花ものがたり 若葉の章 〜初kiss〜

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 長かった冬がやっと終わり、三月の中旬になった。
 布美子たち一年生は、二年生の卒業式の準備と新一年生を迎える準備で大忙しだった。
 四月からは住む部屋も変わる。卒業にともない二年生たちは劇団員専用フロアに引っ越しをしたり寮を出たりして、そのあとの空き室に布美子たちが引っ越しをするのだ。布美子はその部屋割りと引っ越し作業の段取りを調整しなければならず、てんやわんやだった。

「ねえ、ホワイトデーのお返しは?」
「何それ」
「ひどい! バレンタインデーにチョコあげたじゃん」

 やっとベリーショートと言えるくらいまで髪が伸びた瑞穂が不満そうな顔をしている。しかし布美子は正直それどころではなかった。

「ごめん、忘れてた」
「せっかく勇気を出して告白したのになあ」

 布美子は与太話を無視して送辞の原稿を書いていた。この一年間のいろいろを思い出すと仕事とはいってもこみあげてくるものがある。本番でみっともなく泣いたりしないように、感情をかきたてるような言葉を避けて書くのは意外と難しかった。

「布美子、無視しないでよ」

 瑞穂は後ろから肩にあごをのせてきた。ガムの甘い匂いがする。最近学校ではしっかりとした行動をするようになってきたが、部屋に戻ると昔のままだ。

「やめて。原稿書いてるんだから。瑞穂も勉強したら?」
「ホワイトデーのお返しくれたら勉強する」
「勝手にしなさい」

 背中に瑞穂を背負ったままで布美子は作文し続けた。
 そういえば、瑞穂には言っておかなければならないことがある。

「瑞穂、来月からは私は同室じゃないからね」
「えっなんで?」

 頬がくっつくほどの至近距離から覗き込まれて布美子は顔をそむけた。

「主任は一人部屋だから」
「今だって主任じゃん」
「瑞穂はもう私が教えなくてもやっていけるでしょ。上級生と同じ部屋になるわけじゃないんだし」
「そんなこと言わないでよ……布美子がいないと生きていけない」

 布美子は瑞穂の額を手のひらで押しのけた。

「甘えないで。もう二年生になるのよ。一年生が入ってくるの、わかってる?」

 自分で言ってぞっとしたが、本当にもうあと二週間で二年生はいなくなってしまい、布美子たちが養成所の全生徒の上に立ってまとめねばならなくなるのだ。今までは同期20人を背負っていればよかったが、それが突然二倍になる。布美子は改めて気を引き締めた。

「わかってるよ。やっと二年生になれるんだもん。これで少しは自由になれると思うとやったーって感じ」
「瑞穂」

 浮かれている心得違いの同室者に向かって、布美子は釘を刺さなければならなかった。

「二年生になったら授業時間も科目数も増えるし、イベント出演もほとんど毎週になるし、劇団の事務や稽古の手伝いもあるの。今よりずっと忙しくなるうえに一年生の指導もしなきゃいけない。二年生が遊んでるとこなんて見たことないでしょ?」
「そういえば……休み時間に勉強してた」
「それくらい時間がないのよ」

 瑞穂はおとなしくなったと思ったら急にベッドに飛び乗った。

「じゃあやっぱり布美子と同じ部屋じゃないと困るなぁ……部屋に帰ってから勉強教えてもらわないといけないし」
「何言ってるのよ勉強する気なんかないくせに」

 結局、押し問答の末に、布美子は根負けして瑞穂と同室に暮らすことになった。
 このときから、養成所の主任は一人部屋というルールはなくなり、一年生の余り者が二年生と同室になる風習もなくなったのだった。

