花ものがたり 若葉の章 〜初主演〜

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 今年の文化祭の準備は、かなり余裕があった。
 準備が大変だった割には舞台成果がそれほどでもなかった去年の二年生のオリジナルミュージカルを反面教師にして、布美子たちは、得意なジャンルごとに班に分かれて出し物をするというオムニバス形式のショーを計画していた。そのほうが、自分の班の出し物に集中すればよいので稽古がしやすいし、観客もいろいろな場面を見られて飽きないだろうという計算だった。
 布美子は歌の得意な生徒3人と一緒にオペラ「リゴレット」の四重唱をやることにしていた。ちなみに瑞穂はタップダンス班で、ミュージカル映画「パリのアメリカ人」のタップシーンを再現するらしい。
 八月も末になってから、布美子はオペラの楽譜を手に入れて事務室のコピー機でコピーをしていた。

「岸田さん、文化祭の準備? 大変ね」

 いつも寮あての郵便物などを渡してくれる事務室の女性職員から声をかけられ、布美子は会釈した。

「ありがとうございます。ヴェルディのカルテットをやるんです」
「あら、踊らないの? 私岸田さんのダンス見てみたかったわ」
「ダンスはダンス班の子たちがやりますから……」
「へえ、そういうやり方なのね、今年は」

 女性職員は少し残念そうな顔をして去っていった。もしかしたら、このようなオムニバス形式の発表は手抜きに見られるのかもしれない、と布美子は思った。だとすれば、そんな印象を拭い去るような素晴らしい出来栄えを目指さなければならない。
 コピーを終えて、オペラ班の皆と待ち合わせしていたピアノのある教室へ行くと、なぜか二年生全員が集まっていた。

「どうしたの? みんな集まっちゃって」

 布美子が教室に入ってきたのに気付いた鶴木めぐみが机の間をぬって駆け寄ってきた。

「ふーちゃん、あのね」
「何?」
「私たち、見つけちゃったの。すごくぴったりなの! ふーちゃんと瑞穂ちゃんに」

 そこへ宮下朱里が教壇に飛び上ってよく通る声を張り上げた。

「みんな聞いて。文化祭の出し物、フットルースやろうよ」

 布美子は驚いて固まってしまった。

「ちょっと待って。今年は班に分かれて出し物するって決めたじゃない」
「うん、だけどすごくぴったりだと思うんだ、私たちに。あと一か月あるし、集中してやればできるさ」

 布美子は思わず教室の中の皆の顔を見回した。布美子の顔色を伺っているのがわかる。どうすればいいかと考えているとき、だらりと机に寝そべっていた瑞穂が言った。

「えー、フットルースなんてダサすぎだよ。中学の文化祭みたいじゃん」
「そんなことないよ、ウエストエンドのパフォーマンス見た? あのすごいリフトは瑞穂にしかできないって」
「それに有名なヒーローの歌もふーちゃんの歌で聞いてみたいし」

 鶴木も一生懸命に訴えてくる。

「そう言ってくれるのは光栄だけど、私はみんなが主役になれるものがいいと思うわ。文化祭は養成所生活の集大成だもの」

 クラスの皆がこのやりとりを注視している。布美子ももちろんフットルースという作品は知っているし実際に舞台で見たこともあった。だが、せっかくの皆の晴れ舞台を、主演と脇役とその他大勢というようなまるで劇団に入った後のような形にしてしまうのは良くないのではないかと思ってしまう。

「だからこそ、二人にやってほしいの。だってそうしたら大成功間違いなしだもん。私たちが全員で同じ舞台に立てるのは文化祭だけでしょ? みんなで力を合わせて一つの作品を作りあげたいの」
「別に二人が成績優秀だから主役を譲ろうって気持ちで言ってるんじゃないよ。私たちの文化祭を伝説のステージにするためには二人をセンターに立たせるのが一番いいって演出家として思っただけ。私たちならきっと劇団の本公演よりすごいものが作れると思うんだ」
「朱里が演出家なの?」
「うん」
「だけどさ、もうあと一か月ちょっとしかないじゃん。歌詞の日本語訳とかどうするの? 振り付けは?」

