花ものがたり ―百合の章―

【小柴広海side】


 同期の赤星麻矢(あかほし まや)が竹団から異動してくると知ったとき、私のメンタルは入団以来かもしれないほど落ち込んだ。だけど、それを絶対に誰にも気づかれたくないという気持ちのほうがはるかに強くて、その意地に支えられてなんとか公演の稽古をこなしてきた。
 芝居の出番や台詞は私のほうが多かったことと、ショウでは三組のカップルの中に二人とも選ばれたけど、私のカップルが立ち位置としてはセンターだったことが、少しだけ安心できる要素だ。
 なぜ赤星は今の松団に呼ばれたんだろう。松団にはそんなに足りないものがあるのか? 赤星を補充しなくてはならないような弱みがあるっていうのか…、この私がいるというのに。
 もちろん、赤星は私とは全然タイプの違う男役だし、竹団で育てられてきたから松団にはない現代的な雰囲気を持っている。芝居もうまいし、歌もダンスもできる。そして何より、華がある。それも、私がよく言われているような暑苦しくて押しつけがましいオーラではなくて、控えめに脇に立っているだけでも視線がひきつけられるような涼しげなオーラが…。まるで王子様の登場だ。
 私にはない、抜群のスタイル、優しさ、そしてスマートさを持ちあわせた赤星が、来年代替わりする松団にやってきた。私は来春にトップコンビが退団したあとの次の三役に入ることを目標にしている。その機会に準トップになれなかったら次のチャンスはさらに三年後になってしまうから。松団の男役たちを見渡して、次代の準トップの地位にふさわしいのは私しかいなかった。赤星が来るまでは。

「広海(ひろみ)、コーヒー飲む?」
「いらない」
「そう」

 楽屋の化粧前、私の左隣に座った赤星がサーモマグからカップにとくとくと注ぐコーヒーの香りが鼻をくすぐる。…そう、赤星は化粧前が私の隣なんだ。入団時に私のすぐ下の成績二番だったから。異動が発表されたとき、真っ先に思ったのがそれだった。今度から私の隣に座るのはトップ娘役の入間彩夏(いるま さいか)じゃなくて赤星になる、ということ。

「彩夏は? コーヒー」
「いらなーい。歯が黄色くなるから」
「そっか。気を遣ってるんだね、えらい」
「麻矢ちゃんもコーヒー飲んだ後はうがいしたほうがいいよ」
「うん、そうする」

 赤星と一緒に舞台に立つのは養成所の文化祭以来で、いわゆる仕事場での態度を見るのは初めてだったから、いろいろと新鮮だった。赤星は、公演中のクソ忙しい中でもお気に入りのカップでコーヒーを飲んでお菓子をつまんだり、後輩たちのところへわざわざ雑談しに行ったりするのだ。今だって、マチネが終わって日本物の芝居の化粧を落とし、ソワレのためにショウの洋物化粧と髪型をやり直すという大忙しの時間のはずなのに、化粧を八割終えた段階でのんびりお茶している。
 化粧前には邪魔じゃないのかと驚くほどのサイズのスヌーピーのぬいぐるみが置いてあって、舞台に出るときはいちいち「お留守番しててね」と声をかけていた。
 私の化粧前には今回の役柄のメイクの参考にしている先輩のポートが貼ってあるだけで、あとは限りなく機能的に化粧品と化粧道具を整列させている。遊びがないといえばそれまでだけど、仕事に必要ないものを化粧前に置くと逆に精神が乱れるのだ、私の場合。

「失礼します」

 少し離れたところから無駄に元気な声で挨拶をしてきたのは、三年後輩の吉田翔子だ。吉田は今回のショウで赤星とカップルになっていて、初めての娘役に浮かれきっている。

「あ、翔子ちゃん! お疲れ様。どうしたの」

 赤星に鏡越しに微笑みかけられて、吉田はわかりやすくとろけそうな笑みを浮かべた。ほんと、呆れる。仕事のやる気につながっているからいいけど、そうじゃなかったら気合いを入れ直してやるところだ。

