花ものがたり 若葉の章 〜初舞台〜

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 四月の二週目に、花水木歌劇団本部の駐車場に作られた仮設のステージで、養成所の新入生たちが初お目見得するコンサートが行われる。
 一年生の出し物は合唱で、布美子はその曲中でソロを歌うことになっていた。しかし布美子の心はまったく晴れなかった。
 一週間前の休日に門限を破って豊原に呼び出され、楽屋へ手伝いに行くことを禁じられたのだ。一年生にはまだ早い、と。それも、いつもの冷静で穏やかな言い方ではなく、厳しく叱りつけるような言い方だった。
 そんなにいけないことをしてしまったのかという不安と、なぜいけないのか納得できない悔しさと、尊敬するスターの親切を仇にしてしまった情けなさが布美子の小さな胸をさいなみ続けていた。

「リハーサル始まるよ。布美子。……布美子!」

 瑞穂が腕を掴んでくる。ぼうっとしていた布美子は顔を上げた。

「ごめん。……みんな、並んで!」

 一年生たちを歌のパート順に整列させ、服装や髪形に乱れがないか確認し、集中と平常心を宣言する。主任の役割をこなしている間に布美子は普段の自分を取り戻していった。いつまでも落ち込んでいる場合ではない。

「大丈夫?」

 瑞穂は布美子が初舞台に緊張しているのだと思っているようだった。

「大丈夫。行くよ」

 駐車場に作られた仮設舞台に上がると、遠く向こうに御濠の緑が見える。明日の本番になればこの広い駐車場がすべて観客で埋め尽くされるのだ。受験前に何度も見に来ていた舞台に自分が立つなんて、まるで夢のようではないか。夢がかなう瞬間に暗い気持ちでいるなんてもったいない、と布美子は自分をふるいたたせた。
 舞台上に整列すると、中央に立つ布美子の前にソロ用のスタンドマイクが設置された。ピアノのサウンドチェックの後、スタッフがスタンドマイクのサウンドチェックをする。そして合唱の授業を指導している養成所の講師が指揮台に上がった。

「初めから一回通します」
「はい」

 指揮棒が降ろされると同時にピアノ伴奏が流れ、この一週間猛練習してきた合唱が始まった。定番中の定番、滝廉太郎の『花』だ。

「錦おりなす長堤に 暮るればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の…」

 布美子のソロは三番だった。最後の高いフレーズを歌いきろうと息を吸った瞬間、視線が偶然下へ落ち、駐車場の片隅で腕組みしてこちらを見ている二人の人物をとらえた。

「……たとうべき」

 驚きの余り不自然な間が空いてしまって指揮者の鋭い視線が飛んできたが、布美子にとってはそれどころではない。
 スウェットの上下に薄手のジャンパーという似たような格好をしているその二人は、なんと、松団現役トップスター才原霞と準トップ粟島甲子だったのである。
 布美子は二人と目が合ってしまった。

「じゃあだいたい今ので良いから、あとは明日の本番に備えて各自喉の調子を整えること。岸田は最後まで集中して」
「……はい。申し訳ありません」

 舞台をおりると、一年生たちは大興奮して騒ぎ出した。舞台の上から才原たちを見つけた生徒が何人もいたのだ。

「ありえないって! トップ様が私たちのリハーサル見に来るなんて」
「公演中なのになんでいるの? いや、御降臨あそばしたの?」
「才原さん、超かっこよかったー! 目が合った気がする」
「誰を見に来たんだろうね? 二年生かな? 久米島さんのリハはまだだし……」

 布美子は胸の動悸が収まらなかったが、とりあえずこの混乱をなんとかしなければと焦った。

「みんな静かにして。二年生のリハーサル始まるから。前に回って見学しましょう」
「賛成!」

 皆、駐車場にいるであろう才原と粟島が見たくてたまらないのだ。
 しかし、一年生たちが走って舞台の正面へ移動したとき、才原と粟島はもう影も形もなかった。



 一年生たちが舞台袖で大騒ぎしているさなか、瑞穂は、駐車場にいる粟島に一言言ってやろうと、一足先にその場を抜け出していた。粟島の手伝いをしたせいで門限を破って落ち込んでいる布美子をなんとか励ましてほしかったのだ。
 瑞穂はかろうじて、二人が本部の玄関脇にある小さな喫茶コーナーに入っていくのを見た。劇団員やスタッフが来客と打ち合わせをするのに使う場所だ。
 追いかけて喫茶コーナーまでは来たものの、さすがに話しかけるのにほんの少しためらっていた瞬間、こんな声が聞こえたので、瑞穂は息をのみ衝立の陰に身をひそめた。

