花ものがたり ―百合の章―

【井筒晶side】


 千秋楽が過ぎて翔子ののぼせ病がやっとおさまるかと思ったら、そう思った通りには行かなかった。
 松団の次の公演『新撰組血風録』で、田代彪蔵と加納惣三郎という衆道のカップルが登場するのだが、その二役になんと麻矢さんと翔子が配役されたのだ。
 香盤発表を見たときの翔子は、喜ぶとかそういう範疇を超えて動揺に顔色を青くしていた。男同士の濡れ場という未知の領域に挑まなくてはいけない上に、その相手が大好きな麻矢さんだというのだから。そしてこの加納という役柄は、今まで翔子が演じてきた役の中では破格といっていいくらい主要なキャラクターだ。こんな大役がつくなんて、翔子にとっては飛躍する大チャンスといっていい。

「晶さん、どうしよう…!!」
「早く挨拶行ってきな」
「行けないよ!」
「何が行けないんだよ。さっさと行ってこい!」
「付いてきてください…お願いします…」

 お願いされて挨拶に連れて行くと、案の定楽しそうな麻矢さんがニコニコしながら翔子の頭を撫でようとしたので、私は隣から手を伸ばして翔子を無理やりお辞儀させた。こんなところで気安く触らなくても、後でいくらでもラブシーンをやってくれ。

「すごいね、翔子ちゃん! 私たちまたカップルだよ。男役どうしで二作続けてって、奇跡だよね」
「ふつつかものですが、よろしくお願いします…! 私、今まで台詞ろくに喋ったことがなくて…お芝居がちゃんとできるかどうか不安ですが、死ぬ気で麻矢さんについていきます!」
「こちらこそよろしくね。私も男同士の恋愛ものって初めてだからさ。でも相手役が翔子ちゃんなら安心できる気がする。遠慮しないで何でも話し合おうね」
「はい!」

 麻矢さんは私のほうを見た。

「ごめんね、晶。また翔子ちゃん借りるよ」
「とんでもない。ビシバシ鍛えてやってください。手加減なしでOKですから」
「晶さ〜ん…」

 私は会釈してすぐにその場から離れ、ロッカールームに向かった。あの二人の、特に麻矢さんのいる空間にこれ以上同席したくなかった。麻矢さんは巧妙なほどにさりげなく私に対してマウントを取ってくる。言葉を受け取る私の心が歪んでいるのかもしれないけれど。
 だから私は子供っぽいとわかっていてもマウントを取り返さずにいられない。

 麻矢さんと私は同い年で、中学生のときから地元の同じバレエスクールに通っていた。私が入ったときにはすでにそのスクールの花形だった麻矢さんは、花水木歌劇団養成所の受験を目指す生徒たちのなかでは容姿も技術も抜きん出ていて、合格間違いなしと言われていた。それにひきかえ、中学から本格的にバレエを始めた私は平凡な生徒で、合格できるとは思ってもいなかった。同い年で同学年なのに、私は劇団の養成所に入る前から麻矢さんのことを「さん」付けで呼んでいたし、麻矢さんは私を晶と呼び捨てにしていた。そのことを不思議だともなんとも思っていなかった。
 麻矢さんは当然のようにストレートで合格し、私は翌年に合格して、麻矢さんの後輩として養成所の一年を過ごした。
 そのときに知ったのだ。麻矢さんのプライベートの悪癖を。

「ねえ晶、聞いて。私、赤星さんと付き合うことになったの!」

 別々の同級生からその報告を三度目に聞いたとき、さすがにおかしいということに気が付いた。ほんの一ヶ月の間に、後輩三人? とっかえひっかえも良いところじゃないか。いや、その前に、前のあの子とは別れたのか、それとも…。
 私はそれを知っても、本人たちに告げ口したり麻矢さんを問いただしたりすることはなかった。巻き込まれたくなかったからだ。養成所や寮で麻矢さんに懐かしそうに声をかけられても、礼儀正しくあっさりと接するよう注意深く振舞った。
 そのせいでかえって気に入られているらしいと人の噂に聞いたけれど、私にとっては関わりたくない話だった。その頃は男役を目指していて24時間のすべてをそのために捧げていたし、出来の良いほうではなかった私はとにかく成績を上げるのに必死だったのだ。
 麻矢さんが養成所を卒業して竹団に所属してからは疎遠になり、まったくといっていいほど顔を合わせなかった。
 しかし、竹団から松団に異動になったと聞いて嫌な予感がした。もしかしたらこの異動は、麻矢さんが竹団で何か人間関係のトラブルを起こして居づらくなったからではないか、と。
 そして松団に来たとたん、翔子をあっという間にメロメロにしている。
 翔子…私のペアの相手役。私の妹。私の天使。あの子への気持ちを一言に言い表すことなんてできない。
 翔子があのときの同級生と同じように麻矢さんの恋人(たちの中の一人)になるのかどうかは本人の意思次第だけれど、私としてはできることならそうなってほしくなかった。
 …いや、絶対にノーだ。

