花ものがたり 若葉の章 〜お見合い〜

5/12更新 5/18更新 6/1更新




 キス事件の噂は松団の団員たちを発端にあっという間に劇団じゅうに広まり、翌日の昼頃にはもうすっかり養成所の生徒全員の知るところとなっていた。しかも演劇の教師の耳にまで入ったものだから、

「おい、今日はお前ら二人でやってみろ」

といつもの組み合わせではなくわざわざ瑞穂と布美子を組ませてキスシーンの練習をさせられた。
 負けず嫌いの布美子は鉄仮面のように平静を装っていたが、瑞穂は柄にもなく照れてしまい、変にぎこちない演技になってやはり怒られるはめになってしまった。

「実地訓練の成果が出とらんぞ」

 同期たちは遠慮なくげらげらと笑うし、布美子にはバカと思いっきり真顔でののしられるしで、瑞穂は終始立つ瀬がなかった。布美子にとっては演技の成績が何よりも大事なのだ。
 自分がキスしたせいで好奇の目で見られる相手を守ることもできず、求めていた結果を出してやることもできなかったことに、瑞穂は落ち込んだ。もちろんそれ以前に気持ちを伝えることさえもできなかったわけだが。こんなに良いことが一つもないキスは初めてだ。
 瑞穂は放課後になると、布美子と二人の部屋へ戻るのもばつが悪く、廊下の向かいの宮下朱里と鶴木めぐみの部屋へ遊びに行った。二人はポータブルプレイヤーで仲良く花水木歌劇団のDVDを見ていた。

「あ、瑞穂ちゃん。いらっしゃい」
「どうしたの? めずらしいね」

 この部屋は化粧品や雑誌や漫画で雑然としていて居心地がいい。瑞穂はいつも布美子がすべてをきれいに片付けてしまう自分の部屋を思い出した。

「お邪魔します。布美子が超怒ってて怖いから逃げてきた」
「昨日のこと?」

 優しい鶴木は心配そうな顔をしている。宮下はのんびりした口調でとぼけた。

「お二人さん、付き合ってるんじゃなかったの?」

 瑞穂はすすめてくれた椅子に後ろ向きにまたがって背もたれを抱きしめた。

「別にそんなんじゃないし。あんなカチカチ頭と付き合ってるわけないじゃん。そう、固すぎるんだよ布美子は」

 やっと言いたい言葉が見つかって憤慨していると、宮下にあきれられた。

「じゃなんでキスしたの」

 布美子に頼まれたからと言えば確かにそうだが、その頼みはいったんは断った。独占欲に駆られ、稽古場のフロアまで追いかけていって無理やり壁に押し付けてキスした理由は一つしかない。

「……好きだから」

 ぼそっとつぶやくと、目の前の二人ともに溜息をつかれてしまい、瑞穂はますます落ち込んだ。

「瑞穂、やりすぎなんだよ。主任の性格から考えて、規格外の非常識なことしたらパニック起こさせちゃうだけじゃない? 好きなら正攻法で行かないと」
「でもねぇ、同期に恋愛感情もってるってだけでも非常識かもねぇ……」

 鶴木がしみじみと言うのに瑞穂は同意するしかなかった。

「そうなんだよ。布美子ってさ、なんでも全部目的があるの。行動とか、発言とか全部。それでその目的に向かって超まっすぐなの。私のこともいろいろ面倒見てくれるけど、それも同期みんなを劇団に入れるっていう目的があるわけよ。私にやる気出させて落ちこぼれさせないようにするのが自分の仕事だって思ってるんだと思う」
「わかるわ。そういう一生懸命なとこが可愛いし尊敬してるんだけど、恋愛は……ふーちゃんの考えてる道からそれちゃうことかもしれないね」
「全然眼中にないんだよ」

 瑞穂は椅子の背をつかんだ手の上に顎をのせて溜息をついた。

「昨日の夜『私のこと好きなんでしょ』って笑いながら言われて何も言えなかった」
「意外だなあ。瑞穂なら、そうだよってすぐ言っちゃいそうなのに」

 宮下の言う通りだった。以前の瑞穂はイエスかノーか、気持ちはいつもはっきりしていた。それに、それほど好きでなくても、嫌いでさえなければ付き合うことになんのためらいもなかった。