「送辞。
 春を待ちわびた木々の芽がふくらむこの新しい季節に、花水木歌劇団養成所をご卒業される一○五期生の皆様、まことにおめでとうございます。
 丸二年の年月を真摯にご研鑽に励まれ、狭き門をくぐり続けて、今日のこの晴れやかなご卒業の日を迎えられましたことは、先輩方のたゆみなきご努力のたまものと尊敬の念をあらたにいたしております。
 この一年間、何もわからない私たちを、さまざまな行事、また日々の生活を通じて、熱くご指導いただきました。先輩方のお言葉はいつも理に適って、私たちがみずから考え気付く力を育ててくださろうとしていることを感じました。このご恩は一生のものと深く感謝申し上げます。
 これからは、先輩方の背中を追いかけ、よりいっそうの精進をかさね、花水木歌劇団養成所の伝統を受け継いで参ります。
 最後に、劇団員となられます皆様のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げ、送る言葉といたします。
 一○六期生代表 岸田布美子」

 声は震えなかったが、手は思いっきり震えてしまった。必要以上にかさかさ音をたてながら送辞の紙を折りたたみ、提出して、みっちり稽古したタイミングで礼をした。この礼が一年生全員ぴったりと揃わなくてはいけないのだ。
 恒例の国歌斉唱や大臣などの挨拶、卒業証書の授与とすすみ、最後に豊原の答辞があって、卒業式は終わった。
 式が終わって、布美子は豊原に呼ばれた。豊原は泣いてはいないが、どこか放心したような穏やかな顔をしている。

「ご卒業おめでとうございます」

 布美子がお辞儀をすると、豊原は軽く頭を撫でてくれた。泣くつもりはなかったのに、ぐっと熱いものがこみ上げる。

「ありがとう。私、竹団に配属されたの」
「……井之口さんの団じゃなくて残念でしたね……」

 部屋に貼ってあったポスターを思い出して思わずそう言ってしまうと、豊原は笑った。

「別にそういうことでがっかりしたりしないから」
「失礼しました」

 豊原はポケットから白いハンカチを出して布美子の目じりの涙を拭ってくれた。布美子は気恥ずかしくてうつむいてしまう。きっと皆がこっそり注目しているだろう。主任同士としての最後の会話を。

「岸田にこれをあげようと思って」

 豊原は、首元にきれいに花の形に結ばれていた制服のスカーフを取って、布美子に差し出した。緑、金色、臙脂のストライプのスカーフだ。

「一学年上の主任だった小柴さんから頂いたものよ。大事にしてね」
「ありがとうございます」

 代々伝わっているそれが自分の手元に来たことに、布美子は感動した。

「つけてあげる」

 布美子のスカーフを外し、少しだけ色あせた伝統のスカーフをきれいに結んでくれながら、豊原は小さな声でささやいた。

「岸田、二年生の主任になるからって緊張してるでしょ。あまり気負わなくても大丈夫だから。杉山みたいな大物の一年生もそうそういないだろうしね」
「はい……本当にいろいろありがとうございました。たくさんご迷惑かけてすみませんでした」
「ううん。一年生の主任が岸田でよかったよ」

 ついにこらえきれず嗚咽してしまい、もうそうなると止められなくて、布美子は豊原の胸の中に泣き崩れた。それくらいこの一年はいろいろなことがありすぎたのだ。
 本番での大ピンチでもうだめだと思ったことも何度もあった。自分の失敗で同期に大迷惑をかけたことも、孤立感に悩まされたことも、寝食ままならないほどのプレッシャーに押しつぶされそうになったこともあった。
 それでも今こうして新たな春を迎えられたのは、たくさんの人から支えてもらっていたからなのだ。

「布美子!」

 駆け寄ってきた瑞穂の心配そうな声に顔を上げ、布美子は照れながら涙を拭いた。



「おいおい、それはないだろ」

 演劇の講師は大きな声を上げて笑った。わざとではなく本当におかしかったのだと布美子にもわかった。

「お前たち恋愛もの見たことないのか? そんなのじゃ三階席の上から見たってキスには見えないぞ」

 布美子は相手役の土居寛奈(どい かんな)と一緒にすみませんと頭を下げた。
 今、演劇の授業ではラブシーンという課題で実技を学んでいる。愛の告白をし、受け入れてキスをするまでの流れを男役と女役でカップルになって一組ずつアドリブで演じていくのだが、布美子の組は最低の判定を受けてしまったのだ。

