花ものがたり ―百合の章―

【吉田翔子side】


 今日の稽古場は朝から沸き立っている。いつも開始時間ぎりぎりにしか集まらないのに、三十分前の段階でみんな着替え終わってるって、どういうことよ!?
 特に娘役さんたちは浴衣にも髪型にも明らかに気合が入ってる。
 現金だよなぁ、ほんと…。
 この浮足立った空気感は、昨日の夕方に玄関横の掲示板に張り出された一枚の辞令のせいだ。竹団の男役で私より三年先輩の入団七年目、赤星麻矢(あかほし まや)さんがわが松団に異動してくる、っていう。

「おはようございまーす!」
「おはよ、よっしー」
「加治さん早いですね」
「イケメン転校生が気になっちゃってさ」

 来年歌劇部の定年を迎える松団で最年長の娘役、加治遥(かじ はるか)さんがにやりと笑う。結い上げたうなじと浴衣の抜いた襟のラインがすっごく綺麗で完璧なのはキャリアのたまものだ。

「加治さんもですか。今日の髪型、めっちゃ色っぽいです」
「何よ、ありがと。よっしーも早く着替えといで」
「はい!」

 稽古は朝八時のミーティングから始まる。今日は次回公演の稽古初日で、スタッフさんたちとの顔合わせの後、台本とかオーディションの予定表が配られる日だ。
 それだけなら別に着替える必要もないんだけど、今週末に行われる花水木歌劇団養成所の入学式で松団の団員が『君が代松竹梅』を踊ることになっていて、その稽古もあるから一応浴衣に着替えておかないといけない。
 私は自分のロッカーで稽古着に着替えた。今日の浴衣は先月誂えたばっかりの、鯉が跳ねてる模様のやつ。私だって、入団四年目の新年度の始まりだから少しは気合いが入っている。
 扇子を一本、きゅっと腰に差して、ロッカーの小さな鏡で髪型を直していると、廊下から娘役さんたちの高い声が聞こえてロッカールームのドアが開いた。

「どうぞこちらのロッカーを使ってください」
「お荷物、ここに置かせていただきますね」

 十人以上は確実にいる娘役の集団に取り囲まれて入ってきたのは…、件の"転校生"こと赤星麻矢さんその人だ…!
 なんで取り囲まれているのにぱっと見てわかったのかっていうと、赤星さんは周りの娘役たちよりも頭ひとつぶん背が高いから。その突き出てる頭が私のほうを見て、にこっと笑った。思わずぺこりと会釈を返す。
 小麦畑みたいな色のブロンドをリーゼントにしていて、潔く見せた額がめっちゃ綺麗…しかも顔がきゅっと小さい。鼻が高くて横顔がシュッとしてる。
 うわ…、写真で見るより全然かっこいいな。みんなが騒ぐのも無理ないわ。

「ロッカー間違えないように、スヌーピーのマグネット貼っておきますね。スヌーピーがお好きだってお聞きしたので…」
「わぁ、ほんとだ。わざわざ用意してくれたなんて感激」
「どういたしまして!」
「これくらい当たり前ですよ」
「お着替え、お手伝いしましょうか?」

 …え、今なんて言った!? ちょっとちょっと、やりすぎじゃないの?
 聞こえてくるとんでもないセリフが心配になって人だかりのほうをちらっと見てみたけど、赤星さんは屈託なく笑っていた。

「あはは、大丈夫。お稽古着くらいひとりで着られるよ。ありがと」
「では、失礼します」
「またあとで」

 娘役たちがぞろぞろ出て行って、ロッカールームには私と赤星さんだけになった。
 挨拶しなきゃ…!
 そう思った瞬間、赤星さんは顔じゅうが口になるんじゃないかっていうくらい大きなあくびをした。

「ふああ〜……」

 え? 眠いのかな? 意外と朝に弱いとか?
 イケメンのあくびというものをついぽかんと観察してしまった私に、赤星さんのほうから声をかけてくれた。

「朝から大あくびしちゃってごめんね、実は昨日の夜、緊張で全然眠れなくてさ…」

 えっ、全然眠れてないのにこの顔の仕上がり!?
 徹夜明けだなんて思えないくらいすっきりさわやかなんですけど。すごいな、この人…。
 しかも感じいい。こりゃ娘役さんじゃなくてもファンになっちゃうわ。