「自分でも意外。布美子の顔見たら何も言えなくなるんだ。もしかしたら恋じゃなくてただの子供っぽい友情なのかもとか不安になって。今まで女の子好きになったことないしさ……」
「でもキスしたんでしょ。どうだった?」
「カッとなりすぎちゃって覚えてない」

 本当は、布美子が寝入った後にこっそり奪った二度目のキスはしっかりと覚えているのだが、瑞穂は言えなかった。風呂上りのシャンプーの香りやしっとりした白い肌にドキドキしたことや、閉じられた瞼を縁どるまつ毛の長かったこと、唇が驚くほど柔らかかったこと。この寝顔を誰にも見せたくないと思ったこと。この子を守りたいと思ったこと。

「瑞穂が我慢できるなら、無理やり行動したり告白したりしなくても別にいいんじゃないかな。少なくとも卒業まではずっと一緒にいられるんだから」

 ピンクのスウェットの部屋着が似合う鶴木がにこっと微笑んだ。

「片思いだって楽しいわよ」

 秘めた思いを悶々と抱えて隣にいることの何が楽しいというのか……思わず不満そうな顔をしてしまったらしい。宮下がくっと笑いをこらえたのがわかった。

「めぐちゃんの言う通りさ。主任も今はそういうの受け入れられる状態じゃないだろうし、瑞穂の気持ち知ったら絶対ものすごく悩むと思う」
「だよね……ほんっとくそ真面目なんだもん」

 深い溜息の後、ようやく顔を上げて宮下と鶴木を見た瑞穂は、二人が着ているスウェットのロゴが同じだということに気付いた。宮下のほうの色はエメラルドグリーンだ。

「もしかして二人、色違い着てる?」

 鶴木ははにかみながら頷いた。

「うん。和製英語でペアルック。私たち仲良しだから」
「夜もおんなじベッドで寝てるもんね」
「卒業したら一緒のマンションに住もうって話してるの」

 互いに目を合わせて微笑みあう二人を見て、瑞穂は驚きとともにますます行くところのなさを感じてしまったのだった。



 慌ただしく春は過ぎ、あっという間に猛暑の夏が来た。
 あれから布美子は、授業のない日は劇場の楽屋へ手伝いに行くようになった。今までは瑞穂を机に座らせて補習をさせようと必死になっていたのに、長時間二人きりでいることをなんとなく避けているように瑞穂は感じた。もちろん、かつての粟島との約束――二年生になったら手伝いに来るように――を守っただけかもしれないが。
 そういうわけで何の進展もなく迎えた8月中旬の日曜日。

「大変長らくお待たせいたしました。ただいまより、第62回花水木歌劇団平和祈念コンサートを開演致します」

 客席にアナウンスが流れるのを蒸し暑い舞台袖で聞きながら、瑞穂は衣装の国民服の袖を直し、帽子の被り具合を調整した。
 毎年8月に九段会館で開かれる平和祈念コンサートは、一般公募した無料招待客のみが観覧でき、養成所の生徒40名と、歌の得意な劇団員数名が出演する。衣装は戦時中の人々の苦労をしのぶということでその時代を表すものになっていた。選曲も平和の尊さや命の大切さを訴えるものになっている。
 だが瑞穂が今祈っているのは世界平和ではなく、整列した生徒たちの身だしなみの最終チェックをする布美子のおさげ髪ともんぺ姿がとんでもなく可愛いことに誰も気づきませんように、ということだった。

「みんな、リラックスして、しっかり喉を開けて歌って。では行きます」

 40人の生徒たちは無言でうなずき、舞台の壇上へ上がった。
 最初の曲は『アンパンマンのマーチ』、続いてウェールズ民謡の『とねりこの森』を歌い、それからはソロを歌う劇団員のバックコーラスを務める。それほど難しい仕事ではないが、ラジオで全国に生中継されるので気を抜けなかった。
 公演は1時間半で終了し、楽屋の少し広いスペースに出演者全員が集合した。司会進行を務めた梅団のトップ井之口夕子(いのくち ゆうこ)が締めの挨拶をする。

「自画自賛ですがいいコンサートだったと思います。平和な時代に舞台に立てていることの幸せにあらためて感謝して、これからも日々精進しましょう。あ、バスは30分後に出るんで急いで撤収してください。お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした」