「キスシーンはな、仕掛けていくほうの動きももちろん大事だが、いつも言ってるように受ける側の芝居がすべてを決めるんだ。してる芝居とされてる芝居、この二つが揃って初めてリアルな芝居になる。岸田、お前のことを言ってるんだぞ」
「はい」

 返事はしたものの、キスをされている芝居などどうしたらいいのかまったくわからない。もう一度演じさせられたが、講師は苦い顔で首を傾げただけだった。布美子は土居にごめんと小さな声で謝った。

「しょうがないよ。主任、キスとかしたことないんでしょ」
「そういう問題なの?」
「違う?」

 その日、布美子は他の授業を受けている間もずっとキスシーンのことを考えていた。
 夕方になり、六時の門限に五階の廊下で一年生の点呼をし、具合の悪そうな生徒を医務室へ送り届け、夕食をとって部屋へ戻ると、一足先に部屋へ戻っていた瑞穂がジャージ姿でベッドの上で柔軟体操をしていた。

「おかえり。シャワー先に浴びたから」
「うん。……瑞穂、ちょっといい?」
「何?」

 布美子は瑞穂のベッドに腰かけた。

「瑞穂に頼みたいことがあるんだけど……」
「珍しいじゃん。どうしたの?」

 瑞穂は起き上って隣に座り、心配そうな顔で覗き込んできた。思いつめた気持ちが顔に出てはいけない、と布美子は意識的に頬をゆるめた。

「キスしてくれない?」

 瑞穂の口が半開きになって固まった。

「……は? もしかして、今日のやつ? 演劇の……」

 布美子はこくりと頷いた。授業は学年全員の前で行われるので、瑞穂も布美子が先生に注意されているところを見ていたのだ。

「どうしたらいいか全然わからなくて、お手上げなの。だから実際にやってみたらいいんじゃないかと思って」

 すると瑞穂に軽く肩をつかまれた。驚きに目を見開いている。

「ちょっと待って。布美子、今までキスしたことないの?」

 布美子はむっとした。アメリカ育ちの瑞穂に比べれば遅れているかもしれないが、養成所の生徒になるような真面目な日本人女子はだいたいこんなもののはずだ。

「悪い?」
「じゃなくてさ。だったら本当に好きな人が出来たときのために取っときなよ。ファーストキスが芝居の稽古だなんて……」
「そんなこと気にしないわ。今の私には必要なんだもの、経験が」

 気乗りしない様子の瑞穂に向かって布美子は訴えた。

「大したことじゃないじゃない。アメリカでは友達にキスしたりするんでしょ?」
「大したことないって布美子……、悪いけど、私にはできない」

 瑞穂は完全にそっぽを向いて立ち上がってしまった。

「どうして? 女にキスしたくないから?」
「……そういうのわかんないのって、キス以前の問題じゃないの?」

 その声が冷たく聞こえて、布美子はカチンと来た。いつも自分が主任として上から物を言っているから、瑞穂のほうが得意なことになるとこんな風に意地悪を言うのだ。
 すべてにおいて優等生の布美子には、何か自分にできないことがあるというのが許せなかった。それが芝居ならなおさらだ。また皆の前であんな屈辱を味わわされるくらいなら、誰でもいいからキスを教えてほしい。

「確かに恋愛経験はないけどだからってバカにされる覚えないわ。瑞穂にはもう頼まない!」

 布美子は制服から着替えもせず部屋を飛び出した。別に誰のところへ行くというあてもなかったが、恥ずかしすぎてもう部屋にはいられない。気持ちが落ち着くまでピアノの練習でもしようと、階段を小走りに駆け降りて、稽古場や養成所の教室のある3階へ出た。ちょうどタイミング悪く劇団の稽古が終わる時間帯だったので、布美子は邪魔にならないように廊下の端に立ってすれ違う帰り支度の劇団員たちに挨拶していた。
 そのとき、後ろから廊下を走る足音が近づいてきた。

