花ものがたり ―百合の章―

【赤星麻矢side】


 自分が他の子よりもバレエがうまいことに気がついたのは小学校五年生で初めてコンクールに出たときだった。とても厳しいバレエ教室に通っていたから、それまで先生に褒められた経験がなくて、バレエが得意という感覚はまったくなかった。
 その初めてのコンクールで優勝して以来、スクールの受付には私の写真が飾られ、同級生からも麻矢さんと呼ばれるようになった。練習はいっそう厳しくなったけれど、私自身がますます熱心にもなっていった。プロになりたいと思い始めたのもそのころだ。
 中学生になり高校からの留学も視野に入れ始めたときに、スクールに入ってきたのが晶だった。晶はバレエの経験がまったくなくて、花水木歌劇団の劇団員養成所に入りたいからという理由でバレエを始めたと聞いた。
 それが、私が花水木歌劇団というものを知った最初だった。
 つまり私は花水木に憧れて入団したんじゃなくて、あくまでもプロのバレエダンサーを目指していたのに、そこへ現れた晶という同い年の少女に狂わされて、彼女と同じところへ行きたいという不純な動機だけで花水木歌劇団養成所に入学した。
 晶は、一目見た瞬間から私の心をつかんだ。ひっつめにしていても艶がわかる真っ黒でさらさらのストレートヘアと、ほくろひとつない白い肌と、黒目がちの吊り目。子供のくせにダイエットをしていた私がどんなに頑張ってもああはなれないと思うくらい薄っぺらい体つき。愛想笑いもしなければおどおどすることもない落ち着き払った無表情。自分がこうであったらよかったのにと思うすべてを晶は兼ね備えていた。
 私はスクールの中では特別扱いで、いつも教室の片隅で先生のマンツーマンの指導を受けていた。でも、晶はまったくの初心者だったので、小学校低学年の子たちに交じって基本のレッスンを受けていて私のことを一切見ようとしなかった。晶は自分のバレエを上達させるためにここに来ているんであって、受験に合格するという目標もあるんだから、他人なんて知ったことではないんだろうと頭ではわかっていても、なぜこの子は生徒たちの憧れの的である私の踊りに興味を抱かないのだろうと不満だった。

「ねえ、晶。アイス食べに行かない?」

 ある日のレッスン帰り、私は長い葛藤の末に負けを認めて自分から晶に話しかけた。
 でも晶はすまなさそうに眉を下げて答えた。

「ごめんなさい、帰らなきゃ」

 私はあっさり引き下がった。まあそうだろう。晶は電車で一時間以上かかるところから通っているらしいと聞いていた。歩いて家に帰れる私とは違う。
 しかしそれからも私はときどき声をかけた。スクールに通い始めて二か月もすると晶はバーレッスンを完璧にこなすようになったので、うまくなったねと言ったこともある。それでも晶は、

「まだまだこれからだから」

と、なんの感情もなく単純な事実のように言っただけだった。もっと年上の高校生のお姉さんだって、私に褒められて喜ばない人なんかこのスクールにはいないのに。
 中学卒業を控え、私は海外留学をかけたコンクールに出て、奨学金をつかみ取った。イギリスへ行くことが決まりかけていたそのとき、ロンドンで地下鉄テロ事件が立て続けに起こって親が反対し始め、高校卒業までは日本にいることになった。
 実は、私はそれでも落ち込みはしなかった。どうしてかって、そのころはもう晶に夢中だったからだ。
 もともと体操をやっていたという晶は身体能力が高く、中学三年のころにはもうかなりバレエが上達していた。私もときどき一緒に練習するようになって、二人でフロアで踊ったりもした。晶と一緒に踊れるときは嬉しくてたまらなかった。
 晶との会話はいつも一方的ですぐに途切れてばかりだったけれどひとつだけ盛り上がる話題があった。花水木歌劇団のことと、その受験についてだ。

「受験っていつなの?」
「高校卒業資格が必要だから、大学受験と同じとき。毎年三月にあるの」
「何回受けられるの?」
「入学資格は二十歳までだから、三回」
「試験科目はバレエだけ?」
「バレエと日本舞踊と声楽。それと英語と面接がある」
「うわあ、大変だね。日本舞踊と声楽も習ってるの?」
「うん。週に一回、バレエが休みの月曜に」
「それじゃあ休みないじゃん」
「うん」
「そこまでしても入りたいの?」
「絶対入る」

