、一糸乱れぬ行動。外出しているときでさえも、一目で養成所生徒とわかる制服と櫛目の通った黒髪という格好を強要されるなんて、まるで囚人ではないか。
 寮の部屋に戻ると、瑞穂はまず机の引き出しからハサミを持ち出し、服を脱ぎ捨ててバスルームに飛び込んだ。シャワーで濡らした髪を左手でつかみ、右手に持った工作用のハサミを髪の根元にあてる。
 たしか校則には髪型に関する規定はこう書いてあったはずだ。『額と耳と襟足を出した清潔感のある染めていない髪』と。これに照らせば坊主は校則違反ではない、と瑞穂は思った。うんと短くしてしまえば、この決まりのために毎朝20分もかけて髪型を作っていた苦労もなくなる。
 しゃくしゃく、と音をたてて、簡単に髪の毛は切れた。まだらな坊主頭になったところで満足してバスルームを出ると、部屋のドアが突然開いた。布美子が帰ってきたのだ。

「あ、布美子、おかえり」

 布美子は下着姿で立っている瑞穂を見るなり両手で顔を覆って叫び声をあげた。

「瑞穂……! どうしてこんな……」

 見開いたきれいな目から大粒の涙があふれだす。
 瑞穂はうろたえた。怒られることは予想していたが、泣かれるとは思わなかったのだ。

「切っちゃった。意外と似合ってない?」
「なんで……、髪は女の子の命なのに……!」
「大げさだよ、またすぐ伸びるんだし」
「ばか! ばか! どうしてそんなことしなきゃいけないの? 何があったのよ」

 坊主頭を無理やり抱き寄せて泣きじゃくる布美子の胸に額を預け、瑞穂はただ驚くことしかできなかった。今までどんなに悔しいことがあってもどんなに厳しい叱責を受けても人前ではしっかりした顔しか見せなかった布美子が、声をあげて泣いているのだ。

「泣かないでよ、布美子。ダサい髪型がいやになってやっただけだから」
「嘘でしょ。本当のこと言いなさい」
「……彼氏にふられた」

 ふいに頭を離され、瑞穂はやっと布美子の顔を見られた。目は真っ赤だが、うんざりした様子で溜息をついている。

「呆れた。まだ付き合ってたの?」
「ちょっと、さっきまで私のために泣いてくれてたのに」

 布美子はポケットからハンカチを出して涙をふき、荷物を片付け始めた。すっかり普段の布美子に戻っている。

「大変なことになるわよ。すぐ制服着て、夏用の制帽かぶって。豊原主任に相談に行くから」
「ふられた腹いせに髪切ったことをお詫びに?」
「違うわ。日本の古風な人の考え方じゃ、女性の髪をそこまで短くするのは辱めなのよ。たとえ自分が好きでやったとしても他人から見たら罰を受けたように見えるの、つまり、花水木歌劇団が養成所の生徒に非人道的な仕打ちをしたって思われちゃうかもしれないの。そんな噂が世間に漏れたら大変」

 瑞穂は感心した。ついさっきショックを受けてぼろぼろ泣いていたのに、よく瞬時にここまで頭が回るものだ。

「布美子」
「何?」
「さっきは私がひどい目にあわされたと思って泣いたの?」

 布美子は冷静な表情で瑞穂を見上げた。

「そうよ。でも実際ひどい目にあわされたのは私かもしれないけど」

 完全復活してしまった布美子に少し落胆しながら、瑞穂は脱ぎ捨てた制服に再び腕を通したのだった。




 養成所の所長は、名門女子高の校長を長年務めていた女性だ。
 瑞穂はこっぴどく怒られることを覚悟していたが、所長は瑞穂の頭を見るなり眼鏡をかけたふくよかな顔をほころばせた。

「これはまあ思い切りよくなさったこと」
「申し訳ございません」

 布美子は青い顔をして頭を下げている。
 二年生に怒られるくらいでは事は収まらず、養成所長に直接詫びを言ってこれからの指示を仰ぐことになり、いちばん焦っていたのは布美子だった。文化祭で勝手なパフォーマンスをしたときも所長のところまで行くことはなかったのだ。