「あの、明日のお休み、お誕生日ですよね。…これ、よかったらもらってください」
「え、プレゼント!? ありがとう! 開けていい?」

 吉田ははにかみながら弾むように頷く。
 耳ざとく会話を聞きつけた周りの劇団員たちがぞろぞろと集まって来た。組んでいる相手役からのプレゼントというものはひとつのイベントだ…野次馬が集まるくらいの。しかも、この赤星と吉田の"Tall"ペアというのは今、松団の中でもファンの間でもかなり人気になっている。二人とも背が高くてスタイルが抜群なうえ、特に吉田はほとんど脚を全部出した衣装だからその長い美脚が話題を独占していた。シャープな男顔の赤星とベビーフェイスの吉田はルックスの相性も良くて、花水木歌劇団公式ネットショップのブロマイドは早々に売り切れた。まあ、私と井筒晶(いづつ あきら)の"Tan"ペアのブロマイドもそのあとすぐに売り切れになったけど。

「初めて作ったので出来が悪くて恥ずかしいんですけど…愛は込めました!!」

 恥ずかしげもなくみんなに聞こえる声で熱弁する吉田…でも赤星は呆れるでも苦笑するでもなく、嬉しいなあとストレートに答える。聞いているこっちが恥ずかしい。
 赤星は吉田から受け取ったプレゼントの箱を丁寧に開けている。包み紙さえ破らないように。
 隣にいるから嫌でも見えてしまうが、箱に入っていたのは、いかにも手作りという雰囲気の分厚い陶器のマグカップだった。かなりの大きさだ。砂色のカップには藍色の染料で、MAYAと書かれている。私から見れば、あたたかみがあるという以外に褒められるところのない一品だったが、赤星は大喜びした。

「うわあ、すごい! これ翔子ちゃんが作ったの?」
「はい…手がでかいからカップも大きくなっちゃって、ちょっと大きすぎるんですけど…」
「大丈夫、たっぷり入って良いよ。私いつも楽屋でコーヒー飲むから、使わせてもらうね」

 そしてなんと赤星はその不格好なマグカップを私に見せてきた。

「ねえ見てこれ! 名前も入ってるの。可愛いよね」
「ああ…うん…」

 頷くしかないだろ。ちらっと吉田を見ると、嬉しそうに頬を染めてふにゃふにゃ笑っている。良かったね…。そう思ったところでふと気づいた。

「よっしー、もしかして、自分にもお揃いのマグカップ作ったりしてんじゃないの?」

 吉田は面白いくらいギクッとした表情をした。

「……小柴さん、エスパーなんですか…?」
「やっぱり」
「もう、恥ずかしいから絶対内緒にしようと思ってたのに…!」
「麻矢のどこがそんなに好きなの?」

 当の赤星本人のいる前でそう聞いたのは、決してからかうつもりじゃなくて、テンション高く頬を赤らめる吉田を見て純粋に疑問に思ってしまったからだった…男役が男役にきゃあきゃあ言ってどうするんだ? たった三年しか違わない自分と同じような長身の美形キャラに対して、ライバル心以外の何があるっていうんだ。
 吉田は私の質問に絶句して、それから赤星をちらっと見た。

「えっと…どこがって…。優しいところ、ですかね。えへへ」
「ふうん。ごちそうさま」
「あっ、でもそれだけじゃなくて、かっこいいところとか、私服のセンスがいいところとか、いい匂いがするところとか、声がイケボなところとか、頭がいいところとか、エスコートが上手なところとか…」

 指を折りながら数え始めた吉田に、赤星がくすくす笑いながら声を掛けた。

「もういいよ翔子ちゃん。そろそろソワレの準備する時間でしょ」
「あ、はい! すみません、お忙しいところ失礼しました!」

 吉田は畳に手をついてぺこぺこしながら自分の化粧前に帰って行った。信じられないことに、吉田は本気で純粋に赤星のことを慕っているらしい。いくら娘役をするのが初めてだからといって、ひな鳥が親鳥のあとを無条件についていくみたいに、こんなにあっさり洗脳されるものなんだろうか。

「ごめんね、お騒がせして」

 もらったマグをまた箱にしまいながら、赤星が両隣りの入間と私に気を遣う。なんだそのまるで身内が楽屋見舞いにきたかのような言い方は。
 入間が、これからショウで使うブロンドのショートヘアの鬘の手入れをしながら鏡越しににやにやと笑う。

「よっしー、すっかり麻矢にメロメロだね。罪な男だわ、まったく」
「今だけだよ。すぐ忘れられちゃうって」
「そうかなあ。もう付き合っちゃえばいいのに」
「…翔子ちゃんって付き合ってる人いるの?」