「そうだったんですね。異動ってきっとすごいプレッシャーですよね…想像しただけで私なんかチビッちゃいそうです。しかも赤星さんかっこいいからみんな浮かれて大騒ぎしちゃって…なんか恥ずかしいです」
「そんなことない、嬉しかったし助かったよ。松団って意外と賑やかなんだね」
「えへへ、ミーハーかもしれないです。うちの団はペア制度があるから、異動とかあると、フリーの人がきた!って盛り上がっちゃうんですよ。特に相手を探してる若手は」
「ああ、それ噂に聞いた。ペア制度のこともっと詳しく教えてほしいんだけど…、君、名前なんていうの?」
「すみません、申し遅れました。一〇七期の吉田翔子(よしだ しょうこ)です」
「やっぱり。そうじゃないかなと思ったんだ! 松団で一番背が高いんだよね」

 そう言われて、私はびっくりして一瞬後にはめちゃくちゃ嬉しくなった。だって、話題の赤星さんが私のことを認識してくれてるなんて、すごくないか?
 私は特に目立った団員じゃない。入団四年目のぺーぺーで、正月の松竹梅三団合同公演の出演者にもまだ一回も選ばれたことがないし、一〇七期生のなかでも成績は可もなく不可もなしのど真ん中だ。だから他団のスターさんが私の存在を知ることなんて普通はないはずなのに…。

「はい、そうです!…っていうか、そうでした。今日からは松団で一番背が高いのは赤星さんですよ。身長百七十五センチですよね? 私百七十三センチなので」
「良く知ってるねえ」
「松団全員知ってますよ、赤星さんのプロフィールは」
「こわっ」

 肩をすくめて目をまん丸にする赤星さん、カワイイ…。意外とおちゃめな人なんだ。

「ねえ、すぐ着替えるからちょっと待ってて。稽古場まで一緒に行ってくれない? 一人で入るの心細くて」
「もちろんです。赤星さんをエスコートさせていただけるなんて光栄です」
「麻矢でいいよ。私も翔子ちゃんって呼んでいい?」

 翔子ちゃんっていう響きが新鮮すぎて、私はちょっとどぎまぎした。入団するずっと前の小学生のころからずっとあだ名は“よっしー”で、劇団の先輩方からもそう呼ばれているから、翔子ちゃんなんて呼ばれたことはないんだ。そういえば竹団では下の名前で呼ぶのが普通だって竹団に配属された同期が話してたっけ…。

「はい、…麻矢さんっ」

 勇気を出して名前を呼んでみると、麻矢さんはおかしそうにくすっと笑った。

「松団は娘役さんだけじゃなくて男役も可愛いんだね」
「へ?」

 思わず礼儀正しくすることも忘れて変な声を出してしまったら、麻矢さんは笑いをこらえているみたいだった。…さては、ゲラだな…? 舞台の上ではうっかり顔を見ないように気をつけようっと。
 抹茶色のよろけ縞の浴衣に使い込んだ博多帯っていうお稽古着に着替えた麻矢さんと私は、劇団本部ビルの一番大きい稽古場へと移動した。歩きながらも麻矢さんは聞きたいことが止まらなくなっているみたいだ。

「松団って全員ペアを組む相手を見つけないといけないものなの?」
「いいえ、そんなことはありません。組んでも組まなくても自由なんです。そもそもただの慣習で、公式の制度じゃないですし…。前のトップの粟島さんはトップになるまでペアは組んでいなかったそうです」
「ふうん、そうなんだ」
「でもみんなペアの相手を欲しがってます。粟島さんぐらいモテる人は別でしょうけど、自分だけ相手がいないのって焦るから…」
「翔子ちゃんは誰かとペア組んでるの?」
「はい。二年先輩の井筒晶(いづつ あきら)さんと…」
「先輩なんだ。…って、井筒晶!?」

 麻矢さんが突然立ち止まったので私も慌てて振り返った。

「晶って男役じゃなかった?」
「私が入団した年に、娘役に転向されたんです」
「そうだったんだ! 信じられない…あんなに男らしかったのに…」
「麻矢さんは晶さんご存じなんですか?」
「受験時代に同じバレエ教室に通ってたの。一個下で養成所でも一緒だったし」

 えっ、入る前からの知り合いだったなんて…! 晶さんには四六時中お世話になりまくっているから、さっそく共通の友人ができたみたいで嬉しい。

「そうだったんですね。晶さんは娘役さんだけど今もかっこいいですよ。松団の男役の誰よりも夢女を製造しているってファンの間で言われてるんですって」
「夢女?」
「スターの彼女になることを夢みてる女っていう意味です」
「あっはっはは! 晶がねえ…わかる気がする…でもそうか、娘役になったのか」