 あの子に初めて会ったのは、翔子が松団に配属されたときだった。

「よっしーって呼んでください!」

 元気よくそう叫んだ彼女は背が高い割には子供っぽい風貌で、最初に感じたのは自分とは芸風がまるで違う男役に育ちそうだということだった。その後に台本を配ってくれたときも特に個人的に言葉を交わすことはなかった。私は、よろしくねとか頑張ってねとか気軽に声をかけてやるような先輩ではないから。
 松団には、新たに配属された一年目の新人に課される試練がある。配属後、最初に出演する作品の配役決めオーディションで、すべての役に挑戦しなければならないのだ。まだ一度もオーディションというものを経験したことがない新入団員が先輩たちを蹴落として役をつかみ取る戦いに参加するのは、強制でもなければかなり気が引けるものだから、このしきたりは合理的だと思う。私自身も最初にこの洗礼を受けて、全部の役を自分なりに必死に演じ、そのおかげで次の公演のオーディションでは気後れすることなく自分の希望する役を受けることができた。
 初めてのオーディションで翔子はひときわ皆の注目を集めていた。身長173センチの男役が老婆の役をやったり小さな男の子の役をやったりするのだから目を引くのは当然だが、そのなかでも翔子はものすごく不器用で、ありていに言えば下手だったのだ。審査をするだけのはずの演出家たちが見かねて指導するほどに。
 それでも翔子はまったくめげずに元気良くはいっ!と返事をして、笑われても怒られても切り替えて次の役へ次の役へと向かっていった。私もその根性に感心したが、周りの劇団員たちも「あの子いいよね」と翔子への好感度を隠さなかった。最初から出来る子よりもこういう打たれ強さのある根っから太陽のように明るい子のほうが見どころがあるのはこの世界の常だ。
 私とはまったく違う意味で、翔子はスターの卵だ。男役をプロとしてやっていくには、上手い下手よりも愛される力が物を言う。羨ましいとまでは思わなかったが、今は私が男役として先輩面でアドバイスしていてもゆくゆくは追い越されるのだろうし、それでもきっと彼女のことは憎めないんだろう…というという漠然とした予感がした。
 結局、そのオーディションでは翔子に群舞以外の役はつかなかった。
 それから数日たったある夜、遅くまで自主稽古をしていた私は、もう誰もいないはずのロッカールームで翔子に出くわした。

「……っ、ぅっ、…っふ……」

 鼻をすする音としゃくりあげる声が聞こえて私は警戒した。

「誰かいるの…?」

 声をかけると、すすり泣く声はますます大きくなって、本格的に声を上げて泣き出した。私はロッカーの並ぶ列の奥へと回り、そこに座り込んでタオルに顔をうずめている翔子を見つけた。

「よっしー? どうした」
「…すいません…、…っ…、泣いちゃダメなのに…、わかってる、んです、けど、…」

 その声があまりにも弱弱しく、私が抱いていた翔子のイメージ…太陽のような屈託のない笑顔の印象とかけ離れていたので、意外すぎて興味をひかれた。

「誰にも言わないから。安心しな」

 ロッカーにもたれて隣に座り、ちらりと様子をうかがうと、翔子はひどい顔をしていた。色が白いから泣くとすぐに目の周りが真っ赤になる。

「…私、本当にここにいていいのかなって…、情けないです…」
「なんで? 役がつかなかったから? そんなの最初のオーディションなんだから当たり前だよ」

 すると翔子は首を横に振った。

「違います…、役がないのは私が至らなかったからだし、それはこれから頑張っていかなくちゃ…、いけないと、思ってます。でも、つらくて…。オーディションで、何もできなくて、みんなの前で、けなされて、悔しくて、恥ずかしくて、思い出したら体が動かなくなっちゃうんです…。こんなことで傷つくような弱い心じゃ、劇団員には向いてないですよね…」