 そう言い切ったときの晶は、いつもの冷静さとは真逆の激しい感情を瞳にみなぎらせていた。晶がそこまで情熱的になるほどのものなのか…その、花水木歌劇団は。

「私も受けようかな」
「やめて」

 なぜ、と聞かれるわけでもなく、即答でやめてと言われて私はむしろやる気になってしまった。

「なんで?」
「麻矢さんが受けたら受かっちゃうから枠が一つ少なくなる」
「そんなことないよ。私、日本舞踊も歌も英語もできないのに」
「身長が高くて美人でバレエが踊れたら、あとはできなくても受かるの」

 私は単純に舞い上がってしまった。晶に美人と言われたことに。だからそれを言ったときの晶の気持ちがどんなものだったかにはまったく無頓着だった。

「へえ。晶と同じ学校なら行ってみたいな」
「だからやめてって言ってるじゃん。そういう興味本位な人が受けると迷惑なの。花水木のこと好きでもないくせに」
「でも晶のことは好きだよ」

 晶は汚いものでも見るような目で私を睨み、立ち上がって自主レッスンをしに行ってしまった。一秒でも無駄な時間を過ごしたくないというように。
 それから私は留学をあきらめて高校に通いながら花水木歌劇団養成所受験コースに鞍替えし、三年後にストレートで合格した。私も晶も三年間の間にまるでできなかった受験科目をそれなりのところまでレベルアップしていたけれど、晶は不合格になって、私だけが受かった。同時に合格の喜びを分かち合って同期になれば親友になれるのではないか、という希望が叶わなかったことに私は落ち込んだが、晶の落ち込み方はそれどころではなかった…当然だけど。
 せっかく養成所に合格したのにほとんど口をきくこともできないまま一年が過ぎた。私は養成所一年目の厳しい生活に慣れるのと理不尽に耐えるのとでいっぱいいっぱいだったし、晶は翌年の受験のために必死になっていたから。そして一年後の春、入寮式で、私たちは再会した。

「井筒晶さん、身長一六八センチ? ここに並んで」

 私の同期の主任である小柴広海が一年生たちを背の順に並ばせているときに私は初めて晶に気づいた。というのも、バレエスクールで一緒だったときの晶は身長が一六三センチとそんなに高くなかったので、私は娘役になるものだと信じ込んでいたのだ。それがたった一年でこんなに背が伸びるなんて。そしてショートカットの髪型と、痩せて顎のラインがシャープになった顔立ち、すっかり大人っぽく鋭くなった目つきのせいで、まるで別人のように変わっていたのだ。
 晶は驚くほど恰好良かった。花水木歌劇団に関してはファンとして日の浅い私ですら、養成所に入っただけの段階でこんなに男役としての雰囲気が出来上がっている生徒はめったにいないと思った。そして惚れ直した…いや、完全に恋してしまった。

「晶! 久しぶり! 合格おめでとう」
「…麻矢さん…お久しぶりです」

 晶はさりげなく後ろに距離を取って規則通りのお辞儀をした。

「そんなに他人行儀にしないでよ。友達じゃない」
「ここでは先輩と後輩なんだから、ルールを守らないと私の立場が悪くなるの。やたらに話しかけないで」
「そっか…じゃあしょうがないね。何か困ったことがあったら何でも相談して」
「だからそういうのがダメなんだって」

 晶の言おうとしていることはわかる。厳しい上下関係のなかで特定の下級生にだけ笑顔で接したりしようものなら、えこひいきってことになって、晶は針の筵だろう。
 でも私はせっかく同じ学び舎にいて同じ建物のワンフロア違いに住んでいるのだから、晶と仲良くしたいという気持ちを抑えられなかった。そして自分には下級生に憧れられる存在だという自信があった。
 晶のほうから私に興味を持たせ、惚れさせ、私からのアプローチを喜ぶようにさせるにはどうしたらいいのか考えられるかぎりのことをやった。とりあえず成績を上げるために猛烈に勉強とレッスンに励んだし、容姿を磨くためにヘアメイクとスキンケアも研究した。そして、花水木歌劇団のモテる男役の先輩たちを研究して『みんなの憧れ』の存在になろうとした。そのおかげか、たくさんの下級生に告白されて、経験を積みたいという気持ちと晶の反応を見てみたいという気持ちから誰も断らずに受け入れた。
 でも、晶はまったく私に近づいてこなかった。それどころか避けられ始めたのだ。
 卒業式の日、入団すれば舞台で忙しくなってもう一緒にいられる時間がなくなると思った私は思い切って晶を呼び出した。