 噂をすればなんとやら、目の前の稽古場のドアから晶さんが顔を出した。

「よっしー、遅い! …あ、麻矢さん。お久しぶり」
「おはよう、晶。すっかり美しくなっちゃって」
「…何言ってんの、口がうまいのは相変わらずだな」
「本音だよ」

 晶さんは眉毛をぴくりと動かしただけでにこりともしない。他の娘役さんたちみたいにイケメンにメロメロ〜って感じにはならないところが晶さんの夢女製造機たるゆえんなんだ。

「よっしー、案内してくれたのか。ご苦労様」
「やった、褒められた」
「別に褒めてない。早く入って」
「はーい」
「返事は短く!」
「はいっ」

 晶さんは、シャンプーのコマーシャルみたいにきれいな長いストレートの黒髪を左に流して細い朱色の組紐で縛っていた。卵型の白い顔にきりっとした眉の冷たい美人で、口紅はいつも艶のある赤色だ。こんな大人の色気むんむんの娘役さんがどうして私みたいな「でっかい子犬」とか「ライオンの赤ちゃん」とか言われてる二年も後輩の男役とペアを組んでくれたかというと、それは、単に晶さんの身長が百六十九センチでそれと釣り合う身長の男役が私しかいなかったから、なんだけど。

「尻に敷かれてるね…」

 麻矢さんにこそっと囁かれて、噴き出してしまいそうなのを無理やり真顔に直して稽古場へ入る。
 稽古場にはもう松団の全員が揃っていて、壁沿いに並べられたパイプ椅子にずらりと座っていた。麻矢さんの同期の人たちが駆け寄ってきて席へと連れていくのを見送って私も自分の席につく。八時になると同時に、歌劇部の部長と演出家とスタッフたちがぞろぞろと入ってきて、顔合わせが始まった。

「ただいまより松団の次回公演、顔見世舞踊ショウ"コットンクラブ"、歴史浪漫"陰陽師夢幻妖怪(おんみょうじゆめのあやかし)"の顔合わせを行います。まず、この公演から松団に異動になった赤星麻矢君を紹介します。赤星君、どうぞ前へ」
「はい」

 麻矢さんが扇子を手にして立ち上がり、みんなの前に立った。七十人あまりの視線が集中しているのに、自然体で表情も柔らかい。すごいなあ…私だったら知らない団の稽古場でこんなことさせられたら確実に挙動不審になっちゃうよ。

「本日付で竹団から異動して参りました、赤星麻矢と申します。四月から入団七年目になりました。チャームポイントは背が高いことです。松団の一員として良い舞台を作れるように頑張りますのでどうぞよろしくお願いいたします」

 ヒューヒューという声と熱い拍手が沸き起こって、もちろん私も盛大に拍手した。

「えー。それから、この春養成所を卒業した六名の劇団員が松団に配属され、この公演で初舞台を踏むことになりますが、彼女たちは今日は入団式と舞台研修に参加していますので稽古に合流するのは明日からとなります。それでは、ショウ演出の桜庭さん、一言お願いします」

 今回の演出はベテランの女性演出家、桜庭さんだ。でも隣にいるのはでっかい西洋人の男性…振付師かな?

「みなさん、おはようございます。赤星君は竹団でショウスターとして活躍してくれていて、歌もダンスも達者な人ですので今回の公演でもさっそく活躍を期待しています」

 麻矢さんが深々とお辞儀をし、私も含めて他の団員たちは、知ってるっていう顔で頷く。

「…さて、松団を担当するのは二作ぶりですね。今回の顔見世舞踊ショウは、一九二〇年代のニューヨークの高級クラブをモチーフにしたジャズのショウで、音楽はデューク・エリントンやルイ・アームストロングなど黒人音楽を中心に、アコースティックの生演奏でと考えています。また男役のギャングの場面も入ります。振付はブロードウェイからお招きしたこちらのマーク・アーヴィング氏にほぼ全場面お任せしています。アーヴィングさんはニューヨークのクラブのライヴパフォーマンスの振付やブロードウェイのリバイバル作品の振付を多く手掛けていらっしゃって、ジャズダンスの基本を重視したオーセンティックな振付に定評がある方です。明日のオーディションもアーヴィングさんの意見を尊重したいと思っていますのでみなさんこのチャンスを生かしてください」
「はーーい!」

 やっぱりあの外国人は振付師だったんだ。オーディションは明日か…どんなことをするんだろう?
 そんなこんなで挨拶が終わり、台本と楽譜が配られて、初日は興奮状態のまま慌ただしく過ぎた。そして翌日のオーディションも、ろくな準備もできないままにバタバタと終わってしまった。オーディションっていっても、ショウのほうはバーレッスンをしているところを見られてあとは雑談って感じだったから特に緊張することもなかったし、芝居のほうは台本の指定された箇所を演じるんだけど、私は台詞が日本語じゃない…いや、それどころか言葉というより鳴き声って感じの物の怪役を受けたから、とにかく思いっきり体で表現しただけ。
 というわけで三日目の朝、稽古場に香盤表が貼りだされたときに、みんなが吉田吉田と騒いでいるのを見ても何のことだかさっぱりわからなかった。