 なんと、翔子は、ネアカでもなければ打たれ強くもなかった。それは彼女が精一杯そうあろうと努力していた姿だったのだ。

「そんなことない。よっしーは何言われてもへこたれずに次の役に向かって行ってた。恥ずかしがらずに自分の殻を破ってた。それだけでもすごいよ」

 私は右腕を翔子の肩に回した。すると翔子はたまりかねたように私に抱きついてわんわん泣き出した。
 そのとき私は不思議な感覚に陥った。
 現実は時間が遅すぎて全員帰ってしまっただけのロッカールームなのに、宇宙に私と彼女のたった二人しか存在しなくなったような気がしたのだ。私を頼って泣きすがる翔子を腕の中にそっと抱くと、表に現れている幼さとは裏腹の燃えるようなプライドを感じた。
 間違いない。この子は花水木歌劇団の中でも貴重な才能を秘めた男役の種だ。この種を護り育てて絢爛たる花を咲かせたい…、私の手で。だって、彼女にはいつまでも私だけを見て、私だけに笑って、私だけにすがってほしいから。
 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
 その公演が終わったときから私は娘役に転向し、一年以内に翔子の相手役にふさわしいレベルの娘役のスキルを身に着けると誓って死に物狂いの努力をした。そして一年後、まだペアの相手がいなかった翔子をすかさず自分の相手役にした。

「……あの女タラシなんかにやってたまるか」

 何が『翔子ちゃん借りるよ』だ。
 新撰組の配役を決めた演出家が恨めしい。
 この間の顔見世舞踊ショウでの“コーラスガールTall”ペアの人気はすさまじいものがあったから、これに便乗して引き続きその二人に今度は男どうしの恋人役で組ませたらまたまた話題沸騰間違いなし、という商業的な読みは悔しいけれどきっと当たるだろう。

 和物の得意な松団のこと、もうこれまで何度も上演して手慣れている幕末ものの芝居の稽古は順調に進んでいる。
 でも、初めて名前があって台詞もある大役をやることになった翔子の場面は、なかなか演出家の思い通りの仕上がりにならなかった。田代彪蔵と加納惣三郎が茶屋で逢引し、たとえ局中法度で死刑になろうとも地獄まで共に…、と、互いへの思いを確かめ合う場面だ。そこは台詞を交わしたあとに田代が部屋の障子を閉め、その障子の向こうに口づけあって重なり合いながら倒れる二人の影が映るという演出になっていた。綺麗に影が映るためには優雅で美しい動きが必要になる。そして影の動きだけで色気を感じさせなくてはならない。
 ラブシーンどころか演技経験自体も少ない翔子はだいぶ苦戦していて、毎日のように麻矢さんに居残り稽古に付き合ってもらっていた。私も時々稽古を見て意見を言ったりしていたが、もちろんそれは麻矢さんを監視するためだ。二人きりでラブシーンの稽古なんて、危なくて仕方がない。
 そんな私の嫌な予感は、ある日、現実になった。

「晶さん! 聞いてください!」

 頬を紅潮させ、目をキラキラさせた翔子に浴衣の袂を引っ張られて、私は食堂のカウンターの一番端まで連れて行かれた。

「何、興奮して」
「昨日麻矢さんに、…あの、…付き合おうって言われました…!」
「それで?」

 我ながらよくぞ冷静に返せたと思う。この日を何度もシミュレーションしていた甲斐があった。

「まだ返事してなくて、悩んでるんです…」

 そう言いながらも翔子は嬉しそうだ。そりゃそうだろうな。よく即座にOKしなかったものだ。褒めてやろう。

「相手役させてもらって嬉しい気持ちと、役の感情と、私自身の気持ちを混同してるんじゃないかなって思って…。私誰ともお付き合いしたことないから、どんな気持ちが好きってことなのかよくわからないんです。あ、もちろん麻矢さんのこと尊敬してるし大好きだけど、その、付き合うっていう意味でってことで…」
「よっしーがそんなにまともだとは思わなかった」
「晶さん!」