 瑞穂は相変わらず寝そべった格好のまま教壇の上の宮下に尋ねる。
 すると宮下は教卓の中からケースに入った一枚のDVDを取り出した。

「はいっ、ウエストエンド版のDVD入手しました! ダンスはこれでコピーして、言葉は全部英語のままやればいいさ」
「あ、それなら……」

 瑞穂が頷きかけたので、布美子は慌てた。

「全部英語だなんて大変じゃない! 間に合わないわよ」
「できるよ。ねえみんな?」

 ぱちぱちと教室じゅうに響く拍手が起こり、布美子は悟った。もう根回しはすんでいるのだ。去年の文化祭のときと同じ、布美子以外は全員賛成というわけだった。いや、今回は瑞穂も蚊帳の外だったらしいが。
 知らない間に主役に祭り上げられた二人は、教壇の上に押し上げられた。

「うちら一○六期の代表はやっぱり主任と瑞穂だよ。二人のすごさを劇団じゅうに見せつけてやろう!」
「オー!」

 狭い教室はかつてないほどの熱気にあふれた。同期全員がこんなに楽しそうに盛り上がっている姿を見せられたら、やめようとは言えない。皆、自分の出番を削ってまで瑞穂と布美子に主演をさせたいと思ってくれているのだ。もうこれは全力を尽くすしかないと布美子は覚悟を決めた。

「ちょっと静かにして」

 教室は一瞬で静まり返り、皆が布美子に注目した。

「みんながやりたいなら、私もできる限りのことはします。もう時間がないから一時も無駄にしないでやるべきことをやりましょう、全体の指揮は朱里に任せる」
「合点だ」

 歌舞伎ふうに胸を叩いて、朱里は再び教卓の中から二冊の台本を取り出して布美子と瑞穂に差し出した。

「はい、台本。もうほかのみんなは持ってるから、これは二人の分ね」
「さっすが……仕事早いわ」

 瑞穂は感心してぱらぱらと台本をめくっている。もちろん横書きで全部英語だ。いつのまにこんなものまで作っていたのだろう。

「ごめんね、ふーちゃん。いつも全体のことばかり考えてるふーちゃんのことだから、きっと主演なんて言ったらかたくなに辞退するだろうなと思って、今まで黙ってたの。引き受けてくれてとってもとっても嬉しい」
「すっかり騙されたわ。去年も今年も、ほんっとにあなたたちって……呆れた」

 怒ろうとしたが、鶴木の満面の笑顔を見ると何も言えない。布美子は不思議だった。どうして皆は自分の知らないところで結束して決定を覆してしまうのだろうか。それも、布美子が決めたものよりもさらによい道を見つけ出してくる。それは、布美子にそれほどのリーダーシップがないということだ。

「みんな、ごめんね。こんな馬鹿な主任で。私、どうやったらみんながもっとやる気を出せるか、もっと輝けるかって自分なりに一生懸命考えてたつもりだったけど、全然みんなの本当の思いをわかってなかったみたい……」
「そういうところが主任の良い所なんだよ」
「良い所?」
「素直でまっすぐなの。ふーちゃん大好き」

 抱き着いてきた鶴木を抱き締め返し、布美子は、この年に入学したことは本当に幸運だったと思った。



 文化祭に向けた一か月間の集中稽古が始まり、布美子は一日が24時間では到底足りないというほどの焦りを感じていた。普段から養成所の授業に主任の仕事に自主練習と、決して遊んでいたわけではないが、そんな毎日すら甘かったと思える。