「おはようございまーす。私がどうかしたんですか?」
「よっしー! 早く見た方がいいよ!香盤」

 いつも冷静沈着な晶さんが、珍しく興奮して背中をバシバシ叩いてくる。
 みんなの頭の上から覗き込もうとすると、なぜだかさっと場所を開けてくれた。何だ一体、これは。
 小さな文字がびっしりの香盤表の自分の名前の下をたどっていくと、芝居の役は"京の怨霊D"でこれは予想通り。ショウの役は…"コーラスガールTall"ってなに?人の名前じゃないんじゃない?…っていうか、コーラス「ガール」!?

「私、女役なの…?」

 松団で二番目にデカい男役のこの私が…?
 すると、後ろからぽんと肩を叩かれた。

「翔子ちゃん、お世話になります。よろしくね」
「麻矢さん!…え、あの、こちらこそ…」

 相変わらずさわやかなスマイルだ。なんかこの、見上げる感じが新鮮…。
 でも、よろしくってどういうこと?
 急いで香盤表の麻矢さんのところを見ると、"コーラスボーイTall"と書いてある。

「昔のコットンクラブでは、コーラスの条件は"Tall(背が高い)"、"Tan(浅黒い)"、"Terrific(素晴らしい)"の3Tだったんだって。それを役の名前にしたらしい」
「…それってつまり…」
「私たちはTallのカップルってこと」

 ……ああ……そりゃあ、騒ぐはずだ……。
 フリーのイケメン・麻矢さんが、最初に参加する顔見世舞踊ショウで共演する娘役と仲良くなってペアを組むかもしれないって、みんな狙っていたんだもん。そのポジションを私が取ってしまったというわけだ。

「何か…、すいません、私なんかで」
「どうして? 私は嬉しかったけどな。じゃあね、またあとで振付のときに」
「よろしくお願いいたします!」

 最敬礼して見送った後、周りの人たちが私たちに注目していたことに気付いた。
 とりあえず誤魔化し笑いをして晶さんを探す。とにかくこれはピンチだ。入団以来最大の…。

「晶さん! 何で教えてくれなかったんですか。人が悪いんだから…」
「配役は自分で見ないとダメでしょ。その前に私が言っても信じないだろうが」

 今日の晶さんは肩のところが大きく尖った黒いミニワンピースっていう彼女以外の日本人は誰が着ても似合わないだろうっていう私服を着ていて、言葉の説得力がさらに増してる。

「…まあ、確かに…」
「レオタードだけじゃあれだから私の稽古用のスカート貸そうか?」
「ありがとうございます! それをお願いしようと思って…。あ。でも、入らないですよねきっと」
「ホックの位置を付け替えてあげる」
「ああ〜神様仏様晶様〜!」
「でも悪いけど靴はないからね。あんたのサイズなんて」
「とりあえず今日は男役の靴でやります」

 午前中に芝居の本読みと歌稽古があり、昼休憩を挟んで午後にショウの振付というのが今日のスケジュールだ。昼休みになると、晶さんは短いひらひらしたエメラルドグリーンのスカートをロッカーから出してきて、ウエストのホックをぎりぎりまで端に寄せて縫ってくれた。晶さんは歌もダンスも芝居もうまい上に、裁縫も得意なんだ。

「娘役の踊りってどうやって踊るんですか? 組む時ってどこに立てばいいんですかね…」
「今そんなこと聞いたってしょうがないでしょ。先生と麻矢さんに任せなさい」
「晶さーん…晶さんだって娘役になったとき何もわからなかったんですよね? どうやってそんなにできるようになったんですか?」

 不安すぎて、せっせと縫い針を動かしている晶さんの腰に抱き着く。この人に見放されたらもう終わりってくらいの気持ちになってしまっていた。

「実践あるのみ」
「うーん、そうか…」
「髪型とかメイクどうする?」
「お願いします!!」
「とことん甘える奴だな…」

 スカートを直し終えた晶さんは、私の髪の毛を容赦なく掴んで眉をひそめた。

「こんだけ短いと何もできんな」
「三日前に切ったばかりなんですよね」
「何で切った!?」
「だって顔合わせ前だから…」
「ヘアサロンは新しい作品の役が決まってから行くもんでしょうが。覚えときなさい」
「はい、すみませんでした」
「しょうがねえな全く」