「杉山さんは美人だからそういう頭もお似合いだけど、これから花水木歌劇団に憧れて入ってこようとする若い人たちにはショッキングでしょうねえ」
「本当に申し訳ございません」

 布美子が自分の代わりに深々とお辞儀をしているのを見ても、瑞穂は謝る気持ちにはなれなかった。自分で自分の髪を切ったことがそんなに咎められることだとは思えなかったからだ。
 棒立ちになっている瑞穂に所長は優しく声をかけた。

「杉山さん」
「はい」
「髪が伸びるまで、部屋の外に出るときはかつらをかぶってもらえるかしら」
「わかりました。あの……、先生は怒らないんですか?」

 瑞穂は純粋に不思議に思って尋ねた。さきほどから所長はひとことも瑞穂を叱らない。それどころかにこにこしているのがかえって怖いくらいだ。

「私が叱ったらあなたではなくあなたのお友達が謝るんでしょう。何が悪かったのかは自分で気が付かなければ意味がないものですよ」

 所長は瑞穂が自分のしたことを悪いと思っていないことを完全に見抜いているのだ。瑞穂はさすがに恥ずかしくなって黙って会釈した。

「門限まであと三時間ありますから、今から岸田さんと一緒にかつらを買いに行きなさい。お金は私が貸してあげます、これはほかの人には内緒よ」
「ありがとうございます」

 停学や減給などの処分もなく、ひどく怒られなかったことにとりあえずほっとして部屋へ戻ると、布美子が鬼のような形相で詰め寄ってきた。

「瑞穂! どうして所長に謝らないの? 全然反省してないでしょ」
「当り前だよ。なんで髪型を他人に決められなきゃいけないの」
「そんなこといまさら言ってどうするのよ。私、瑞穂が退学になるんじゃないかって気が気じゃなったんだから……」

 布美子はまた半泣きの声になっている。今日は珍しく布美子の涙腺が壊れているようだった。それも全部自分がしたことのせいだと思うと、瑞穂は初めて心から申し訳なく思った。

「ごめん、布美子」
「ほんっとに心配ばっかりかけて。早く着替えて、買い物に行くわよ」

 乱暴に制服を脱ぎ始めた布美子を見て瑞穂は首をかしげた。養成所の生徒は外では必ず制服を着用しなければならない決まりのはずだ。

「私服で外出していいの?」
「今は身分がバレないようにしなきゃいけないでしょ」
「なるほど」

 また瑞穂は感心するしかない。布美子の凄いところは、ただ規則を守るだけではなく、予想しない事態が起こったときも判断力が鈍らないところだ。その点は本当に舞台人に向いている。
 瑞穂は、もう一年近く袖を通していなかった私服のシャツとセーターとジーンズに着替えてニットの帽子をかぶった。これを着ていたころの自分と今の自分がどんなに違っていることか……鏡に映る深刻そうな顔をした坊主の顔を見て瑞穂は思った。そして布美子のほうを振り返り、思わず口笛を吹いた。

「可愛いじゃん」
「やめて」

 いつもひっつめにしている髪を下ろして二つに結び、白のタートルネックにジャンパースカートを着た布美子は、年よりずっと若く見える。アメリカなら中学生でも通用するだろう。

「浮かれてる場合じゃないんだからね」

 しかし瑞穂は浮かれた。二人で、私服で、買い物に行けるのだ。卒業するまで二年間できないと思っていたことが、形はどうあれ実現するのだから嬉しくないはずがない。
 二人は地下鉄に乗り、銀座にある花水木歌劇団団員御用達のヘアサロンへ向かった。そこは団員のこまかな注文に合わせてオーダーメイドのウィッグを作ってくれる、舞台専門のヘアサロンだった。
 店の壁には長い棚がつくられ、そこにウィッグをかぶったマネキンの頭が整然と並べられている。
 布美子は学生証を出してベテランらしい中年の女性店員に見せた。