「あのね、晶、私…」
「何?」
「晶がいたから、花水木歌劇団のこと知れたし、ここに入れたし、卒業まで頑張れたんだ。私が将来劇団員として成功したら…それは晶がきっかけで、晶のおかげだってことを言いたくて」
「………」

 晶の顔には、それが何、と言いたげな表情が浮かんでいた。

「ありがとう」
「私は別に何もしてないし。ご卒業おめでとうございます」

 そのとき、私は絶望した。この一年で、いや、晶に初めて出会った日から今までの長い年月で、私は晶との距離をまったく一ミリも縮めることができなかった。同い年なのに、同じバレエスクールに通っていたのに、同じ学校に通っていたのに、同じ寮に住んでいたのに。それほど私は嫌われる人間なんだろうか? いいや、晶以外の人には嫌われたことはないし、むしろ好かれるほうだと思う。でも、どうして、好きな人に限って振り向いてはくれないんだろう。
 私は渡そうと思っていた自分の制服のスカーフを、とうとう晶に渡すことができなかった。

******

 総務部長室に呼ばれたのは、松団公演の顔見世舞踊ショウ"夢と魔法のファンタジア"とミュージカル"新撰組血風録"の千秋楽の一週間後、松団の11月公演の顔合わせ初日のことだった。

「失礼いたします」
「赤星君、座って」

 総務部長の平井さんは花水木歌劇団が始まって初めての女性の総務部長で、劇団員出身の大先輩だ。人事の大本を握っているこの役職に劇団員出身者が就任したことは、私たちにとって大きなニュースだった。
 いつもおしゃれな色合いのスーツを着こなしている平井部長は、私の向いに座りながらソファをすすめた。

「もう薄々わかっていると思うんだけど、11月公演の次の公演で今の松団トップコンビの佐藤君と入間君が退団することに決まったの」
「はい」

 花水木歌劇団ではトップの任期は三年だから、そろそろやめるのだろうということは誰にでも推測できる。

「それで、次期松団のトップをあなたにお願いしようと思っているんだけど」
「私ですか!?」

 あまりに予想外の言葉に、さすがにびっくりした。
 だって、トップコンビがやめても準トップは残るわけだし、その準トップの諌山さんはトップに上がるものだと思っていたし、さらにその次の準トップには私の同期の小柴広海がなるものだと思っていたからだ。

「諌山さんはどうされるんですか?」
「梅団のトップになってもらうの。杉山君と岸田君と高村君が同時に辞めるからその後に入ってもらわないといけないのよ。あなたを梅団にやってもよかったんだけど、竹から松に来たばかりなのにまた異動させるのは酷だから」
「じゃあ、広海は?」
「準トップよ。あなたの下で。というか、二人で松団を引っ張っていってほしいの。二人ともまだ若いから、実質的に同期二人でダブルトップのような形になると思うけど、でも真ん中はあなた」
「広海がそれでいいって言うと思います?」
「さあね。でも前から準トップになりたいと言っていたし、あなたの任期後は小柴君がトップになるから、文句はないんじゃないかな」

 そんな…。
 私は絶句してしまった。魅力的なスターになって晶に振り向いてもらいたいという気持ちは常にあったけれど、いわゆる出世欲というようなものは私にはなかったから、トップになることを目標にしていたわけではない。
 まだ慰問公演での主演を一度経験したことがあるだけの私なんかがトップになって、広海を準トップにしてやっていくなんてできるんだろうか…。

「正直、不安です」
「周りが全力でサポートするから安心して。舞台に関しては小柴君と半分ずつ担いあうと思ってもらえればいいし」
「娘役トップは誰なんですか?」
「あなたは誰がいいの?」

 そうだ。娘役トップを選任するのはトップの仕事なんだった。
 私はごくりと唾を飲み込んだ。

「…井筒晶はどうでしょうか」
「いいと思うわ。ここに呼んで話しましょう」

 平井部長は内線電話で秘書を呼び、晶を総務部長室に来させるように言った。
 急に手のひらに冷や汗が出てきて、私はズボンの膝を握った。夢想さえしたことがなかった、自分と晶がコンビになって団を率いる、という作り話のような出来事が、実現可能な状況になっている。これは恋人どころの話じゃない。劇団に命をかけている晶にとって、トップコンビを組む相手というのは結婚相手のようなものだろう。
 十年以上も努力してきたことが思いがけなくようやく形になろうとしている。もし晶が相手役を引き受けてくれるのなら、私は喜んでトップになろうと決意していた。