 そうは言いながらも、スカーフとヘアピンを使ってターバン風にぴっちりとまとめてくれて、眉毛も細めに整えてくれ、ボリュームたっぷりのマスカラとオレンジピンクのチークで何とか女顔に見えるように仕上げてくれた。ほんと、すごい。たった10分で自分でも驚くくらい変身しちゃった。

「明日から自分でやってよ」
「無理ですよ!」
「無理じゃない。徹夜で練習しろ」

 そう言うと晶さんはご飯を食べに行ってしまった。ああ、昼休憩あと二十分しかないんだ。
 私はご飯など食べている場合じゃない。レオタードとタイツに着替えてスカート履いて靴履きかえて、背中のストレッチして、高音域の発声もしておかなきゃ。
 油断してたけど、海外の振付師の方って、男役とか娘役とかの区別にまったくこだわらない人が多いんだよね。外国人、特に西洋人から見たら私たち男役も完全に女性に見えるらしい。むこうの女性って身長も普通に百七十センチくらいあるし、体の骨組みしっかりしてるし、顔だって鼻と頬骨が高くて日本人にくらべたらずいぶん男性的だから。
 それにしても私に女役なんてできるんだろうか…。養成所に入学して以来ずっと男役を追求してきて、プライベートでも芸事でも一度も女をやったことがないから、不安しかない。
 うっ、このスカート苦しい…ちょっと体を曲げたらホックがはじけ飛びそう…。

「翔子ちゃんいる? …わあ、可愛くなってる!」

 ロッカールームを覗きに来た麻矢さんが、満面の笑みでにこにこ、いや、にやにやしている。なんか笑いをこらえているように見えるのは気のせいってことにしとこう。

「麻矢さんの相手役させていただくんですから、ちょっとでも可愛くしないと!」
「娘役の鑑だね」
「そんな、とんでもないです!! ふつつか者ですが精一杯がんばります。メイクもいっぱい研究しますし、今日からダイエットもします!」
「私も翔子ちゃんを誰よりも綺麗に見せられるようにがんばるよ。松団に来て最初に組ませてもらう相手役さんだし」
「……それめちゃくちゃ申し訳ないんですけど……」
「あはは、そんなことないって。初めての相手役さんが翔子ちゃんで良かったなと思ってるよ、ほんとに」

 ああ、そんなこと、私なんかじゃなくって、もっと可愛くてデキる娘役に…将来ペアを組めるような子に、言うべき台詞じゃないか。
 でも心は正直に嬉しくなってしまう。娘役さんが相手役さんにほわ〜ってなっちゃう気持ちって、きっとこれなんだ…。

「翔子ちゃんが男役じゃなかったらペア組めたのにな」
「へ…?」

 一瞬耳を疑うようなつぶやきが聞こえて、間抜けな顔で聞き返すと、麻矢さんは何でもないよと笑って手を振った。
 それは転向しろってことなの?いや、いくらなんでも無理。冗談でしょ…このガタイの良さだけが取り柄の私が娘役だなんて。
 動揺しているその間にも、晶さんのスカートのウエストがきつすぎて、私はだんだん苦しさに耐えきれなくなっていった。息を吸ってお腹をへこませてやっと止められるホックだから、少しでも気を緩めるとお腹に食い込んでくる。ウォーミングアップを始めるとその体勢のせいでますます苦しく、気分も悪くなってきて、こんな状態で振付を受けられるのかと不安になってきたとき、麻矢さんが言った。

「脱いじゃえば? スカート」
「…あ、…いいですか、ね…」
「苦しいんじゃない?」
「はい…実は…すごく」
「脱いでおいで」

 私はダッシュでロッカールームに行ってスカートを脱ぎ、開放感にほっとして、また稽古場へ戻った。養成所の生徒みたいな恰好だけど、しょうがない。女役が回ってくるなんて想像もしてなかったんだもん。

「よっしー、やっぱりスカート小さかった?」

 髪をぴちっと夜会巻きにして紺色のひらひらしたスカートを履いた晶さんが私の姿を見て駆け寄ってきた。

「すみません、せっかく直してもらったのに。晶さん細すぎるんですよ。ウエスト何センチなんですか?」
「デリカシーのない質問をするな」

 ぺしっと腰を叩かれ、さっさとストレッチするよ、と腕を組まれた。
 稽古の前のウォーミングアップでは、私はいつも晶さんと一緒に、互いに押し合ったり引っ張り合ったりするペアのストレッチをする。でも、今回は麻矢さんという「相手役さん」がいるしなぁ…と迷っていたのに、晶さんは全然かまわずいつもどおりにやるつもりみたいだ。
 ふと見やると麻矢さんは一人で黙々と柔軟をしていた。まあ、そうだよね、考えすぎか。