「だからそこはファルセットじゃなくてさ、ミックスヴォイスでいけない? 低い声ももっと強く出していいから」

 経験のないロックミュージカルの歌をものにするため、布美子は必死で瑞穂のアドバイスを飲み込むしかなかった。
 このミュージカルを中学時代にサマーキャンプで演じた経験があるという瑞穂は、夕食を終え部屋へ戻ってからもつきっきりで指導してくれている。英語の歌詞の細かい発音までひとつひとつ指摘して直させるのだ。瑞穂がこんなに熱中して文化祭の稽古に取り組んでいるのが布美子には新鮮だった。今までは大体やらされて仕方なくという感じだったからだ。

「ここじゃ大きい声出せないから、稽古場行ってやろうよ」
「稽古場は今劇団の稽古をやってるから使えないわ」
「うーん……じゃあ、屋上は?」
「行ったことないけど、上がれるのかな。危険だから入れないんじゃない?」
「行ってみよう」

 二人は制服姿で懐中電灯と楽譜を手に階段を上っていった。階段では誰にも会わない。七階以上に部屋を持っている劇団員はエレベーターを使用するからだ。
 やっと屋上へ続く扉にたどり着き、ノブを回すと、扉が開いた。

「開いてる! やったね」

 屋上への扉が開くということは、誰かがわざわざ管理室に鍵を借りに行って使用しているという証拠なのだが、もちろんそのとき二人はそんなことなど知らない。
 さっそく、見晴しのいい皇居側の柵のそばに陣取り、明かりをつけた懐中電灯と楽譜を地面に置いた。生暖かい夜の風が吹いて、楽譜をめくろうとする。

「何からやる?」
「ここでやるなら、Almost Paradiseでしょ」

 夜の工事現場で星を見上げながら歌う愛のデュエットを瑞穂は提案した。ラブシーンにコンプレックスのある布美子はこの歌に少し苦手意識を持っていたが、苦手は克服しなければならないという愚直な思い込みで頷いた。

「いいわよ。じゃあ前奏抜きで。5、6、7、8」
「ちょっとちょっと! ロックの曲の入りはワンツースリーフォーだよ」
「あ、そうか」

 瑞穂はくすくす笑いながら仕切り直し、自分でカウントをして歌いだした。瑞穂は絶対音感があるのでチューナーも音源もない中でぴったりと楽譜どおりの音程を出してくる。甘くソウルフルな歌声を自分ひとりだけに向けられて、布美子は一瞬本当に心が動くのを感じた。二つ目のフレーズは布美子が歌い、すぐに二重唱になる。
 屋上の広いスペースを瑞穂のリードで自由に動きながら、布美子は歌詞の世界に没入した。テクニックの向上や発音の確認のために稽古をしているはずなのに、うまく歌おうという意識はどこかへ飛んでいってしまい、ただひたすら気持ちよくて楽しくて仕方がない。
 柵に片手をかけて向かい合い、見つめ合う。普段は照れくさくてあまり相手の目を直視したりしないが、一曲を歌う間に布美子の体には役が乗り移っていた。
 パラダイスと三回歌う最後のリフレインが終わると、そのまま身をかがめた瑞穂の唇を顎を上げて受け入れていた。直後に我に返ってぺしっと相手の頭をはたく。

「痛っ! 何すんの」
「本当にキスしないでよ変態」
「そっちだってしたじゃん」
「してない」
「したよ」
「してないわよ」

 恥ずかしさについ声を荒げてしまい、布美子は反省した。

「ごめん。喧嘩してる場合じゃないわよね。稽古しないと」
「私は別にデートでもいいけど?」
「ふざけないで」

 再び手をあげてしまったとき、近づいてくる足音と咳ばらいが聞こえて、布美子は固まった。もしかしたらまた大失敗してしまったのかもしれない。
 恐る恐る振り向くと、そこには布美子が想像もしなかった人が立っていた。懐中電灯の明かりだけでは顔はよく見えないが、そのシルエットだけではっきりとわかる。びっくりするほど足が長く、そして特徴的なワンレングスの髪が夜風に揺れている……花水木歌劇団を代表する美形のトップスター、梅団の磯田未央(いそだ みお)だ。