「井筒です。失礼します。…あれ、麻矢さんも?」
「どうぞかけて。二人に話があるの」

 紫色のシフォンのワンピースを着た晶が隣に座り、いつもつけているエキゾチックな香水の香りがふわりと漂った。

「私も部長にお話があります」
「じゃあ先にそちらを伺いましょうか」

 私は晶の横顔を見つめた。こんなに至近距離で隣に座っているのに、晶はまっすぐ平井部長のほうだけを見ている。私がここにいて聞いても良いような話なのだろうか。

「実は、次回の公演から男役に戻らせていただきたいと思っています」
「えっ!?」

 部長よりも先に私のほうが声を上げてしまった。なんだって? そんな話は聞いたことがない。男役から娘役へ変わる人はいても、その逆なんて。晶が男役だったのは入団して最初の二年間だけで、娘役に転向してもうすぐ丸四年になる。今さらどうして、突然、それもこのタイミングで?

「本当に申し訳ございません。もともと娘役になったのは、本当は、私的な理由で…でもそれは間違っていたと気が付いたんです」
「私的な理由って?」
「組みたい人がいたんです、どうしても。でもその人が別の相手と組んで生き生きとしているのを見たら、私のしていることは独りよがりだと痛感しました。ずっとその人のことを縛っていたんだと。…それに今回の公演の間、その人には恋人ができて」

 私はもう誰が見てもわかる愕然とした顔で、取り繕おうとする努力を放棄して晶を見ていた。
 娘役になったのは、組みたい人がいたからなの? それが翔子ちゃんなの? 晶は翔子ちゃんのことが好きだったの? そうと知らずに私は翔子ちゃんと付き合っていたの…?

「そのことで私は精神的に不安定になってしまって、個人の感情を仕事に持ち込むべきではないと深く反省しました」

 晶はストレートの黒髪を垂直に落として深々と頭を下げた。

「男役としてまた一から出直したいと思います。許していただけますでしょうか」

 平井部長は困った顔をして私を見た。そりゃあ、今からトップ娘役を打診しようとしていたところだったんだから、困るしかない。

「それは、好きな人とくっつきたくて娘役になったけどふられたからまた男役に戻りたいっていう風に私には聞こえるんだけれど」
「そう思われても仕方がないと思います」

 晶は唇をまっすぐに引き結んで表情を凍り付かせている。

「ちょっと待って。私的な感情を仕事に持ち込んでるって自分を責めてるなら、私も同じだよ、晶」

 完全に無視されていた私は、晶の視線を強引にこちらへ向けさせた。

「そもそも晶と仲良くなりたくて花水木歌劇団を受験したんだし、晶に振り向いてもらいたいからいい成績とってスターになれるように頑張ってきたんだもん。そして今さっきまで私、晶を娘役トップに指名しようとしてたんだよ」
「えっ…?」

 晶はやっと私をまっすぐに見つめた。見つめられると改めてしみじみと実感してしまうくらいに綺麗な人だ。

「晶とコンビになれたら夢みたいだなって心のどこかで思ってた。初めてバレエスクールで会ったときから晶のこと好きだったけど、晶は全然私の気持ちに気付いてくれなかったよね」
「それって…もしかして、たくさんの人と付き合うのも、私の気を引くためだったの?」
「そんな馬鹿なことしてもしょうがないとは思ってるけど、寂しかったし、そうだったのかも」

 晶は静かに息をついて俯いたあと、凛々しく顔を上げた。

「私、麻矢さんとコンビは組めないよ。男役に戻るからとかじゃなくて、そんなふうに私のことを思っている人とは仕事ができない。ごめんなさい」
「…そうだよね…」

 脈がないなんて昔からわかっていたけど、それでも、茫然と呟いたっきりしばらく思考が停止していた。
 晶はずっと翔子ちゃんが好きだったんだ。私の長年の生きる動機は木っ端微塵になった。
 と同時に、松団のトップになれるという大きすぎるチャンスも一気に魅力を失った。
 長い間舞台に立つために一生懸命努力してきたはずだけれど、私の中には花水木歌劇団の舞台に男役として立っていたいという気持ちがほとんどない。子供のころ、バレエダンサーには確かになりたかったと思う。でも、その後晶に出会ってから目的は変わってしまった。