「花水木歌劇団養成所の岸田です。黒髪のショートのウィッグがすぐに欲しいんですが」
「ちょっと待ってね。今持ってきますから」

 店員は布美子の後ろにいる瑞穂をちらりと見てあきらかに驚いている様子だった。いままでこんな用途でウィッグを求めにきた団員はいなかっただろう。
 待たされることなく、すぐに数個の商品が二人の前に並べられた。

「養成所の生徒さんだったらこんな感じかなあ。ショートだと少しカールのついたのが多いのよね。これ、オリーブ色だけどすぐに黒に染められるから形だけ合わせてみて」

 瑞穂はニット帽をとりそのウィッグをつけた。

「あらまあ、本当にお似合いだわ。すてき」
「こっちの黒いのもかぶってみて」

 店員は興奮した表情でほめてくれたのに、布美子は顔色ひとつ変えずに黒いウィッグを押し付けてくる。

「私も鏡が見たいよ」
「必要ないわ。どれを買うかは私が決めます」
「ひっどい……」

 結局、布美子の鶴の一声で、ウィッグは二番目にかぶった黒のものに決まった。鏡の前で少しだけカットをしてもらい、瑞穂はそれを身に着けたままで帰ることになった。帰り際、布美子が会計をしているすきに瑞穂は店員にささやいた。

「すみません、さっきのオリーブ色のやつ取っといてください。色そのままでいいんで。来週また来ます」
「わかりました」

 布美子があまりにも即座に却下したことが気になって、そのウィッグをつけたところを自分でも鏡で見てみたいと思ったのだ。実は、布美子が鏡を見せなかったのには理由があったのだが、それを瑞穂が知るのは後のことである。
 夕暮れの日曜日、人混みの銀座を駅へ向かって歩きながら、瑞穂は布美子の腕をとって組んだ。新鮮な気分だった。布美子も自分も所属を忘れてただのひとりの少女に戻ったようだ。これが本当の休日というものではないか。

「ねえ、お茶して帰ろうよ」
「そんな時間ありません」
「五分だけ。スタバだったらいいでしょ」
「……五分だけよ」

 駅の改札のそばにあるコーヒーチェーンで、アイスコーヒーのストローをくわえる布美子を見ながら、瑞穂は不思議な幸せを感じていた。ほんの数時間前に逗子のファストフードで元彼に会っていたことを考えると、今日の一日はジェットコースターより忙しかったが、最後にこうしていられるのは信じられないくらいラッキーなことだ。明日からの地獄は考えないことにして、今はこの五分間を満喫しないともったいない。

「もっとこんなふうに自由に出かけられたらいいのに」
「卒業して劇団に入ればいつでも行けるわよ」
「劇団に入っても私と一緒にお茶とか買い物とか行ってくれる?」
「たぶん」
「そこは、もちろん絶対行くよ、って言うとこじゃないの?」
「確実じゃないことは約束できない。あ、五分たった。行くわよ」

 おしゃれな店内のBGMにもなんの未練もなく立ち上がる。布美子にとってはこの初めてのデートも休日出勤の私服勤務なのか、と瑞穂はがっかりしたのだった。



 その次の週末に、瑞穂は、オリーブ色のウィッグを手に入れた。
 ウィッグをつけた自分を鏡で見たとたん、忘れていたおしゃれ心に火が付き、わずかな給料から貯めたなけなしの貯金をはたいて買ってしまったのだ。欧米人のようなナチュラルな明るい髪の瑞穂はまるで別人のようにあか抜けて見えた。
 誰かに見つかる、などと恐れることもなく、瑞穂は買ったばかりのウィッグを身に着けて制服のまま銀座の街を歩いた。もうすぐ門限だが、帰る前に寄りたい店がひとつある。
 先週布美子と二人でウィッグを買いに来たときに布美子がぽつりとこう漏らした店だ。

「ここのチョコレート、すごくおいしいんだ……前にお父さんがバレンタインでもらってきたのを食べたことがあるの」

 バレンタインデーという日本特有の行事の洗礼を瑞穂は15歳で帰国したその年に受けていた。チョコレートはともかく、告白をする日が決まっているというのは便利なものだと思った。友達同士での手作りチョコのやりとりは面倒くさく感じたが。
 そして今年も、もうすぐバレンタインデーがやってくる。