「二人とも、歌うまいね。梅団に入らない?」
「申し訳ありません、お騒がせしました」

 よりによって梅団のトップにこんなところを見つかってしまうなんて本当に運に見放されているとしか言いようがない。

「二年生だよね」
「は、はい」

 磯田は布美子たちのところへ近づいてきた。ファン時代から駅のポスターでいつも見ていたあの美しい顔が間近にあって、まともに口がきけないほど緊張してしまう。

「ここはデートには最高だけど、鍵が開いてたら誰かいるってことだから気をつけて」

 磯田は布美子に向かって茶目っ気たっぷりにウインクした。デートじゃないんですと思いっきり打ち消したかったが、布美子にはトップスターの言葉に訂正をいれる勇気などない。しかも瑞穂が調子よく、

「はい、これからは気を付けます」

と敬礼したりするものだから、もう消えてなくなりたいような気持ちになる。

「じゃ、中へお入りなさいな。もう劇団の稽古は終わってるよ、そんな懐中電灯の明かりじゃなくてお稽古場でやればいい」
「はい。ありがとうございます」

 布美子は持ってきた楽譜と懐中電灯を素早くかきあつめてお辞儀をし、瑞穂を急き立てて屋上から建物の中へと戻った。

「さっきの人誰? どこかで見たような気がするんだけど」
「梅団の磯田さんよ。トップさん! いい加減にそれくらい覚えたら?」
「ごめんごめん、怒らないで」
「怒るわよ。磯田さんにまで変なとこ見られちゃったかもしれないのに……」
「私たち付き合ってるって思われたかな?」
「お詫びのお手紙で否定しておくわ」

 そうだそうしよう、と布美子はもう一度心の中で頷き、瑞穂を従えてまっすぐに稽古場のフロアへと降りて行った。今出てきた扉に、向こう側からそっと鍵をかけられたことなど知る由もなく。



 布美子たち二年生20人は、高い集中力で全編英語のせりふと歌とダンスを頭と体に叩き込み、ひとつひとつの場面を練り上げていった。この期にはもともと歌やダンスの専門学校に行っていた経歴を持つ者が多いうえ、養成所に入学してからは世界的に有名な一流の教師に厳しく芸事を仕込まれている。本気になればかなりの力が出せるのだ。
 そして一年生たちも嬉々として裏方の仕事をやっていた。特に人気だったのは稽古場で音楽の頭出しをするテープ係だ。なぜかといえば、もちろん二年生たちが稽古している姿を見られるからである。

「あの、岸田主任、御相談があるのですが今よろしいでしょうか」
「何?」

 布美子は一年生の主任の小早川茜に呼び止められて振り向いた。

「私たち一年生にお稽古を見学させていただけませんか?」

 小早川はなぜか必死な顔をしている。

「どうしたの、急に」
「実は、テープ係をやりたい子たちが多すぎて競争になってしまって、学年全体が落ち着かないんです。みんな、先輩たちのお稽古が見たくてしょうがないんです」

 布美子はかわいらしさに笑い出したいのをこらえて深刻そうな表情を作った。

「それは大変ね」
「はい。稽古場にいる人たちがうらやましすぎて作業にも身が入らなくて……」
「30分だけならいいわ。私語厳禁、それと携帯電話の持ち込みは禁止。徹底してね」
「はい! ありがとうございます!」

 小早川は瞳を潤ませてばねのようにお辞儀をし、走り去って行った。

「そういうわけで今日は見学がいるから真面目にやってね」

 その日の稽古が始まる前、布美子は瑞穂に釘をさした。

「いつも真面目にやってるじゃん」
「どこが」

 本番を一週間後に控えた今日は衣装合わせもかねた通し稽古なので、キャストはみな、衣装担当者が古着屋で集めてきたアメリカンカジュアルを身に着けている。
 布美子が指定されたのは、白いフレンチ袖のブラウスにデニムベスト、明るいピンクのチェック柄のミニスカートだった。そして芝居の台詞にも出てくる赤いウエスタンブーツを履く。