 おいおいおいおい。ちょっと待てよ。そんなことを気にしてどうする? まさか本当に吉田とどうこうなろうっていう気じゃないだろうな。

「あら、麻矢、気になるの?」
「うん。翔子ちゃんあんまりプライベートの話しないんだよね。可愛いし彼氏とかいるのかなって…」
「いるわけないじゃんあいつに…」

 つい口を出してしまい、しまったと思ったが、赤星はきらきら目を輝かせてにじり寄ってきた。

「ほんと?」
「よっしーのLINE、同期と家族と井筒だけしかトークルームないらしいよ」
「広海、なんでそこまで知ってるの…」
「井筒が言ってた」

 そう、つい先日、井筒晶が私に愚痴ってきたのだ。“赤星とLINEを交換したいけど言い出せない”という本当にどうでもいい悩みを吉田に相談されたと。
 それで井筒が赤星のLINEを友達登録しているから二人をトークルームに招待して仲介してやろうとお節介をしたときに、吉田の画面を見せられて、呆れたというわけだった。
 でも、そんなことを聞かなくても吉田には恋人などいそうにないことぐらい私にもわかる。何というか、このまま世間に出してもいいのかと思うほどアホみたいに純粋なんだ。
 だけど、赤星はそうは思っていないようだった。

「…ねえ、晶と翔子ちゃんって仲良すぎない? 本当は付き合ってるとか」
「それはないでしょ」

 鼻で笑ってしまったが、赤星の顔がマジになっているのを見て不安に襲われた。
 まさか、まさかだけど、赤星は本気で吉田が気になってるんだろうか…? ほんっとに勘弁してくれ。赤星が竹団で可愛い子を手当たり次第ものにしてきたっていう噂は私の耳にさえ入ってきていたけど、そんなことはペア制度のある松団では許されない。人間関係が安定してこそ舞台に集中できるってもんだろ。

「井筒が面倒見いいだけだよ。でも正直、あの二人、ペア解消しないかなぁと思ってる」
「えっ、解消とか、あるの?」
「あるよ。私も去年解消して今はフリー。ベストコンビだと思ってた同期に振られてさ」

 ちらっと二つ隣の入間彩夏を見やると、入間はまだ口紅を塗っていない白い顔でぺろっと舌を出して見せた。

「なんで!?」
「彼女がトップ娘役に指名されたから」
「ああ、そっか…。でもそれって広海が見る目あるってことじゃん」
「そうだよ」
「それで、どうして晶と翔子ちゃんにペア解消してほしいの? …あ。わかった」

 勘のいい赤星はすぐにぴくりと眉を上げて訳知り顔で笑った。

「晶が欲しいんでしょ」
「正解。あんなひよっこにはもったいない」

 今回たまたまカップルの役がついて、井筒の生まれ持ったスター性と、それでありながらいっさい観客に媚びないところに惹きつけられた。気が強そうに見えて意外と相手役を立てることにもたけている。養成所時代から長年近くで見てきたはずなのに、実際舞台に出るまで気付かないことはたくさんあるものだ。

「ふうん、そっか。じゃあ、広海とは共同戦線が組めるってことだね」

 赤星は突然妙なことを言い出した。巻き込まれたくないんだけど。

「は?」
「私も二人にはペア解消してほしい」
「それって完全に下心だろ!? 迷惑すぎるわ」
「広海だって下心じゃん」
「私は純粋に…」

 そのとき、鏡の端にちらっと当の井筒の姿が映ったので、私は急いで口をつぐんだ。赤星も同時に気付いて押し黙る。
 化粧を終え鬘をつけた入間がくすくすと笑いながら立ち上がった。

「あんたたちの話、面白すぎ。早く準備しないともう開場時間だよ」
「ほんとだ!」
「やっば」

 赤星のせいで支度が遅れてしまった。私は黙って顔を仕上げるのに集中し、その日の公演が終わるまではあえてこの話題は忘れるように努めた。
 別れてくれないかなと内心思うことはあっても、もう三年もの間上手く行っているペアを別れさせるなんてアホみたいなこと、やるわけない。どう考えても消耗するだけでいい結果にはつながりそうにないもの。
 …でもそう思っていたはずの私が、アホなことをしてしまった。公演の千秋楽の打ち上げの夜に。

「はーい、ビンゴ当たりました! 何もらえるんですか?」

 ビンゴカードを高々と掲げて幹事の加治さんに尋ねる。加治さんは今年が劇団員として最後の打ち上げになるから目一杯やりたいことをして食べたいものを食べたいと、最年長なのにみずから幹事を買って出てくれたのだ。