 憤慨している翔子がカワイイ。

「麻矢さんは、キスして嫌な感じじゃなければ付き合っていいんだっておっしゃってたけど、私は…」
「キスしたの?」
「あ、……うん……」

 照れながら頷く翔子を見て、思わず大きな溜息をついてしまった。

「ごめんなさい…キスシーンのお稽古がどうしてもうまくいかなくて一回本当にやってみるってことになって」
「別に言い訳することないでしょ」

 私が快く思っていないことを翔子は察しておどおどしている。

「座って」

 カウンターに並んで腰かけ、周囲を見回して話が聞こえそうな位置に人がいないことを確認してから、私は静かに言った。

「麻矢さんのことは養成所に入る前から知ってるから、私はよっしーより長くあの人のこと見てる。悪口を言うのは嫌だから今まで言わなかったけど、麻矢さんは恋多き人だよ。養成所時代は一ヶ月に三人ペース」
「え…!?」
「竹団にいたとき人間関係でトラブルになった噂もちらほら耳に入ってる。いっぱい恋愛するのが悪いわけじゃないし、本人どうしが良ければ外野が口出すことじゃないけど、私はよっしーが麻矢さんのたくさんの相手の中の一人になって幸せになれるとは思えない」

 翔子は泣きそうな顔で下を向いている。

「自分だけを愛してくれる人と付き合いな。…どうしてもよっしーが麻矢さんのこと好きで付き合いたいっていうなら…」

 私は一呼吸して勇気を振り絞った。

「ペアを解消する」

 翔子は驚いたように顔を上げて眉をきつく八の字にしながらも噛みついてきた。

「どうしてですか!? 私が、私生活でどんな恋愛するかってことと、劇団で晶さんとペア組むことと、何の関係があるんですか? 全然わかんないです」
「関係あるだろ。何回か相手役やったくらいの人と勘違いして付き合って傷つけられて結局私が面倒見ることになるんだから」
「決めつけないでください! 麻矢さんはそんな人じゃない!」
「だといいけど」
「晶さんは私に、晶さんと麻矢さんのどっちかを選べっていうんですか?」

 翔子の声は、これ以上酷いことなんて世の中にないと言いたげな悲しみにあふれていた。私は真顔で見つめ返す。逆にどちらも手に入ると思っているのか、君は。

「晶さん…、私のこと、好きなんですか?」

 勘が良いとほめるべきなのか、今まで気づかなかった鈍さに呆れるべきなのかわからないけれど、私は即答した。

「なわけないだろ」

 翔子はスツールから飛び降りて走って行ってしまった。
 いつも甘えてくるだけだった翔子が私に言い返した。そのことがじわじわと私の胸を刺していく。反対したのは逆効果だったのかもしれない。でもそれ以外に何ができたのだろう?
 それから数日間、翔子は私と口をきかなかった。ウォーミングアップも一人でどこかへ消えてこっそりやっているようだった。気にならないといえば嘘になるけれど、麻矢さんの様子がまったく変わらなかったので、きっと二人の関係はまだ保留されているのだろうと思った。私は自分の役柄、山南敬助の愛人・明里の役に集中することで忘れようとした。相手役の山南を演じる斎藤さんはベテランで私の理解者の一人だ。

「晶ちゃん、元気ないんじゃない? お昼食べた?」
「…はい、いただきました。梅雨のせいか気が晴れなくて」
「ほう? よっしーと喧嘩したんじゃないの?」
「どうしてです?」

 私は笑って、心配そうに顔を覗き込んでくる斎藤さんに聞き返した。そんなことがもう噂になっているのか。

「よっしーが晶ちゃんにまとわりついてる姿、最近全然見ないから。何かあったの?」
「何もありませんよ。お互い相手役がいるから今はそちらに集中しているだけです」
「ふうん」

 斎藤さんは私の側に寄り、開いた扇子の陰でこっそりと囁いてきた。

「ねえ、赤星麻矢君って、よっしーに手出そうとしてるじゃない? なのにこの前、見ちゃったのよ。ピアノ室で竹団の娘役とイチャイチャしてるところ。でも、加藤木が直接赤星君に付き合ってる人いるんですかって聞いたら彼氏がいるって答えたらしいし、一体何が本当なんだろうね」