「このスカート、短すぎない?」

 布美子は鏡に映る自分の姿を見て恥ずかしくなった。

「牧師の娘なんだからもうちょっとおとなしそうな服がいいんじゃ……」
「それじゃ作品の雰囲気に合わないよ。本当はそれでも長いくらいなのに」

 衣装係の土居寛奈がとんでもないと首をふる。

「スカートは学校と家の場面の衣装で、遊びに行ってるときの衣装はホットパンツだからね。それくらいで恥ずかしがらないでよ、主任」

 演出の宮下朱里にもにやにやされて、布美子は抵抗を諦めた。瑞穂はシンプルな白いTシャツにブルージーンズという格好で、体の細さをごまかすための上着をGジャンにするかパーカにするか試していた。

「Gジャンのほうが張りがあるからいいんじゃない? 踊りづらい?」
「いや、大丈夫」
「髪型どうする?」
「実はウィッグ持ってるんだ。ブロンドじゃないけど明るい色の」

 瑞穂はバッグから自前のカツラを取り出した。それを見て布美子ははっとした。以前に黒髪のカツラを買いに行ったとき試着して、あまりにも似合いすぎていたので鏡を見せないようにした、あのオリーブ色のカツラだ。

「瑞穂、それどうしたの?」
「あのとき布美子の態度が気になったから、あとでもう一度試着しに行ったんだよ」
「変なところばっかり勘がいいのね……」

 そのカツラをつけて衣装を着た瑞穂が振り返ると、鏡の前に膝をかかえて並んでいた一年生たちがいっせいに黄色い歓声を上げた。

「あなたたち、静かにできないなら出て行ってもらうわよ」

 叱ったものの、一年生たちが叫ぶのも無理はないほど瑞穂は美しい青年に変身していた。こんな見た目もうるわしく歌もダンスも抜群の実力を持つ主役の相手役を自分がやってもいいのだろうか。布美子にはまったく自信がない。

「ふーちゃんのカツラはこれね」

 いつもの真っ黒なひっつめ髪の上から、かすかに緩いウェーブのかかったセンターパーツのロングのブロンドのカツラを被らされる。鏡を見ると、急に派手なギャルのようになった自分が映っていて、布美子はいたたまれなくなった。

「こんなので踊れるかな……髪が絡まったりしない?」
「カチューシャでとめてみよう。うん、可愛い。見て見て、瑞穂」

 土居に呼ばれて振り返った瑞穂は、一目見るなり笑い出した。

「何よ!」
「堅物に見えなくなった」

 瑞穂は布美子の頭に手を伸ばし、ブラウンのカチューシャの位置を直してもう一度しげしげと顔を見た。

「似合わないのはわかってるわ」
「化粧したら似合うよ。寛奈、メイク道具貸して」
「あいよ」

 ふわふわとしたブラシで頬や瞼を撫でられ、普段ならあり得ない太さのアイラインを入れられ、こってりと口紅も塗られて、目を開けた布美子は自分の顔にびっくりした。日本人らしい薄くて年の割に子供っぽい顔が、すっかり意志の強そうなアメリカンガールになっている。