「部長、井筒以外の人は思い浮かびません」
「思い浮かんだとしてもその人が可哀想よ。劇団としてもすごく残念だけど、あなたたち二人に松団を任せるわけにはいかないわ。どうしてそこまでこじらせちゃったの?」

 平井部長はもっともなことを言って私たちを苦笑いさせた。

「トップには諌山君を残すことにするから、この話はなかったことにしましょう」
「広海はどうなるんですか? 私がトップじゃなくても広海はちゃんと準トップになれるんですよね?」
「ええ。小柴君は安定しているもの。わかってるでしょうけど、発表まではオフレコでお願いね」
「もちろんです」

 私はほっと胸をなでおろした。正直なところ広海を自分の支え役にして上手く付き合っていく自信もなかったし、広海だって晶を相手役にしたがっていたから、もし晶がトップ娘役を引き受けてくれていたとしても気まずかっただろう。
 晶は一瞬ちらりと気づかわしそうに私の方を見やった。自分が相手役を断ったせいで私がトップになる機会を失ったと思っているのかもしれない。それは確かにそうなんだけど気にしてほしくはなかった。

「私には身に過ぎたありがたいお話でしたが、こうなってほっとしてます。異動してきたばかりの私がトップになるより、諌山さんがトップになられた方が松団のみんなはやりやすいと思いますし…」
「未練はないの?」
「まったく」

 晶の体の力が抜けた気配が伝わってきた。平井部長は呆れたように眉を上げた。

「もったいないわね、あなたのような人にモチベーションがないのは…。あ、井筒君の男役復帰問題だけど、うちではそもそも全部の役がオーディションで決まるから好きな役を受ければいいわ。男役として認められれば役がもらえるし、そうでなければ…。そこは本人の決断と覚悟次第」
「はい。新人のつもりで精進します」
「七年目はまだ若いわよ」

 平井部長は晶にそう言って、私を見た。

「八年目もね。赤星君、あなた自分で思っているより舞台が好きなのよ。客席からパフォーマンスを見ればわかる。どんな目的でここに来たとしても、これから本当のキャリアを作っていけばいい。決して遅くはないと私は思うわよ」

 私は言葉を発することができなくてただ深く頭を下げた。
 総務部長室を出て、もう帰るという疲れ切った顔をした晶と別れ、私はロッカールームへ行った。ロッカーの中に置きっぱなしにしているメイク道具やシャワーグッズを全部持って帰ることにしたからだ。いったんロッカーをからっぽにして掃除をして、明日からはすべて新しいものをそこに置いて、新たな気持ちで始めたい。
 晶が私を見ていないことをあんなに思い知らされたばかりなのに、私は意外にもそんなに傷ついていなかった。これまでは晶のことを考えるたびにうっすらと辛い気持ちがよみがえって、私のことを慕ってくれる誰かに縋らずにはいられなかったのに、どうして急に余裕ができたんだろう。
 もしかしたら、平井部長にトップにならないかなんて言われたからなのかもしれない。自分は花水木歌劇団を好きではなかったけれど、歌劇団は自分を見てくれていた。そして最高のオファーをくれた。そのことが、知らないうちに何かのバランスを取ったのかもしれない。
 バッグに荷物を詰めていると後ろから声をかけられた。

「…麻矢さん」
「翔子ちゃん?」

 振り向こうとしたら後ろから抱きしめられた。付き合っていた一ヶ月の間、時間がないからという言い訳で翔子ちゃんは随分早いスピードで私との距離を縮めてくれて、家で一緒にいるときなんかはいつもこうやってべったりしていたのだ。
 千秋楽の日に「これでさよならだね」と言ったときの涙は、私の心まで締め付けられるようだった。私だって完全に晶への当てつけだけで付き合っていたわけじゃない。養成所の卒業式で晶にスカーフを渡すことができなかったあの時から、常に誰かが寄り添っていてくれないと不安を感じるようになって、恋人は途切れなかったけれど、それでも誰でもよかったわけではない。翔子ちゃんのことはそれなりに…いや、かなり気に入っている。できればもっと長く一緒にいたかったけど、千秋楽に別れるという条件を出してきたのは翔子ちゃんのほうなのだ。