「晶さんもこの場面出てるんでしたっけ」
「私コーラスガールTanだよ」
「えっ、そうだったんですか!?」
「組んでる相手の香盤くらい見とけ」
「すいません、自分の役で動転してて」
「だろうな」
「お相手のコーラスボーイは?」
「小柴さん」
「うわ、すごそう…」
「それどういう意味?」
「いててて…!晶さん、引っ張りすぎ…!」

 小柴広海(こしば ひろみ)さんは、麻矢さんの同期の一〇四期で、主席入団のバリっバリのダンサーだ。特にラテンを躍らせたら右に出るものはいないって言われてる情熱的な表現力が魅力で、性格は超ストイックな、ミスターパーフェクトって感じの人。
 Tanは確か浅黒い肌色っていう意味だから、熱い小柴さんと絶対零度の晶さんが濃いめのメイクをして絡んでるのを想像したら、Tall組は勝てる気がしない。私なんかを抱えちゃった麻矢さんが気の毒だよ…。
 振付の前からもう負けた気持ちになりながら、胸に英語で「YOSSY」と書いたガムテープを貼って振付師の先生を迎えた。
 振付がスタートしてすぐ、私はパニックに陥ってしまった。
 振付師が助手の女性ダンサーと組んでお手本を見せてくれるんだけど、身に染みついた習慣とは恐ろしいもので、目が勝手に男性パートの振付師のほうを追ってしまうんだ。
 そのたびに、違う、私は女のほうだから…、といちいち自分に言い聞かせて助手の女性のほうに視線を集中するという無駄を嫌というほど繰り返してしまい、その結果全然ついていけなくて、注意されまくった。英語が得意じゃないから怒られていることの全部がわからなかったのは不幸中の幸いだな…これ一言一句わかってたら相当へこんでたと思う。

「翔子ちゃん大丈夫? あとでゆっくり復習しようね」
「はい、すみません…」
「謝らないで。初日までに仕上げられればいいんだから。二人で頑張ろう。翔子ちゃんなら絶対できるよ」
「麻矢さん…」

 相手役さんにこんな優しい言葉をかけてもらったのは初めてで、不覚にも泣きそうになってしまった。だいたい相手役さんと組んで踊るナンバーに出たことだって数えるほどしかないのに、今まで組んだ相手は身長の関係もあってほとんど晶さんだったから…。晶さんだったらこんなときは口もきいてくれないか、良くて「本気でやれよボケが!」ってお尻を蹴られるぐらいだろう。

「自主稽古して明日までに完璧に覚えてきます!!」
「私も稽古付き合うよ。二人で踊れないと意味ないでしょ?」
「麻矢さん…すみません…」
「だから謝らないでって」

 そのとき、さっきまで小柴さんと二人で先生に褒められまくっていた晶さんが私の腕をつかんだ。

「おい。今日はこれから靴と稽古着を買いにいくよ。ヒールで踊れなかったらそれこそ意味ないし」
「あ、そっか…」

 その通りだ。ダンスには靴がすごく重要なのである…。晶さんが思い出させてくれなかったら明日の稽古に間に合わないところだった。

「麻矢さん、すみません。ちょっとシューズ買ってきます」
「私も行こうか?」
「麻矢さんまで行かなくていいよ」

 晶さんはいかにも気安い調子でさっと断ってくれた。よかった…買い物にまで付き合わせちゃったら、いくらなんでも申し訳なさすぎる。

「じゃあ待ってるから。今夜は何時まででも稽古できるから焦らなくていいよ」
「すみません! ありがとうございます!」
「だから謝らないでって…」

 苦笑している麻矢さんを残して、私と晶さんは私服に着替え、銀座のダンス用品店へとタクシーを飛ばした。

「晶さん、麻矢さんと仲良いんですね。いいなあ」
「養成所入る前から知り合いだからね。何、相手役になって舞い上がってるわけ?」
「当たり前じゃないですか。娘役やるの初めてなんですから。踊ってるとき視線合わせてくれたり支えてくれたりするとめっちゃときめきます」
「…その気持ちは多少わかる」
「晶さんは通ってきた道ですもんね。麻矢さん、あんなに男らしかったのにっておっしゃってましたよ」
「…………」
「晶さん、どうして娘役になったんですか?」
「そっちのほうが向いてると思ったんだよ」
「まあ、確かに…」
「自己プロデュース力の勝利ってこと」
「自分で言うんだ!」
「事実だから」