「前に出てきて、この中から好きなの選んで。提供してくれた人の名前が中に入ってるからお礼言ってね」

 加治さんが指さした中身の見えない真っ黒な大きいごみ袋の中には、サンタクロースのかついでいる袋のように、何やらプレゼントがいっぱい詰まっている。先日、一人千円の予算で供出されたものだ。私も舞台用のつけまつげを提供したけど、それだけは当たりたくないな。

「あ! すいません、ビンゴでした!」

 立食パーティーの人混みをかき分けて、赤い顔をした吉田が私の隣に並んだ。吉田、弱いくせに酒が好きなんだよな…。

「よっしー、先に取っていいよ」
「いやいや小柴先輩がお先にどうぞ」
「じゃあもらうね。…これにする」

 私はまったくえり好みせずにぱっと手に触れたものを取り、吉田に大きな袋を譲った。吉田は大げさに手を合わせて、

「神様お願いします! 麻矢さんのが当たりますように!」

と恥ずかしげもなく願をかけてから袋の奥底にあるプレゼントを引っ張り出した。私のは水色の不織布の袋、吉田のは薄桃色のちりめんの風呂敷に包まれた細長い箱のようだ。

「はい、小柴君もよっしーも取った? じゃあ一斉に開けてみよう。オープン!」

 加治さんの掛け声で袋を開けると、中にはグレーのタオル地のターバンが入っていた。そして添えられたカードに『公演お疲れ様でした!愛をこめて 赤星麻矢』の文字があるのを見て噴き出しそうになった。これは大当たりっていうのか? 残念だったな、吉田。わざとじゃないからね。

「えーっ! 晶さんじゃん…」

 隣から聞こえてきた失礼極まりない独り言に、私はハッとして吉田の手元を見た。風呂敷に包まれた木の箱の中には使いやすそうな木の箸が入っていて、その上に和紙のカードが乗っている。『あなたへの感謝の気持ちを箸渡し 井筒晶』…筆で書かれた達筆な字だ。それを見た瞬間、私の心の中に、怒りに似た妙な感情が沸き起こった。
 吉田にはこのプレゼントもこのパートナーの価値もわかりっこない。センスと気遣いと教養にあふれた井筒の贈り物が、この不満そうな顔をした若造の手に渡るなんて。
 井筒をこいつから奪って私の相手役にしたい。

「小柴君のはどなたの?」
「…赤星です」
「ええええっ!!」

 吉田が口をぱくぱくさせている。

「さっき、先に取らせてもらえばよかったぁぁ…」
「あげないからね」
「待って待って。ってことは、お互いに顔見世舞踊ショウのパートナーを交換して当たったってこと? すごい偶然だねえ」

 加治さんが驚いている。パーティー会場にもどよめきが起こった。
 お礼を言えと加治さんに言われたので、赤星の姿を探す。会場の隅で娘役たちに取り囲まれている赤星にはなかなか話しかけるタイミングがなくて、当たったプレゼントのターバンを振り回すと気付いてくれた。

「広海! 私のを引いたんだ?」
「そう。よっしーの目の前で"あたり"をさらってしまった」
「あはは。翔子ちゃんにはちゃんと別に用意してあるから大丈夫」
「マジ? よくやるね…」
「誕生日プレゼントもいただいちゃったし。広海は、晶に記念に何かあげたりしないの?」
「…考えてもみなかった」

 言われてみれば、ショウの通し役で一ヶ月組んでいたわけだから、ちょっとしたギフトか手紙くらいあげても良いのかもしれない。自分でも思うけど、私ってそういうコンビ観念が薄いんだよね…。以前ペアを組んでいた入間とも、同期だから一緒にいるのが自然だっただけで、あえて相手役として意識してコミュニケーションをとるという意識がなかった。
 よし、井筒に手紙を書いて渡そう。せっかくのチャンスだ。

「喜ぶよ、きっと。広海に心傾くかもしれない」
「何言ってんの。でも、お礼に一筆書こうかな」
「ねえ、誰か書くもの持ってない? ノートとか。広海が晶に手紙を書きたいんだって」

 おせっかいな赤星は周りの劇団員に声をかけている。少し離れたテーブルで相手役のトップスターの隣でけらけら笑っていた入間が、すぐに気づいて慌てだした。

「広海が!? えっ、ちょっと待って! さっき、真由子ちゃんがビンゴでレターセット当たったって言ってた」
「ほんと? 真由子ちゃんどこ? あ、真由子ちゃーん」
「麻矢、いいよ手帳に書くから…」