「……警察呼んだろか!」

 いきなりぶっそうな言葉である。しかし言われた方の粟島は冷静な様子だった。

「別に何もしてませんよ」
「何もしてない? 入学して二週間でもう一番成績よくて可愛い子に手ぇ付けてるって、しかも18やそこらの未成年に。思いっきり犯罪やんか」

 瑞穂の手から血の気がひいた。まさかとは思うが、粟島は布美子に何かしたのだろうか。布美子ならそんな秘密を隠していてもおかしくない。

「手は付けてません」
「ほんまに電光石火やな……甘く見てたわ……」
「だから本当に! 向こうが手伝いたいって言ってきたからほんの何時間か手伝ってもらっただけです」
「へえ。それで相手役にしたいとか分かるの?」
「わかりますよ。才原さんも今の歌聞いたでしょう」

 相手役とはいったいどういうことだ。布美子が入団するのはまだ二年も先なのに。
 瑞穂は、才原のトップの任期があと二年で、その後任のトップが粟島である可能性が濃厚だということなどもちろん知らない。しかしとにかく、布美子を取られるという危機感だけはひしひしと感じていた。
 ついに耐え切れなくなって、瑞穂は隠れていた衝立から姿を現し、二人の座っているテーブルへ近づいた。

「あの。松団の粟島さんですよね」
「私は華麗にスルーか……」
「あ、すみません。粟島さんに用事があったものですから」

 瑞穂はあわてて謝った。トップスターを差し置いて連れの方に話しかけてしまったのだ。才原は笑いながら向かいの粟島のジャージの喉元をぐいっとつかんだ

「ほんま腹たつ! この子も可愛いやん、ちょっと大きいけど。名前なに?」
「杉山瑞穂と申します。岸田の同期です」
「ああ、布美子ちゃんの。そりゃあ粟島に言いたいこともあるよねえ」

 ニヤニヤしながら頬杖をつく才原をよそに、粟島は脚を組みながら瑞穂を見上げた。

「杉山君……この間布美子ちゃんと一緒にいた子?」
「はい。あの日、粟島さんのお手伝いに行った後、布美子は帰りが遅くなって寮の門限を過ぎてしまって、もう楽屋に手伝いに行ってはいけないって言われたらしいんです。それで布美子、落ち込んでて……」
「ほらほら粟島のせいやで、可哀想に。主任がそんなことしたら死ぬほど怒られたやろ」
「ちょっと黙っててください」

 先輩でしかもトップスターなのに、粟島の才原に対する態度は容赦ない。入学以来、先輩への絶対服従が花水木の掟だと教えられてきた瑞穂は意外に思った。それに会話の内容も、舞台であれほどクールに決めていた二人とは思えないくだらなさだ。すっぴんでジャージの才原と粟島はまるで美形の高校生男子のようだった。

「布美子ちゃんに伝えて。二年生になったらまた手伝いに来なさいって」
「はい」

 いくらかほっとしながら瑞穂はうなずいた。粟島にそう言ってもらえれば布美子も元気を取り戻すだろうし、少なくとも二年生になるまでは粟島のところへ行かせずにすむ。さっき才原が言っていた、未成年だの警察だのという言葉が瑞穂の胸にひっかかっていた。二年生の先輩は『恋愛禁止』とあれほどしつこく言っていたのに、相手が劇団の先輩なら、何をしてもいいというのだろうか。ずいぶんむちゃくちゃな話だ。