 全員が声を揃えてそれぞれの楽屋の鏡の前へ戻ろうとしたそのとき、わあっと息をのむような声が聞こえ、瑞穂はそちらを振り返って一瞬固まった。
 黒いジャケットと黒髪ときらきら輝く黒い瞳が印象的な男役と、ライトグレーの夏のスーツを涼しげに着こなしたクールな美形の男役が連れ立って楽屋の廊下を歩いてきたのだ。言うまでもなく、松団トップの才原霞と準トップの粟島甲子だった。

「おはようございまーす」

 大きな声で引っ張りながら、皆が一斉に道を開けた廊下をずんずん歩いてきた才原は、壁際に立っていた瑞穂に気付き、ニヤニヤと笑った。

「私も見てたで」
「ありがとうございます」
「今の舞台のことじゃないよ。壁ドンキスシーン。生の」

 もう四か月も前の話を思い出させられて頭に血が上りかけた瑞穂を置いて、才原たちは井之口のところへ行っていた。養成所の生徒は早く着替えて楽屋の片づけをしなければならないのだが、瑞穂は二人から目を離せなかった。

「才原さん、粟島さん、いらしてたんですね」
「見せてもろたで。井之口があんなにしゃべれると思わなかった」
「そんな、才原さんの足元にも及びません」

 恥ずかしそうに恐縮する井之口夕子は、梅団のダブルトップのひとりという大スターでありながらうぶな少年のようだった。旧日本軍ふうの軍服も可愛らしく見える。

「歌も上出来やったし。ところでな、ちょっと二年生の主任呼んで欲しいんですけど」
「えっ、養成所の子ですか?」
「ん。粟島とお見合いさせるねん」

 瑞穂は耳に全神経を集中させた。お見合いとはどういうことだ。
 それまでずっと黙っていた粟島が口をひらいた。

「誤解を招く言い方はやめてください。井之口、悪いけど布美子ちゃん貸して」
「はぁ……」

 井之口もいぶかしげな顔をしている。その表情は粟島が誰かを"ちゃん"付けで呼んでいるということへの違和感だったのだが、瑞穂にはわかるはずもない。
 三人を凝視していた瑞穂は、ぐるりとあたりを見回した井之口とばっちり目が合ってしまった。

「そこの僕、岸田君にすぐここに来るように言って」
「……はい」

 よりによって自分がその役目を言いつけられるとは。瑞穂は背中に才原と粟島の突き刺さるような視線を受けながら、のろのろと大部屋を覗いた。

「布美子、いる?」

 いなければいいのにという瑞穂の願いをよそに、布美子はすぐ駆け寄ってきた。まだおさげ髪のままだが、すでに黒スーツの制服に着替え終わっている。

「どうしたの、瑞穂」
「今、絶対井之口さんのとこに行かないで」
「どうして?」
「どうしても」
「わかった」

 布美子は言うなり、出口を通せんぼした瑞穂の腕の下を素早くくぐり抜けて走っていった。瑞穂も溜息をついて追いかける。
 果たして、布美子は井之口と一緒にいる二人の松団団員の姿に硬直していた。

「布美子ちゃん、お疲れ様。これからちょっと付き合ってくれる? 話したいことがあるから」

 粟島が愛想のない声をかける。行くな、行くなと念じたが布美子はすぐに頷いてしまった。

「はい、でも……」

 このあとの後片付けと養成所の生徒たちの引率という仕事が残っている……そのためらいが布美子の顔に出たのを見て井之口が言った。

「行っといで。後は同期に任せて」
「わかりました」

 振り向いた布美子に見上げられて瑞穂は唇を噛んだ。確かに今学期は瑞穂が次席なので布美子がいないときは代わりをつとめなければならない。そうは言っても粟島とお見合いだなんて簡単に見過ごせることではなかった。言いたいことは山ほどあるが言えない――これほど悔しいことがあるだろうか。

「瑞穂、後をお願い」
「私も一緒に行きたい」
「ダメよ」

 短い言葉は取りつく島もなかった。

「ほな、どこ行く? 本部じゃ色気ないし、このへんのカフェやったら神保町まで足のばしたほうがええかな」
「もう行くところは決めてます。二人で話したいので才原さんは来ないでください」

 こちらもぐうの音も出ないほどバッサリだった。以前にも思ったが、先輩に対してこんなにきつい言い方をする劇団員を瑞穂は見たことがない。
 粟島に思いっきり邪魔だと言われた才原は、眉毛をぴくぴくさせて呆れ声を発した。