 打ち上げなんだから同期の心配なんかしないで先輩たちと楽しめばいいのに、結局、赤星と入間の世話で私の手元にはピンク色の可愛らしいレターセットが届いた。

「ペン持ってる?」
「持ってる」
「ここで書きなよ」

 赤星は立食用の丸テーブルをトントンと叩くと、取り巻きの娘役たちを連れて離れていった。
 90年代の洋楽ヒットメドレーが流れる中、まるで居残りで宿題をやらされる中学生のように、私はひとりでピンクの便箋と向き合う。こんなことに時間をかけるものじゃないし、パーティーの最中に一人違うことをして目立ちたくもない。迷うことなくペンを走らせる…この二か月を二人三脚で駆け抜けてくれたことへの感謝、一緒に踊って感じた頼もしさと楽しさ、そしてねぎらいと、また縁があるよう願っている、という言葉。正直すぎるような気もしたけれど、こういう手紙は千秋楽の興奮のままに書くものだから、これでいい。推敲なんてする気もなく、すぐ折りたたんで封筒に入れ、井筒へ、と宛名を書いた。
 できあがった手紙をジャケットの内ポケットに忍ばせて、フロアの人混みのなかから井筒の姿を探した。深緑のレースのミニドレスをまとった井筒は、シャンパングラスを手に笑いながら吉田の頭を小突いていた。仲の良いことで。

「井筒、話し中ごめん。今ちょっといい?」
「小柴さん! お疲れ様です。はい、もちろん」

 店の奥は一面がガラス張りになっていて、その向こうにはデッキがあり、テラス席になっている。喫煙者のためにそこは解放されていたけど、タバコを吸っている人は一人もいなかった。もうすぐ六月になるこの時期の、暑くもなく寒くもない夜風が心地いい。
 私はテラスに出て、手近なテーブルに近づき井筒のために椅子を引いた。

「座って」
「…ありがとうございます」

 井筒はハーフアップの長い黒髪を揺らして会釈をし、シャンパングラスを持ったまま椅子に座って脚を組んだ。そうやってリラックスした様子を見せるのがマナーだと思っているところも私は気に入ってる。自分も隣の椅子に座り、肘掛けに寄りかかった。

「さっきビンゴで、よっしーの欲しがってたやつ取っちゃった」
「麻矢さんのですよね。小柴さんに当たって良かったです」
「どうして?」
「次に引いたのが吉田でしょ? もしあいつに当たってたら舞い上がってうるさかっただろうなって。まあ、当たらなくてもうるさいですけど」
「井筒のが当たったんだから十分ラッキーだろうに」

 そう言うと、井筒は両眉を思いっきり上げた。

「冗談ですよね? 私のなんか一番欲しくないでしょうよ」
「そうなの? 二人は仲が良いんだと思ってた」

 井筒は目を伏せて大きな口の端をいっぱいまで持ち上げて微笑む。オレンジレッドのルージュがとても似合っているなとふと思った。舞台では全然違う色をつけていたから新鮮だ。

「そういう意味で仲が良いわけじゃありません」

 じゃあどういう意味だよ、と思ったけどそこを突っ込むのはなぜか気が引けて、私は別のことを尋ねた。

「どうしてよっしーとペア組んだの?」

 この話題については今までわざわざ聞いたことがなかった。そんな疑問を抱かせないくらい二人の並びはしっくりきていたし、互いに成長している順調なペアだったから。

「身長のバランスです」
「それもあるだろうけど、それだけじゃないでしょ。井筒がそういうことだけで物事決めるタイプじゃないのはわかってる」
「……後輩で、素直で、私の言う事を聞いてくれそうだから。相手役に偉そうにされるのが嫌だったんです」
「ごめん」

 思い返すまでもなく、香盤が発表されて井筒が挨拶に来た瞬間から私は、偉そうだった…。
 入団年なんてたった一年しか違わないのに、自分のリードに彼女がついてくるものと思い込んでいた。吉田がどうこうの問題ではなく、私が井筒に選ばれないのは私に原因があるということだ。簡単な話。