 想像通りの内容ではあったけれど、実際に聞いてしまうとやはりショックだった。おそらくこれは全部が本当なんだろう。少なくとも私の知っている麻矢さんはそういう人だ。

「さあ。私は別に興味ありませんから」
「そうなの? よっしーが泣かされることになったら可哀想じゃない」
「いいんじゃないですか、役者としてそういう経験の一つや二つあっても」

 心にもないことを言って私はその場を離れた。元気がないように見えるほど弱っているつもりはなかったのに、これ以上は耐えられなかった。翔子の明るく澄んだ瞳が、今までずっと私だけをきらきらと見つめてくれていたなんて、何と幸せなことだったんだろう。麻矢さんさえ現れなければ。いや、麻矢さんが、せめて本気で翔子に惚れてくれるような人だったら。
 でも、そのおかげで翔子は傷ついていつか私のところへ帰ってくるだろうから放っておけばいいのか?
 そんなことは私にはできない。まっさらでピュアな、恋というものを知らないあの子の新雪のような心に最初の足跡をつけるのが、三股が標準の浮気者だなんて絶対許せない。
 私は、その日の稽古が終わった後の帰り道で翔子を捕まえもう一度説得することにした。
 しかし、その夜翔子は捕まらず、その代わり、私自身が一年先輩の小柴さんに捕まってしまった。

「井筒、ちょっと家に来ない? 話がある」

 小柴さんは厳しい顔をしていた。普段から余計な愛想をふりまく人ではないが、良い話ではなさそうだとすぐにわかった。
 小柴さんの家は劇団本部のある霞が関から日比谷線に乗ってすぐの中目黒にあった。小さなマンションだが独り暮らしの女性に必要なオートロックや独立洗面台というような設備がきっちりと整った機能的な家だ。ほとんど装飾のないモノトーンのインテリアの部屋には湿布薬のかすかな匂いが漂っていた。

「飲み物、ミネラルウォーターとレモンしかないんだけど」
「おかまいなく。お話を伺います」

 家でお茶のひとつも飲まないというのは小柴さんらしい。ただ寝に帰るだけの場所と割り切っているのだろう。
 レモンの入った水をもらい、私と小柴さんはローテーブルを囲んで床に座った。ふと思い出したが、月刊はなみずきの松団若手特集で朝のルーティンを聞かれたとき、小柴さんは毎朝レモンを入れた水を飲むと答えていた。それは雑誌用のイメージづくりの回答ではなくて本当のことだったようだ。

「最近、吉田と何かあった?」
「あの子と私の間に何か進展があったかっていうことなら、何も」

 先月末、千秋楽の打ち上げ会場で、私は小柴さんに告げてしまっていた。私にとって翔子が特別な存在であることを…むしろ翔子の存在が娘役の私を作ったのだということを。誰にも言うつもりのなかったことだが、小柴さんが私とペアを組みたいという意志があまりにも論理的で反論の余地がなさそうだったので、こうでも言わなければ納得してくれないだろうと思ったのだ。思惑のとおり小柴さんはひとことも返さずに引いてくれた。

「そうじゃなくて。実は昨日、よっしーがここに来たの。食堂でかつ丼ほとんど残してたからただ事じゃないと思って声かけたら、泣き出しちゃって。うちに連れてきて話聞いた」
「ご面倒をおかけしました」
「ほんとだよ。こんなことに巻き込まれるなんて」

 小柴さんは大きな溜息をついた。この人はドライなように見えて団員の様子に細かく目を配っている。問題があれば解決せずにいられない人なのだ。養成所時代、一つ上の学年の主任というのは後輩の目から見れば絶対的存在だが、小柴さんはその立場だからというだけではなく実務的に信頼のおける人だった。翔子がこの人に面倒を見てもらえているのなら安心だという気持ちが私を少しだけほっとさせた。まったく甘え上手なんだから。

「本当に、ペアを解消するなんて言ったの?」
「麻矢さんと付き合うなら、ですよ」
「井筒がよっしーのこと好きなんだったら…あ、このことはよっしーには言ってないから安心して。まあ、取られたくないって気持ちはわからなくもないけど」