「待ってよ、布美子!」

 呼ぶ声に振り向いた瞬間、何が起こったのかわからないうちに全身を壁に押し付けられ、至近距離に迫った瑞穂の顔が視界をふさいで息ができなくなった。



「何するの……!」
「布美子がキスしてって言ったんじゃん」
「こんなところでするバカがどこにいるのよ!バカバカバカ」

 布美子は怒鳴りかけたがすぐ真っ赤になって縮こまった。廊下には帰りがけの劇団員が集まり始めている。冷やかしの口笛を吹いている人もいて、本当ならば怒られるところだが、皆がただ見ているだけなのがかえって針のむしろだ。

「バカは布美子のほうでしょ。こんなところまで追いかけさせて……」
「何ですって?」

 思わずジャージの胸ぐらを掴もうと手を伸ばしたとき、その手を優しく抑える大人の手があった。

「ちょいとお二人さん。チューはいいけど喧嘩はダメだよ」

 その人はべっこうぶちの眼鏡をかけた色の白い男役で、布美子の記憶ではたしか松団の団員だ。瑞穂が驚いたふうでもない顔で言った。

「あ、瀬尾さん。お疲れ様です」

 知り合いらしい。瑞穂にこんな年上の劇団員の知り合いがいるなんて布美子には意外だった。

「とりあえず教室入って話そうか」

 二人はうながされて、一番近くにあった養成所の座学用の教室に入った。机と椅子が二十組しか並ばない狭い教室だが、そこへ逃げ込んで劇団員たちの好奇の視線からのがれるとやっと息がつけた。布美子は救世主の瀬尾という先輩に向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。すみませんでした」

 瀬尾は机の端に腰をひっかけてにやにやしながら首をふった。

「あんなとこで濃厚ラブシーン繰り広げるなんて度胸あるよねえ、今年の二年生は」
「そんなつもりは全くなかったんです」

 布美子は必死に訴えたが、瑞穂のひとことで台無しにされた。

「ねえさっきので満足した? もう一回やる?」

 かっとなった頭のなかでついさっきのキスがよみがえった。柔らかい唇の巧みな動きや濡れた感触、コンクリートに押し付けられた後頭部の痛み、握り締められた手の熱さ。

「全然満足してないけどもう二度とけっこうです」

 ぴしゃりとはねつけたあと、瀬尾が笑っているのに気が付いたがどうしようもない。

「あんな劇団の方たちのいるところで……非常識すぎるわよ! もう恥ずかしくて人前に出られないじゃない! そもそも、私にはできない、なんて言ってたくせにどうして追いかけてきたの?」

 胸に収まりきれない怒りと羞恥に燃えて、布美子は先輩の前だというのに自分を抑えられず瑞穂を責め立てた。瑞穂のしたことはこの一年間のいろんなハプニングとはくらべものにならないほど常軌を逸している。第一に、制服を着なければ入れないエリアに寝間着のジャージ姿で降りてきたこと。丸坊主事件をごまかすためのカツラをつけずに、規則破りのベリーショートで人前に出たこと。そして稽古帰りの大先輩たちが行きかう廊下で、禁止されている破廉恥な行為を堂々とやってのけたこと。

「だって布美子、『もう瑞穂には頼まない』って言ったじゃん。だから他の人に頼むんじゃないかって……下で松団が稽古してるから粟島さんのとこに行くんじゃないかと思ったらいてもたってもいられなくて」
「杉山君のライバルは粟島さんなの? そりゃ厳しいわ」

 しみじみと腕を組んでいる瀬尾に、布美子は必死で違いますと言い張った。もちろん瑞穂にも厳重抗議する。

「行くわけないじゃない! 行けるわけがない。粟島さんが私なんか相手にするわけないでしょ」
「するよ。私だって布美子が『好きだからキスして』って言ってきたらその場でしてた。でも芝居の参考にしたいからなんてさ……私だって女だし、そこまで軽く考えてるわけじゃないよ。何だと思ってんだろうって」