「どうしたの。相変わらず甘えん坊だね」
「どうして片付けてるんですか? もしかして、辞めるんですか?」

 翔子ちゃんの声が潤んで、鼻をすする音がした。

「違うよ。中身を入れ替えようと思って」
「なんだ…。良かった」

 耳の側で溜息が聞こえて、それでも翔子ちゃんは全然離れようとしない。

「…ロッカー掃除するから、ちょっと離してくれる?」

 骨ばった手の甲をぽんぽんと叩くと、翔子ちゃんは逆にぎゅっと私のシャツを握りしめるようにしがみついてきた。

「さっき、晶さんに、ペアを解消するって言われました。麻矢さんと別れたらまたペアに戻ってくれるって約束だったのに…。私、独りぼっちです」
「そっか。でも、仕方ないよね。男役どうしのペアってだめなんでしょ?」
「そりゃあ、男役どうしでペア組んでいいんだったら私、麻矢さんとペアになりたいですよ」
「いや、…ああ、もしかして聞いてないのか」
「何かご存じなんですか?」

 翔子ちゃんは掴んでいた手を離して私の顔を肩越しに覗き込んできた。

「晶、男役に戻るんだって」

 翔子ちゃんの目が面白いようにまん丸になって、くるんとした茶色っぽい瞳が全部見える。

「えええええっ! 本当ですか!?」
「うん」

 翔子ちゃんのことが好きで娘役になったうんぬんという件については黙っておこう。それは翔子ちゃんは知らない方がいいだろうし、私個人的にも知らせたくないし、だいいち晶が言うかどうかを自分で決めるべきことだ。
 翔子ちゃんはさっきまでぐずぐず泣いていたのが嘘のような明るい笑顔を浮かべた。

「なんか、嬉しいな…。晶さんの男役、めっちゃカッコいいんですよ! 私は一公演しか見たことがないんですけど。視線がビシビシ決まって、クールで、声がよくて、ダンスも素敵で、とにかく憧れてました。娘役もカッコいいけど、娘役だと組んだ相手のこといちばんに考えなきゃいけないし、私に合わせてくださったり私の世話焼いたりしていただくのがもったいないなってずっと思ってたんです。晶さんの男役がまた見られるんだったら…ペア解消するのは悲しいけど、でも、それよりもずっと、良かったなって思います」

 私は翔子ちゃんのキラキラした目を見ながら、どこか"負けたな"という気持ちを味わっていた。晶が男役になって相手役として組めなくなったのは同じなのに、ちょっと待ってと思いとどまらせようとした私と、良かったと喜んでいる翔子ちゃんとでは、どちらが本当に晶を理解し味方になっていると言えるだろうか。
 結局、私の晶への思いは、独りよがりなものだったんだろう。少なくとも翔子ちゃんよりも。

「そうなんだ。それを聞いたらきっと晶も喜ぶんじゃないかな。たぶん、翔子ちゃんをひとりにすること悪いと思ってるだろうから」
「しっかりしなくちゃいけませんね、私…。今まで晶さんにめちゃくちゃ甘えてたから」
「もう大丈夫でしょ」

 そう言ってあげると、翔子ちゃんははにかんで私の背中から離れ、ぺこりと会釈した。
 そして、何か思いついたようにあっ、と小さく声を上げた。

「麻矢さん…、あの…、言いにくいんですけど、千秋楽でお別れするって約束でお付き合いさせていただいたのは、晶さんとペアを解消しないですむようにっていう理由だったんです。だから、その…、もう、その理由は、なくなったっていうか…、えっと…」

 照れてもじもじと視線を逸らす翔子ちゃんを見て、私は思わず笑ってしまった。本当に可愛いんだから。

「いいよ、言ってごらん」
「もうちょっと、延長してもいいですか?」

 不安そうな瞳で見上げてくる翔子ちゃんのふわっとした頬に手を添える。

「ちょっとでいいの?」
「はい…贅沢は言いません…」
「じゃあ、延長しようか。まだ二人でしてないことも行ってない場所もいっぱいあるし」
「ありがとうございま…」

 お礼を言いかけた翔子ちゃんの唇をふさいで、不慣れな相手ならではの不器用なキスを楽しむ。誰が来るかわからないロッカールームで。
 変わろうと思った矢先にやっていることが今までと全然変わらないのには苦笑してしまうけれど、晶への気持ちを引きずったまま他の人を慰めにして終わることだけは、もうしない。翔子ちゃんと付き合うのは翔子ちゃんが晶の思い人だからじゃなくて、そんな余計なことを知る前に、もう人として惹かれていたからだ。
 そして、ひとつだけ確かなのは、たぶん今の私は前よりも舞台を好きになっているだろうということだった。明日からオーディションが始まる松団公演で、私は自分のために舞台に立つ。


百合の章 終わり
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