 小柴さんはもう一度溜息をついて、短い黒髪をぐしゃっとかきあげた。そして鋭い目で私を見つめた。

「正直、幻滅した。もうちょっと冷静な人だと思ってたよ。よっしーにとってはどうしてペアを解消しなきゃならないのかまったく納得できないだろ? 井筒が嫉妬してるなんて知らないんだから。ペアの相手が恋人で、別れたから解消するってんならまだわかるけど、君とよっしーは付き合ってもいないし、仲たがいしたわけでもない」
「二人を付き合わせたくないんです、どうしても」
「へえ、そうやって脅せばよっしーは言う事を聞くと思ってるんだ」
「脅すなんて言い方…」
「だってそうでしょう。よっしーにとって自分がどんなに大切な存在かわかっていて、解消するなんて言ったわけだから」

 小柴さんは私を責めてくる。公私混同が何より嫌いな小柴さんには、なりふりかまっていられない私の行動は理解できないんだろう。でも、私に言わせれば、事の発端は麻矢さんなのだ。相手が麻矢さんでなかったら、こんなに翔子を縛り付けておかなければと思うことはないはずだ…たぶん。

「…小柴さん、あなたも麻矢さんの同期ならご存じですよね。あの人の素行。小柴さんからも説得してください。付き合わないほうがいいって」
「ああ、よっしーに、麻矢の噂は本当かって聞かれたから本当だって答えたよ。でも説得はしてない。反対されて余計燃え上がるってこともあるし。それにたとえ酷い恋愛だって、経験することは役者として無駄にはならないし」

 さすがというか、憎らしいくらい冷静な人だ。

「そんな風には思えません。小柴さんは脅したっておっしゃいますが、あの子と麻矢さんを付き合わせないですむ方法がそれしか思いつかなかったんです」

 小柴さんは呆れたような顔でまじまじと私を見た。

「何で!? 君がよっしーに告白して、よっしーと付き合えばいいじゃないの。どうしてそうしないのか私にはまったくわからないよ。そのほうが、よっしーだってよっぽど納得できるでしょ」

 その言葉はまったくの予想外で、一瞬、私の頭も体も停止してしまった。
 翔子に告白する…?
 そんなこと、夢にも考えたことがなかった。ずっとそばにいて、一番近い存在として切磋琢磨することができればそれでよかった。翔子は全力で私に頼ってくれるし、守ってもくれようとする。ペアの相手というのは仕事上は夫婦になったも同然だ。だからそれ以上に何かを望むことはなかったのだ。ただこの状態がいつまでも続いてくれることが私の願いだった。
 告白したら、どうなるのだろう。私が翔子にしてやれることは今までしてきたことぐらいしかない。翔子は恋人の私に何を求めるんだろう。麻矢さんのように接すればいいのか?
 それも上手く行けばの話だ。丸二年以上も親しい先輩後輩の間柄で過ごしてきたのに、今さら改めて恋人として付き合うという感覚になれるのだろうか、お互いに…。そもそも恋人って何なんだろうという気さえしてくる。私だって翔子と同じレベルだ。愛している。愛している。自分自身よりも、間違いなく。でも、だから何?

「勝算がなさすぎて無理です」

 そう言うと、小柴さんはなんと、笑った。

「井筒がそんなこと言うなんて…しかも相手がよっしーだよ?」
「でも本当にそうなんです。告白なんかしたらきっと引かれてしまう」
「引かれたら押せばいいじゃない。麻矢と付き合うなって命令できるなら、自分と付き合えって命令することもできるでしょ。何千人のファンをガチ恋に落としてきた花水木歌劇団の井筒晶が何言ってんの」
「買いかぶりすぎですよ」

 その方法は私はきっと、取らない。私は小柴さんみたいに真っ直ぐな人間じゃないから。自分で翔子の手を掴んで引き戻す度胸もなく、ただ精一杯の武器を突き付けて、どうか他所へ行かないでくれと祈って震えているだけのあまのじゃくだ。