「ハー! じゃ、あとは若い二人に任せて……って言っても気になるよねえ?」

すれ違いざまに瑞穂に話しかけながら、才原は軽く手を振ってさらりと楽屋を去っていった。後輩に失礼な発言をされても、ねちねち怒らず潔く退いてあげるなんて、どれだけカッコイイ人なのだろう。トップスターはさすがだ。

「じゃ、行こうか」
「はい。……お先に失礼いたします」

 瑞穂は複雑な感情をめいっぱい抱え込んだまま、粟島にエスコートされて出て行く布美子の後姿を見送った。



 布美子は門限の少し前に寮の部屋へ帰ってきた。おさげ髪の頭をうなだれて。

「お見合いどうだった?」
「…………」

 本当は気になってたまらないのを隠してからかう口調で聞いたのだが、布美子の表情があまりにも深刻だったので、瑞穂は格好つけるのをやめた。

「大丈夫? 顔色悪いよ。どこ連れて行かれたの?」
「粟島さんの家」

 布美子はベッドに座り、か細い声で聞き捨てならないことを言った。

「家って! なんでそんなとこ行ったんだよ」

 粟島は男ではないが相当なプレイボーイだという噂を聞いている。そんな相手の家に行ったら何をされるかわかったものではないのに、布美子はのこのこと付いて行ったのだ。

「人に聞かれたらいけない話だったのよ」
「それにしたって個室の店とかいろいろあるじゃん。いきなり家に連れ込むなんて非常識だよ。何もされなかった? 大丈夫?」
「されるわけないでしょ」

 布美子は大きな溜息をついてベッドにうつ伏せに寝てしまった。制服の白いブラウスの背中がぐったりしている。

「ほんとに大丈夫なの? 何か変なことされたんじゃないよね?」

 もう瑞穂の頭の中は良くない想像でいっぱいだった。だって、布美子はボロボロに疲れ切っているように見える。もしこの天使のように清く真面目な乙女を無理やり手ごめにしたのなら、たとえどんな大スターだろうと絶対に許さない。
 だが、熱くなる瑞穂の心とは反対に、布美子は冷たく言い放った。

「バカじゃないの?」
「バカって何!」

 思わず声を荒げると、布美子はまた深い溜息をついた。

「そんなことじゃないのよ。心配かけてごめん」

 布美子が体を起こしたのでようやく瑞穂はその顔を見ることができた。やはり疲れた様子だったが、微笑みを浮かべている。

「瑞穂、座って」

 二人は並んでベッドに腰かけた。じれる気持ちを抑えきれずに隣の横顔をちらちらと伺いながら、瑞穂は布美子が口を開くのを待った。

「もう……どうしたらいいか、わからない」

 布美子はささやくように小さな声で言った後、ぐっと唇をかみしめた。

「粟島さん、私に、相手役になってほしいって」

 やはりその話だったか――悪い想像が的中して瑞穂は落ち込んだ。一年以上も前のあのお花見コンサートのときから粟島はそのアイデアを温め続けていて、布美子が二年生になったこの夏、ついに告白したのだ。当時は夢のような話だと思っていたが、いったん実現に向けて動き出したら瑞穂には止めようがない。

「来年の四月は才原さんの退団公演で、その後の松団のトップが誰になるかはまだ決まっていないけど、粟島さんになるかもしれない。そしたら私をトップ娘役に指名したいって」
「でも布美子が松団に入るかわかんないじゃん」
「もし私が引き受けるなら、才原さんが口添えしてくださるからほとんど確実に松団に配属されるだろうって言われたわ」
「それで、引き受けるの?」

 瑞穂はどんな小さな感情のサインも見逃すまいと布美子の顔を見つめた。
 布美子は真面目な顔ですぐに首を横に振った。

「無理よ。初舞台が主演なんてありえない」
「じゃあ、断ったの?」

 そう尋ねると、布美子は何度目かの溜息をつきながら瑞穂の肩に額を預けてきた。自然に背中に手を回したとき、ふと頭の中に、こんなことは粟島はしていないだろうという優越感がよぎった。もちろん、ただの同期の気安さゆえのスキンシップに特別な意味があるわけではないが。

「本当は断りたかったけど、それもできなくて……。粟島さん、今まで松団でたくさんの人にペアを申し込まれたけど全部断ってたらしいの。でも、なぜだか私となら組んでみたいって。前例がないことだけど絶対守る、うちの両親が心配するようなら会って説得するって……」
「何だそりゃ」