「布美子にチョコ買ってあげようっと」

 いつも心配をかけたり怒らせたりしているだけではなくて、たまには感謝と好意を伝えてしっかりしているところを見せたい。そして何よりも喜んでほしい。瑞穂は布美子の笑顔が見たかった。

「いらっしゃいませ」

 白い手袋をした店員に微笑みかけられ、瑞穂はショーケースのそばへ歩み寄った。女性たちで混み合う店内で、高い身長を生かし、ほかのお客の肩越しにのぞきこむ。整然と並べられたチョコレートの粒はつやつやと光り輝いていた。かわいらしいボックスにリボンをかけた詰め合わせのコーナーもあり、プレゼントにはこれが良いだろうと値段を見て驚いた。手持ちの現金ではとても足りない。
 ウィッグを買うのに思いのほかたくさんお金を遣ってしまい、財布には千円しか入っていなかった。電車賃を引いたら800円ちょっとしかない。

「どうしよう……」

 諦めて店を出るのは悔しくて、しばらくその場にとどまっていると、突然声をかけられた。

「誰にあげるの?」

 その声の主は知らない人だった。ニットの帽子にべっこうぶちの眼鏡、長い脚を細いジーンズに包み、高そうなダウンジャケットを着ている。

「杉山君でしょ。いいの? ウィッグのその色、校則違反じゃん」

 その人は花水木歌劇団の男役だ、とやっと瑞穂は気が付いた。つまりは先輩である。さすがにもう体に染みついている反射で一礼をした。それにしてもまずいところをまずい人に見られたものだ。

「これは地毛です」

 苦しい言い訳をしてみたが、相手はにやりと笑った。

「嘘はよくないなあ。髪の毛全部自分で剃っちゃったんだって? 校則どおりにセットするのが面倒だからって。劇団じゅう知ってるよ」

 瑞穂があの事件を起こしてからわずか一週間しかたっていないのに、もう噂が広まってしまったらしい。

「恐れ入りました。でも、染めるのは禁止ですけどウィッグの色は校則には載ってません」
「書いてあるよ。第五条、化粧・髪型は整列時に一様に見えるよう整えるべし、って」

 すらすらと養成所の校則をそらんじる劇団員に瑞穂は全面降伏するしかなかった。

「すみません。先生には黙っててください」
「そうね。バレンタインのチョコくれたら考えてもいいな」

 なんと先輩は口止め料を要求してきた。しかし瑞穂には払いたくても先立つものがない。

「お金、ないんです。千円しか」
「え?」

 先輩は一瞬あっけにとられた様子だったが、瑞穂がプレゼントを買えずにいたことを知ると、この店では一粒からでも買えることを教えてくれ、さらに瑞穂へのプレゼントだと言ってチョコレートを買ってくれたうえにタクシーで寮まで送ってくれた。

「早く劇団員になりたいです」

 タクシーのなかで瑞穂が深い溜息とともにそう言うと、実は優しかった先輩は、

「どうして?」

と聞いてきた。

「お金いっぱい稼いで布美子にちゃんとしたプレゼントしたいし、髪型とかファッションも自由にして門限気にせずデートしたいし……。とにかく今は布美子に迷惑かけてばっかりだから早く一人前になりたいんです」
「それじゃああと一年がんばらないとね」

 先輩は瑞穂の肩をぽんぽんと叩いた。

「大丈夫。この一年がんばってきたんだから」

 養成所に入って以来、こんな優しいねぎらいの言葉をかけられたことは初めてだった。何をしても怒られ、また何もしなくても怒られて、そのたびに杉山は一〇六期の問題児だと言われてきた。その悔しさと反発心で今までやめずにやってこられたようなものだ。
 自分なりに言われたことをこなそうと一生懸命やってきたつもりだが、それを認めてくれたのは今のこの先輩が初めてだったのだ。

「ありがとうございます。がんばっていい成績で入団して、絶対トップになってみせます」

 笑われるかと思ったが、先輩は真顔で瑞穂を見つめた。

「うん。君ならできるよ」

 そのとき瑞穂の胸に初めての小さな自信が芽生えた。


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