「…あの子は、どうするつもりなんですか? 小柴さんに何か言ってました?」

 そう尋ねると、小柴さんは肩をすくめた。

「断るってさ。麻矢とは付き合わないって。良かったね」
「小柴さん! わざと黙ってたんですね? もう、ほんっとに…」

 知らなかったら翔子に告白させられるところだった。危ないったらない。

「だってよっしーが、晶さんが晶さんがってあんまり泣くから気の毒になっちゃって」

 私は安堵のあまり大きな溜息をついた。ペアの解消を持ち出したのはそれが翔子にとっては不都合なことだろうと思ったからだけれど、そんなにショックを与えていたとは思いもよらなかった。翔子の私への依存度は案外高かったらしい。

「ねえ。これからもそうやってよっしーに自分の気に入らない恋人ができそうになったら邪魔するの? それが君のやり方?」

 小柴さんの表情は険しくなった。他の人に恋することを許さないのならば、せめてまた傷つけることがないようにきちんと自分の思いを伝えるべきだ…そう言いたいのだろう。それがフェアなやり方だ。

「そうです」
「それは可哀想じゃない? さすがに」
「わかってます」
「じゃあちゃんと告白しなよ」
「…付き合いたいのとは違うんです。ただこれまでと同じ関係でいたいんです」
「よっしーも厄介なのに好かれたもんだな…」

 小柴さんは大きなあくびをした。

「もう23時か。家、恵比寿の社宅だったっけ? 車で送るよ」
「小柴さん、車持ってるんですか?」
「うん。駐車場代高いけどね。趣味ドライブってプロフィールに書きたいから」

 そういえば若手特集のインタビューでも休日は鎌倉あたりまでドライブするなどと言っていた気がする。書きたいプロフィールのために私生活で無理をするなんて、意外と可愛いところのある人だなと初めて思った。小柴さんのように、熱くて、人に対して真っ直ぐで、真面目な相手に翔子が惚れていたのなら、私は諦められたのだろうか。

 翌日、『新撰組血風録』の通し稽古が行われた。麻矢さんと翔子の芝居は美しく情感たっぷりに仕上がっていて、演出家も満足しているようだった。翔子が麻矢さんに何と返事をしたのか、それともまだ何も言っていないのかはわからないけれど、芝居を見た限りでは二人の間に違和感はなかった。
  稽古が終わってシャワーを浴び、ロッカールームで帰宅するための薄化粧をしているとき、翔子に声をかけられた。

「晶さん。あのことなんですけど…今いいですか」

 俯いて私を見下ろす翔子の洗いざらしの前髪がさらりと落ちる。一年前に私があげたシャンプーと同じものをまだ使い続けていると香りでわかった。

「どうなった?」
「怒らないでくださいね」

 翔子はすがるような目で私を見つめて前置きした。

「怒られるようなことを言うの?」
「…あの、私、晶さんとペア解消するの、嫌です。それに、麻矢さんが三股とかしてたって話もいろんな人に聞きました。だから麻矢さんとは仲良い先輩後輩としての関係でいようって、お付き合いするのはやめようって、思ったんです。でも、今のタイミングでお断りしたら、せっかく上手く行ってるお芝居がどうなっちゃうのか不安で…どうしてもぎくしゃくしちゃうと思うし、私がボロボロになっちゃいそうで…。だから、この公演が終わるまで、期間限定で、お付き合いさせていただくことにしました。その間は晶さんとペア解消されても仕方ないと思ってます。でも、公演が終わったら、また…」

 翔子は私のたっぷりしたシルクのブラウスの袖を小さい子供のように掴んだ。

「私、晶さんじゃなきゃダメなんです…」

 なるほど、すぐに相手を捨てる麻矢さんの習性を逆手にとって一ヶ月ちょっとという短い約束をこちらから提示したのか。一ヶ月だけなら付き合ってもいいです、なんて言われる麻矢さんを想像するとなんだか小気味が良い。
 自分でも笑ってしまうほど簡単に気分が上がった。

「芝居のためだけに付き合うの?」
「そうです」
「それ麻矢さんに言った?」
「はい」
「それでなんて?」
「一ヶ月、楽しい思い出いっぱい作ろうねって…」
「気色悪い」

 つい反射的に本音が出てしまって、とっさに手を口に当てた。

「ごめん。あんたの好きな人に失礼なこと言った。…まあ、よっしーがそう決めたんだったら私は何も言う事ないけど。戻ってくるって信じていいんだな?」

 念を押すと、翔子は眉間にしわを寄せて瞳を潤ませ、深く頷いた。


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