「これでよし」

 瑞穂はいつものように後ろから布美子の首に両腕を回しておぶさってきた。そしてこれみよがしに二人の姿を鏡に映しながら、見学している一年生たちに同意を求める。

「俺たちベストカップルだよね」

一年生は全員が見事に声を揃えて、

「はいっ!」

と答えた。

「もう暑いからべたべたしないで。真面目にやってって言ったでしょ」
「はいはい」

 鏡に向かって舌を出している瑞穂には気づかなかったふりをして、布美子は気を取り直し、軽く首のストレッチと発声をした。
 不思議なもので、見た目が変わると心の持ち方も変わり、いつもより大胆に演じられそうな気がしてくる。さっきまでは瑞穂と釣り合わない自分にがっかりしていたが、今は少し自信も出てきた。もしかしたら、瑞穂は布美子が自信を失っているのに気付いてわざと一年生にあのように尋ねたのかもしれない。
 礼を言わなければと瑞穂を探すと、他の娘役と携帯で記念撮影している姿が目に入り、言うのをやめた。
 全員の衣装合わせが終わってやっとリハーサルが始まり、オープニングの曲を踊る。危惧していたとおり、観客の目を意識した瑞穂のリフトはいつもより10センチも高く、布美子は放り投げられそうになってひやりとしながらもどうにか踊り切った。ロングヘアのカツラで踊るとなると、髪の毛のさばき方も重要になってくる。舞台稽古の前に本番と同じ格好で稽古する機会を設けて正解だった。

「お疲れ様、一年生はもう帰っていいわよ」

 約束の30分がとっくに過ぎてしまっていて、布美子は慌てて出番の合間に声をかけた。

「岸田主任……お願いします。最後まで見学させてください」
「お願いします!」

 一年生たちが必死の面持ちで声を揃える。

「悪いけど、観客がいると瑞穂が張り切りすぎちゃうから私の身がもたないの。やることは山ほどあるはずよ、早く行きなさい」
「はい」

 主任の小早川茜は泣きそうな顔で一年生たちを促し、稽古場を出て行った。小早川が瑞穂のファンだということは布美子も知っているしそのしょんぼりした背中を見ていると可哀想にも思うが、瑞穂をあれ以上調子に乗らせるわけにはいかない。ラブシーンでまた本当にキスなどしようものなら一年生たちを無駄に失神させるだけだ。
 ギャラリーのいなくなった稽古場で、布美子は雑念を振り払い、通し稽古に集中した。泣いても笑っても本番まであと一週間だ。



 出演者が横一列に並び、深々と一礼をする。超満員の観客の総立ちの拍手を浴びながら、布美子はあまりの安堵感にひどい貧血に襲われてしまった。最後まで立っていられるかわからない不安と戦いながら、挨拶の文句を必死に頭のなかで繰り返す。
 顔を上げると真っ先に両親の顔、そして後ろのほうに座っている才原と粟島の顔が目に飛び込んできた。

「本日は、花水木歌劇団養成所文化祭公演を最後までご観劇くださり、ありがとうございました。これからも、花水木歌劇団にふさわしい劇団員となれますよう、ますます精進してまいります。変わらぬご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

 最後の力を振り絞って叫ぶように挨拶をする。緞帳が降りきった瞬間、布美子は舞台袖に飛び込み、洗面所へ駆け込んで吐いた。まだ怒涛のような拍手が響いているのが聞こえる。もう一度緞帳を上げなければいけないだろう。
 

「布美子! 大丈夫?」

 追いかけてきた瑞穂に声をかけられたが顔を上げられない。

「カーテンコール、出られる?」
「無理かも……」

 布美子は口をゆすいで紙で拭き、その場にしゃがみこんだ。だいぶ楽にはなったが立ち上がるとまた気持ちが悪くなってしまいそうだ。

「ごめんなさい。私抜きでやって」
「主役がいないんじゃ意味ないよ。あ、そうだ」

 瑞穂はしゃがんでいる布美子の腕をそっと自分の首にまわさせた。

「つかまって」
「ちょっと、瑞穂」

 そして、王子が姫を抱くように抱き上げたのだ。

「無茶しないで! 腰傷めないでねお願いだから」
「大丈夫大丈夫」

 瑞穂はひょいと立ち上がって布美子を抱いたまま歩き出した。

「布美子は笑顔で手を振ってるだけでいいから」
「ちょっと待って、まさかこのまま出る気じゃないわよね?」

 演出担当の宮下朱里が挨拶をして場をつないでいるステージへ向かって瑞穂は歩いていく。布美子は真っ赤になって動揺した。主演コンビが片方を抱きかかえたままのカーテンコールなど見たことがない。瑞穂に抱かれたまま客席に向かって笑顔で手を振るなんて恥ずかしすぎることができるわけがなかった。