 娘役のなかでは長身で個性的な晶さんは、可憐な花束のなかにすっと一本立っているカラーみたいに、魅力的でセクシーだ。ほんとに、私なんかとどうして組んでくれたんだろう…しかも私の靴とか稽古着を選ぶのについてきてくれまでもして。
 晶さんとペアを組むことになったのは、私が入団二年目を迎えた春のことだった。
 晶さんはそのとき娘役に転向して一年ほど経っていて、髪も伸び、いろんな男役からペアの申し込みをされ始めていた。私はまだまだ劇団員としての生活に慣れるのに精一杯で、ペア制度に憧れてはいたけど、あと一年くらいは修行してから後輩の娘役を探そうかなと思っていた。
 そんなとき、晶さんに声をかけられたんだ。『よっしー、ペア組んであげようか』って。

「タクシー代払っとくから先に降りて」
「ううっ、ありがとうございます! 神様仏様晶様!」

 そのダンス用品店は花水木歌劇団の団員みんなの行きつけで、私も常連だから、顔なじみの店員さんに相談してすぐシューズを手に入れることができた。細かい調整もしてもらい、あとは稽古着を選ぶだけだ。
 衣装のデザイン画はいつも稽古初日に壁に貼りだされる。コットンクラブのコーラスガールの衣装はキラキラ光る生地でできたキャミソールドレスで、お尻の下ぎりぎりくらいまでのミニスカートだった。品よくしかもセクシーに踊るのはかなり難しそうだ。ミニ丈のスカートがずらりと吊るされた壁の前でどれがいいのかと悩んでいると、晶さんがぱっと一枚のスカートをハンガーから取り上げて私のウエストに当ててきた。

「サイズはこれくらいだな」
「…たぶん…」
「長さもこれでいいと思う」
「あの、晶さん。麻矢さんてどういう服が好きか知ってる?」

 昔からの知り合いなら好みも知っているんじゃないかと思ってそう尋ねると、晶さんはぎょっとしたような顔で私を見つめた。

「…麻矢さんの好みに合わせようとか思ってるわけ?」
「だって、いちおう相手役さんだし」

 すると晶さんははっはっはと笑い出した。ちょっと、失礼なんですけど!?

「そんなこと気にしてる暇があったら一分でも早く稽古場に帰って稽古しな」

 ぐさっ。正論すぎる。
 私は何の文句も言わずに晶さんが選んでくれた黒のスカートと水色のスカートを試着してそれを購入し、5センチヒールのダンス用パンプスと一緒に稽古場に持ち帰ってさっそく着替えた。
 麻矢さんは稽古着のままでピアノの前に座って楽譜の音取りをしていた。私が大急ぎで入って行くと、すぐに楽譜を閉じて立ち上がった。

「お待たせしました!」
「早かったね。…うん、その水色、似合ってる。ちゃんと娘役さんになってるじゃん!」
「えへへ」

 そんな場合ではないのにデレデレしてしまう。晶さんに見られたら「あんたがへたくそなせいで先輩待たせといてその態度は何だ!?」と叱り飛ばされたと思うけど、さっきのお店でバイバイしてきたから今はフリーだもんね。
 麻矢さんは場面の最初から一フレーズずつ何度も同じ振りを繰り返してくれた。もうこれ以上付き合わせるわけにはいかないと思って次に行こうとすると、「わかった? 大丈夫? もう一回やっとく?」と言ってくれて、私が自信を持ってできるようになるまでとことん踊らせてくれる。
 結果、ほんの七分くらいの場面を最後まで稽古するのに三時間もかかってしまい、私も麻矢さんも汗だくになって床に座り込んだ。稽古場にちらほらいた他の劇団員も、もうみんな帰ってしまっている。

「ふー! やりきったね」
「娘役がこんなに難しいと思いませんでした…。一緒にお稽古してくださって本当にありがとうございます…」
「足、大丈夫? 新しい靴なんでしょ」
「ああ…」

 新品のダンスシューズ、しかも慣れないピンヒールで踊りまくった足には、靴擦れが出来ていて血が滲んでしまっていた。ほんとはめちゃくちゃ痛くて歯を食いしばって踊っていたんだけどまあ靴擦れなんて捻挫とかに比べたらすぐ治るからいいんだ。

「うわ、痛そう…!! 言ってくれればよかったのに。ダメだよ、痛いとき黙って我慢するのは」

 麻矢さんの声が初めて厳しくなって、私のでかい足を優しくいたわるように触ってくれる。彫刻みたいにきれいな麻矢さんの手が汚れてしまうような気がして、慌てて足をひっこめた。

「だいじょうぶです! こんなのいつものことだし、明日には治りますから」
「甘く見ないほうがいいよ。治らないうちに稽古するとまたひどくなるから」
「はい。麻矢さん、めっちゃ優しいですね!」
「…その笑顔がずるいんだって、晶が言ってたのよくわかる」
「へ?」