 なんと、瑞穂は、キスの理由が不満なようだ。好きだと言えばキスするというその発想は布美子の予想の斜め上を行っていた。

「ごめんなさい。瑞穂ならしてくれるかなと思ったから……」
「わかってるよ。どうせ私なんて」

 瑞穂はその先を言わず、いらいらした様子で立ち上がると瀬尾に目礼をして教室を出て行った。気持ちを表すのにふさわしい日本語が思いつかないとき瑞穂はいつもこういう態度をとる。

「本当に申し訳ありませんでした」

 布美子は残された瀬尾にひたすら謝った。

「いやあ、面白いもの見せてもらったよ。最初、外部の男が入り込んで養成所の子を襲ってるのかと思ってびっくりした。ジャージで丸刈りで背もでっかいんだもん」

 瀬尾が楽しそうに笑っているので布美子は少し救われた。

「腹立つだろうけど杉山君の気持ちもわかってあげてね」
「はい」

 瑞穂の思考も行動も相変わらず理解不能だが、布美子は優等生の返事だけを返した。

「あ、そうだ。粟島さんはたぶんお稽古には付き合ってくれるだろうけど、布美子ちゃんが本気で告白したらキスしないと思うよ。粟島さん、恋人いるし、プレイボーイぶってるけど実はすごく優しい人だから」

 粟島に恋人がいると聞いても別段驚きはしない。むしろいないほうが変だろう。粟島に自分を好きになってほしいという気持ちなどはなく、単に憧れの人をそばで見ていたい、嫌われたくないという思いだけなのだ。布美子はそう言い訳したかったが、先輩に長々と話すようなことでもないので、ただ赤くなってうつむいていた。

「私でよかったら、キスシーンのコツ、教えてあげようか?」
「えっ」

 二人っきりの教室で先輩に迫られたらそれこそ逃れることができない。布美子が背筋を緊張させたのが伝わったのか、瀬尾はアハハと声を立てて笑った。

「大丈夫、実演はしないから。あのね、男役の背中に回した手で演技するの。今唇に触れた、って瞬間に少し手に力入れてみたり。同期の大貫優奈が言ってた」

 大貫優奈は松団のトップ娘役だ。間接的ではあるが、これ以上ない先輩のアドバイスをもらえたことになる。

「すごく勉強になりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。まだギャラリーいるだろうから部屋まで送るよ。あ、杉山君と顔合わせるの気まずいかな?」
「いいえ、大丈夫です」

 気味が悪いほど気配りの細やかな瀬尾は、劇団員たちの好奇の視線から布美子をかばいながら寮のフロアまで送ってくれた。



 大丈夫だと瀬尾には答えたものの、部屋のドアの前に立つと、布美子は急に入りづらくなってしまった。もとはと言えば自分が蒔いた種で瑞穂に規則違反をさせてしまったのだ。それに、さっきの瑞穂の態度は腹を立てているように見えた。
 しかしどんなに気まずくても自分の部屋に戻らないわけにはいかない。布美子は二人で決めた合図のリズムでドアをノックし、扉を開けた。

「ただいま」

 顔を合わせずにまっすぐ自分の机のところへ行き、鏡の前でお団子のピンを外し始める。
 鏡越しにちらりとベッドの上の瑞穂を見ると、腕枕をして仏頂面で天井を眺めていた。布美子は沈黙に耐えられず、自分から謝ることにした。

「ごめんなさい」
「なんで」
「私が余計なこと言ったから瑞穂に変なことさせちゃった」
「変なことって……」

 瑞穂はベッドから起き上がり、あっという間に布美子の背後に立った。

「ちょっと話がある」

 布美子はおろした髪にブラシをかけながら瑞穂と向き合った。あまりにも近すぎて、見上げなければ顔が見えない。24時間一緒に暮らしていてもこんなに近くで顔を見つめ合ったことはなく、布美子はあらためて瑞穂の切れ長の目の美しさに見とれた。