「出るよ」

 瑞穂は止める間もなく舞台へ出て行った。しかもセンターへ。
 客席から歓声と口笛が押し寄せ、布美子は瑞穂の首筋に顔をうずめてしまった。

「恥ずかしがりやの彼女ですみません」

 満員の客席がどっと沸く。おかげで誰も布美子が具合の悪いことに気付いていないらしいことが唯一の救いだ。

「レン役の杉山瑞穂です。私は養成所に入ったとき、全部に付いていけなくて、こんなところに入るんじゃなかったと後悔していました。でも、学校生活を過ごしていくうちにかけがえのない仲間ができ、この学校に来てみんなと出会えて、一緒にこのステージを作り上げることができて、本当に良かったと心から思っています。最高の時間をありがとうございました。サンキューベリーマッチ!」

 感極まった瑞穂の叫びを聞いたとたん、布美子は自分でも思いもかけない衝動に突き動かされてぱっと顔を上げた。そして、降りていく緞帳の下で満面の笑みを浮かべて手を振り、瑞穂の頬にチュッとキスをするふりをした。瑞穂は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤニヤしながら客席にウインクを飛ばしはじめた。
 幕が閉まるやいなや瑞穂は袖へ走りながら、

「布美子が具合悪いから医務室連れていく」

と同期の皆に声をかけ、楽屋の一階下にある医務室まで布美子を運んでくれた。2幕もののミュージカルで激しいダンスを踊り切った直後に、体重は軽いほうだとはいえ一人前の女を抱えて舞台挨拶をした上医務室まで運ぶとは、瑞穂の体力と腕力は常人の域を超えている。
 医務室に常駐している看護師が、すぐに布美子をベッドに寝かせるよう指示し、カツラをとってブラジャーのホックをはずしスカートのウエストを緩めた。

「大丈夫?」
「ごめん、ありがとう。受験のときからこんなのばっかりでほんと情けない……」
「何言ってんの。おかげでキスしてもらえたし」
「してないわよ、あれは演技」
「そうか。布美子は芝居でしか恋しないもんね」

 嫌味を言う瑞穂の額を突こうと手を伸ばしたところへ、ベテランのふくよかな看護師が体温計を持ってきた。

「もうおしゃべりはやめてしばらく目を閉じていらっしゃい」

 布美子は素直に言う通りにした。早く治って皆のところへ戻り、力を合わせて作り上げた公演が大成功に終わった喜びを分かち合いたいのだ。

「私、しばらく付き添っていていいですか?」
「静かにできるならいいですよ」
「やった」

 願わくば瑞穂には主任の代理として挨拶と後片付けの指揮をしてきてほしいのだが、世話をかけた手前そんな勝手も言えず、布美子はもうあきらめて寝ることにした。
 まぶたを閉じ、意識して深い呼吸をする。
 たった今まで立っていた舞台の強い照明とその後ろに暗く広がる客席のざわめきが脳裏によみがえる。眩しさと付けまつ毛の重さに対抗してしっかりと目を開けると、視線の先にいるのは長い手足をデニムに包んだナイーブな青年だ。オリーブ色の髪をふわりとなびかせて振り返り、澄んだ瞳でじっと布美子を見つめる。
 歌の歌詞そのもののパラダイスがそこにあった。瑞穂は本当に布美子の心のドアを開いてくれた。もちろんそれは舞台の上の芝居であって、二人は役を演じていたにすぎないが、心が動いたのは現実だ。
 そのとき布美子は初めて、トップになりたい、と思ったのだった。



卒業
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