 晶さんが私のことを? 麻矢さんに? しかも、ずるいってどういうことだろう。

「ずるいって…?」
「怒ろうとしてもつい許しちゃうって」
「それにしては怒られてますけどね…あれ以上怒るつもりだったのかな…」
「あははは! 面白いね、翔子ちゃん」

 私はまた緩んだ顔でえへへと笑ってしまった。面白いって言われるのが一番嬉しいんだ。
 靴を両手に持ってはだしでぺたぺたとロッカールームに行き、シャワーを浴び(お湯がしみる!)、新しい下着に着替えたところで、麻矢さんに声をかけられた。

「翔子ちゃん、手当するからおいで」
「え!? そんな、いいです!」
「よくない。こっちおいで、早く」

 麻矢さんにおいでって言われたら逆らえない。私はわりとあられもない恰好で麻矢さんのところへ行った。麻矢さんはなんと、床に片膝をついて、私の足をご自分の膝の上に持ち上げようとした。

「ちょ。ちょっとまってください!」
「ここに足載せて。ふらふらしないように壁につかまっててね」
「でも…」

 思わず反論しかけて、それは先輩に言っちゃいけない言葉だっていうことを思い出してぐっと飲み込んだ。だってこっちはほとんど裸なんだよ!? いくら集団生活に慣れてて気にしないっていっても、目の前にパンツって失礼じゃないかな…。
 でも麻矢さんはほんっとうに気にしていない様子で、どこに用意していたのか、応急手当セットを広げて、手際よく消毒をして絆創膏を貼ってくれた。

「うううう、灼ける…!」
「可哀想に。結構ひどくやっちゃってるね。この絆創膏、靴擦れ専用のやつだから、この上から靴下履いて靴を履いたら家に帰るまではそんなに痛くないと思うよ。…はい。終わり」
「ありがとうございましたっ」

 慌てて足を下ろし、道具を片付けるのをお手伝いする。
 ロッカーの扉につかまって痛みに耐えていたときは気付かなかったけど、ひざまずいて足の手当てしてくれるって、これ、リアルに王子様じゃん…。観客もいないのに私だけがこんなシチュエーションを味わっちゃったなんて、なんだかすごくもったいない。そう思ったら勝手に口から言葉が出ていた。

「あの、今のこと、月刊はなみずきの松団日誌のネタとして編集部さんに提供してもかまいませんか?」
「え?」
「麻矢さんがひざまずいて足を手当してくださったなんてスーパー胸キュンエピソードを私だけが独り占めするのはもったいなさすぎますから…」

 麻矢さんはなんだか変な顔をしていたけど、ふっ、と笑って目をそらした。

「別にいいよ。はなみずきに載せるほどのネタでもないと思うけど…。それより早く着替えなよ。風邪引いちゃうよ?」
「あ、はい、すみません!」

 まずい、興奮のあまり下着姿で熱弁してしまった。そりゃ目をそらされるはずだわ…恥ずかしすぎる…。
 舞台の早替わり並みに急いで私服に着替え、スニーカーを履いて、汚れ物をビニールバッグに突っ込んだ。
 麻矢さんはとっくに帰る準備を終え、窓際で窓を開けて空気の入れ替えをしている。皇居がすぐそばだから緑の匂いのする風が入るんだ。シャワーあがりのさらさらヘアが夜風になびいて、ノーメイクの白い肌の透明感が際立っていて、稽古場にいるときよりもほんのり女性らしい。本当に綺麗な人だな…。
 見惚れていたら、ふいに麻矢さんがこっちを見た。

「終わった?」
「はい!」
「帰ろうか。翔子ちゃん家どこ?」
「寮生です」
「なんだ、そうなんだ。じゃあ足が痛くなる心配もないね。よかった」
「そんな心配までしていただいちゃって…、あの、本日は、自主稽古に付き合っていただき、何から何まで、ありがとうございました」

 私はこれ以上できないくらい深々とお辞儀をした。

「相手役さんだもの。当たり前だよ」
「麻矢さんってほんっとに本物の王子様なんですね。私も男役として、麻矢さんみたいにかっこよくなりたいです。無理かもしれないけど、いつか…」
「翔子ちゃんならなれるよ。私より断然素敵な男役に」
「うっ…、それは絶対無理だと思いますけど…」
「でもとりあえず今は娘役がんばろうね」
「はいっ!!」

 明日からの稽古もますます気合いを入れて行くぞ。そう固く心に誓いながらドアを開け、先に麻矢さんを通して廊下に出た。そして、もう私たちしか残っていなかったロッカールームの電気を消した。

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