 まるで本当に嫁にもらうつもりのようだ。

「あの粟島さんがこんなに熱心に言ってくださってるのに、私の方から断ってしまってもいいのか、悩んじゃって……それに、たくさんの人が願っても手に入れられないチャンスを無駄にするのもよくないような気がして。でもやっぱりまだ舞台に立ってもいないのにトップ娘役なんて無理だし……」

 布美子の髪から、かすかに青っぽい香水の匂いがした。それは粟島の匂いだ。もし相手役になったら、布美子の全身は完全にこの香りになってしまうのだろうか。

「無理とかじゃないと思うけど、私は。どっちのほうがいいか悪いかじゃなくて、布美子が歩きたいほうの道を選びなよ」

 瑞穂にはそう言うことしかできない。大勢のファンに憧れの熱視線で見つめられる美しいカップルになって粟島の隣で微笑む布美子を想像すると、悲しさと口惜しさで胸がいっぱいになる。しかしそれは瑞穂がどんなにあがいてもどうすることもできないものだ。舞台人としての布美子の人生は彼女自身のものなのだから。

「うん……返事は文化祭が終わってからでいいって言ってくださったから、自分の本当の気持ちがわかるまで、もうしばらく考えてみる」

 瑞穂はただ布美子の頭を撫でてやった。
 本当は反対したくて仕方がない。あんなやつの相手役になんかなるなとすがりついて訴えたい。それをぐっとこらえて、瑞穂はひとことだけ言った。

「チャンスはこれっきりじゃないからね」
「え?」
「もし私がトップになったら、そのときは絶対布美子を指名するもん」

 布美子は笑った。

「ほんと? 忘れないでよ」

 笑われるのは心外だが、暗い顔をしていた布美子が少しでも笑顔になってくれたことが嬉しかった。

「夕飯までちょっと休んでれば? 私、代わりに一年生の点呼に行ってくるから」
「悪いわね、ありがとう」

 布美子がベッドに横たわったのを見届け、瑞穂は部屋を出てそっと扉を閉めた。
 五階の廊下へ行くと、すでに一年生は整列していた。20人の視線がいっせいに瑞穂に集中して好奇心に輝き出す。なぜ今日は布美子が来ないのか、という疑問が全員の顔に浮かんでいて、瑞穂は笑いそうになってしまった。一日に一度、布美子が一年生全員の名前を呼び、目を合わせて顔色を見るこの行事を楽しみにしている子がたくさんいるのだ。

「茜ちゃん、全員いるよね?」
「はい」

 一年生の主任の小早川茜がくりくりした目を瞬かせて頷いた。

「じゃ、解散」

 人数を数えることもなく踵を返した瑞穂に、たまらず小早川が駆け寄った。

「杉山先輩。岸田主任はどうされたんですか?」
「今日はサボり」
「嘘です!」

 つい先輩に対してふさわしくない言葉が出てしまったのを恥ずかしそうに謝りながら小早川は一歩下がった。

「すみません」
「いいよ謝らなくて。布美子、ちょっと疲れてるみたいだったから代わりに来ただけ。何でもないよ。心配しないで」
「そうですか」

 一年生たちの顔が一斉に安心した表情になり、瑞穂はまた笑いをこらえた。

「あの、杉山先輩。点呼はされないんですか?」
「全員そろってるんでしょ。だったらOK」
「その……、できれば、お願いしたいんですけど」

 真っ赤になっている小早川を見て瑞穂はすぐに察した。にやにやしながらもったいぶって咳払いをする。

「じゃあ、点呼します。小早川茜さん」
「はい!」
「以上。ほかの子は名前覚えてないからあしからず」

 可愛いなあ、としみじみ思いながら瑞穂は一年生のフロアを後にした。自分たちはとてもこんな素直で純粋な一年生ではなかった。今になって二年生たちの苦労がわかる。先輩への尊敬も憧れもなく反発ばかりの一年生はどんなに扱いにくかったことだろう。
 思えば遠くへきてしまったのものだ。ちょっと前まで小早川と同じ立場だった布美子は、歌劇団に入団するという目標を大きく飛び越えて、トップの座に手が届くところにいる。
 このままでは瑞穂は確実に取り残されてしまう。でも、だからといって、いったいどうすればいいのだろう。少しでも早く上に行くために今できることが何かあるのだろうか。
 瑞穂は何となく生きていた学校生活を急に考え直し始めた。


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