「布美子はもっと自分の魅力を意識したほうがいいと思う」
「大真面目に何を言うのかと思ったら……」

 布美子は我慢せずに笑った。

「笑いごとじゃない。人に簡単にキスしてとか言ったり夜にひとりで稽古場フラフラしたりして、自覚なさすぎだよ。布美子を狙ってる奴いっぱいいるんだから。一年生たちもみんな憧れてるし二年生だって今じゃふーちゃんふーちゃんって慕ってるし」
「人気あるのは瑞穂でしょ。放課後いつも一年生に囲まれてるじゃない」
「布美子が近づきがたいから私に言ってくるんだよ。それに劇団員にだって、布美子を相手役にしたがってる人いるし」
「誰よ、それ」
「それは……言えないけど」

 歯切れが悪くなった瑞穂を見て、布美子は嘘だと思った。

「いるわけないでしょそんな人。たしかに、『簡単にキスしてとか言った』ことは悪いと思ってる。さっき謝ったじゃない」
「本当に反省してんの? 全然わかってないくせに」

 瑞穂は腰に手を当ててヒートアップしている。入学してこのかた瑞穂に怒られるなんて初めてだ。

「ごめんごめん。瑞穂、私のこと好きなんでしょ。これからはちゃんと意識するから」
「布美子!」

 瑞穂の目の色が変わり、布美子は恐怖を感じた。瑞穂は感情がたかぶると何をするかわからないところがある。本気で怒らせてしまうのはまずい。

「……ごめん、髪の毛バリバリだから先にシャワー浴びさせて。後でゆっくり話聞くから」

 背の高い瑞穂の横をすり抜け、狭いバスルームへ逃げ込んで、布美子はやれやれと息をついた。
 熱いシャワーの湯気に疲れた体が少しだけ生き返る。べったりとつけた整髪料を落とすために丁寧にシャンプーをしていると、しだいに頭の整理がついてきた。
 主任としては規則違反を叱らなければならない相手に謝っているのは納得いかないが、瑞穂には瑞穂の理屈があるのはわかった。それにもし、万が一でも、本当に瑞穂が自分のことを好きだったら、布美子のしたことは彼女の心を傷つけただろう。

「……ないない。何考えてるの」

 とにかく今夜は瑞穂の気が済むまで頷いてやるしかないと思ってバスルームを出ると、もう瑞穂はベッドに長い体を横たえてふて寝していた。

「お待たせしました。どうしてそんなに怒ってるの? 言いたいことがあったらなんでも言って」

 寝ている瑞穂の足元に腰かけて聞いてみたが、返ってきた声にはさっきの元気はまったく残っていなかった。

「もういい。わかんなくなっちゃった、自分でも……何が言いたいのか」

 シャワータイムで時間を稼ぐ作戦は成功したらしい。布美子は瑞穂の腰を布団の上から軽くたたいて、自分のベッドへ戻った。

「今回のことは私のせいだから、瑞穂のことは怒らないように先輩に頼むわ。おやすみ」

 真っ暗になった部屋で枕に頭を預け、やっと終わった長い一日の疲れを忘れようとまどろみかけたそのとき、驚くほど近いところで瑞穂の声が響いた。

「ねえ。さっきのキス、なかったことにしないで」
「……何?」

 目を開けると暗闇でも見えるほどの近くに瑞穂の目が光っていた。

「間違いでも規則破りでも何かの稽古でもなんでもいいけど、なかったことにはしないで。布美子の初めてのキスの相手は私だからね」

 それがそんなに大事なことなのか、と布美子はあまりの眠さに苛立ちながらため息をついた。

「あんなに大勢の人に見られてたのに、なかったことになんてできないわよ。早く寝なさい」

 布美子は考えることを放棄した。そして、その後しばらくして唇に二度目のキスが落とされたことも知らずに朝まで眠り続けたのだった。


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