「いやいやそんな、すみません、そんなつもりじゃなくて…! 小柴さんは舞台に真摯なだけです。わかってますから」

 井筒はさっきの私の言葉を真似して、私も気にしていないからあなたも気にしないで、という調子で明るく笑った。

「ううん。自分でも自覚ある。偉そうにしてごめん」

 千秋楽の打ち上げにまで至って今さら言い訳も何もない。その代わりに例の手紙を渡そう、と私は内ポケットからピンクの封筒を取り出して彼女の前のテーブルに置いた。

「はい、これ」
「…可愛い。ラブレターですか?」

 真っ赤なマニキュアをした長い指が優雅に手紙を拾い上げる。

「ビンゴの景品でレターセットが当たった子からもらって、今書いたの。井筒ならもっと大人っぽいレターセットが似合うけど…急ごしらえでごめん」
「ふふ、正直ですね。でも私、ピンク色好きです」
「へえ、意外」

 でも、そういえば、吉田が引き当てた井筒からのプレゼントは薄桃色の風呂敷に包まれていた。案外、甘い色が好きなのかもしれない。
 井筒は封筒を開けて中の便箋を開き、そこにさっき私が書いたばかりの短い文章を読んだ。私は彼女がどんな表情で手紙を読むのか見ていられなくて目をそらした。飲み物、持ってくればよかった…。

「…ありがとうございます」

 井筒はスマートに手紙を封筒に収めて自分の胸に当てた。

「小柴さんにこんなお手紙を頂けるなんて、思ってもみませんでした。大事にします。…あ、そろそろお開きみたいですね」

 振り返るとガラス窓の向こうで皆が私たちを手招きしている。

「…待って」

 店内に戻ろうと立ち上がった井筒を思わず呼び止めていた。

「私、井筒とペアを組みたいと思ってる」
「小柴さん…」
「その気がないのは知ってる。ただ、伝えたかったの。もし私と組んだら、吉田とは違う景色が見られると思う。二人で上に行きたいし私たちなら行け…」
「すみません」

 遮られた井筒の声の冷静さで、自分が熱くなっていたことに気付いた。井筒はひそひそ話ができるほどの距離まで私に近づいて小声で言った。

「さっき、嘘をつきました」
「え?」
「吉田と組んだ理由」

 ちらっと店内を見ると、薄暗がりの中でくっついている私たちはけっこうな注目を集めていた。しょうがないな、暇なやつらは。

「後で聞くよ。入ろう」
「…あの子と組むために娘役に転向したんです。一目惚れでした、あの子が入ってきたとき」

 なんと。
 私は一言も返せなかった。言い逃げするように身をひるがえしてドアの向こうに急ぐ井筒をただ凝視する。
 吉田と組むために娘役になった…?
 入団当初、粟島甲子二世と言われていたほどの男役としてのポテンシャルを捨てて?
 その理由が、一目惚れだと…?

「小柴ー! 早く入ってー!」

 加治さんの良く通る声がマイクに乗って外まで聞こえてきて、私はやっと我に返った。
 冗談じゃない。そんな一時の感情で劇団員としてのキャリアを変更していいのか? だいたい男役として採用されたわけだし、養成所でも男役の制服を着用して専用の教育を受けてきたはずだ。劇団の命令ならいざ知らず、やむを得ない事情があるわけでもないのに個人の希望で勝手に娘役になるのは何か違う気がする。
 あの井筒がそんな了見で花水木の劇団員をやっていたなんて…。本当なんだろうか。
 そして、吉田翔子。
 いったい、井筒といい、赤星といい、あいつのどこがそんなにいいんだ…?
 入団してきたときも、正直今だって、そんなに印象のある劇団員じゃない。歌もダンスも平均点、芝居なんてできるのかどうかもわからない。オーディションでそれなりの役を勝ち取ったことがないからだ。確かにスタイルはいいけどベビーフェイスで俳優というよりアイドルみたいな外見だし。
 納得がいかない、こんなの。

「二人っきりで何話してたの? 手紙渡せた?」

 店内に戻ると、赤星がさっそく首尾を聞いてきた。

「うん」
「喜んでたでしょ?」
「大事にするって」
「ほらね! そのままペア組もうって誘っちゃえばよかったのに」
「…麻矢」

 私は背の高い赤星を手招きして、耳をこちらの口に近づけるように屈んでもらった。

「私には無理だった。頑張ってよっしーをものにして」
「ええっ?」

 何があったのかと尋ねたそうな赤星の表情をわざと無視して、私はちょうど巻き起こった拍手に便乗し、口笛を吹いた。


→NEXT 【井筒晶side】
トップへ戻る
Copyright (c) 2020 Flower Tale All rights reserved.
inserted by FC2 system