「ほな、そろそろ行こうか」
「ええ。じゃあね、杉山君」

 才原と粟島はおそろしく格好いい仕草で立ち上がり、連れ立って表玄関へと去っていった。きっと、玄関前にいつも一台止まっているタクシーで劇場へ向かうのだろう。

「失礼します」

 瑞穂は一瞬遅れて会釈した。
 そして、そのとき初めて、早く劇団員になりたいと強く思った。



 瑞穂がぶらぶらと一年生たちのいる場所へ戻っていくと、すぐに目を吊り上げた主任に怒られた。

「どこに行ってたのよ、リハーサル中なのに。勝手にいなくならないで」
「粟島さんと話してきた」
「ええっ!」

 周りの一年生たちもどよめく。瑞穂はつい得意げに口元がひくついてしまうのをがんばって抑えた。

「杉山、マジで? なんの話したの?」
「いいなぁ。超勇気あるね」

 好奇心で目をキラキラさせている一年生たちの輪の中から、瑞穂は布美子に強引に腕をひっぱられて少し離れたところへ連れて行かれた。

「粟島さんに変なこと言わなかったでしょうね」
「変なことなんて言わないよ。そうそう、粟島さんから布美子に伝言。二年生になったらまた手伝いに来なさいって」

 布美子は頭をかかえて溜息をついた。

「やっぱり変なこと言ったんじゃないの……」
「あの人意外と優しいじゃん。普段はそんなに偉そうでもないしさ。見直したよ」
「ちゃんと挨拶した? 失礼なことしなかった? もう本当に今度からはやめてよ絶対」
「挨拶ぐらいできるし敬語も使えるよ、子供じゃないんだから。才原さんって人も面白かったよ。警察呼んだろかとか言ってて」
「警察?」
「布美子が未成年だから」

 布美子は次第に耳まで真っ赤になって黙り込んでしまった。

「……もう生きていけないわ、トップさんにまでそんな風に思われてるなんて……」
「大丈夫大丈夫、粟島さんちゃんと否定してたから」
「当り前よ!!」

 怒っているときの布美子は可愛いが、特に今はこの顔を粟島に見られなくて本当によかったと思うくらいだった。そういえば粟島は楽屋でどんな布美子を見たのだろうか。ふとそんな疑問が胸を騒がせ、瑞穂は妙な対抗意識を燃やして布美子のおだんご頭を抱き寄せた。

「まあまあ落ち着いて。良かったじゃんまた来なさいって言ってもらえてさ。二年生になったらうるさく言われることもないんだし、がんばろうよ」
「……瑞穂、変ったわね。なんだかやる気があるみたい」
「まあね。そろそろ本気出そうかなと思って」

 腕の下の布美子から見上げられ、つい得意げな顔になってしまう。
 そう、いつまでも布美子のお荷物になってなどいられない。今の瑞穂には必ず花水木歌劇団に入団してみせるという目標ができたし、さらに、入団した後、布美子を粟島に取られるのも嫌だ。
 しかし、どうしたら取られずにすむのだろうか。
 瑞穂の脳裏にとっさにひとつのアイデアが浮かんだ。

「私、トップになるから」
「え?」

 耳を疑っているらしい様子で目を見開く布美子をまっすぐに見つめ返す。

「トップになって布美子を相手役にする」
「本当? ありがとう」

 布美子はくすくすと笑いながら瑞穂の腕をくぐりぬけた。きっと布美子にとっては、幼い子供に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言われたのと同じなのだろう。瑞穂は少しだけ拗ねて、今に見てろと口の中で呟いた。

「おい岸田、杉山、今から写真撮影するから一年生は正面玄関の前に整列!」
「はい!」

 二人は駆け足で一年生たちの群れの中へと溶け込んでいった。



 翌日の本番は、心配されていた雨もなく、朝8時には整理券を配り終わって満員御礼となった。コンサートは10時開演なのに、観客たちはずいぶん早くから並ぶのだ。国営ラジオで生中継も行われるとはいえ、やはりこのコンサートの意義は、今春養成所に合格したぴかぴかの一年生たちを品定めすることにある。
 開演前、控えの場所に張られた幕の隙間からそっと外を覗いた布美子は、急に貧血を起こしそうになった。
 ぎっしりと駐車場を埋め尽くした観客が手に手にオペラグラスを持っているのだ。最前列の客までも。

「めぐみ、私ちょっと気持ち悪いから座ってるね……しばらくしたら治るから」

 隣にいた同じソプラノパートの鶴木めぐみに言ってすぐに地面にしゃがみこむ。

「大丈夫? ……みんな、静かにして。主任が具合悪いんだって」

 一年生たちは声を潜め、周囲の視線から布美子を守るように列を作った。たった二週間の訓練で、もう、何がOKでなにがNGなのか瞬時に判断できるようになっている。本番前に調子が悪くなることはもっともまずいことだ。
 布美子は目を閉じ、リラックスしなければと必死に頭のなかで自分に言い聞かせた。受験のときと同じだ。あのときは偶然瑞穂が横にいて助けてくれたが、今は……。そう思った瞬間肩を抱かれた。

「布美子、膝貸すから、横になりなよ」

 あのときは初対面だったので遠慮と緊張が少しはあったが、慣れた相手の膝はこんなに安心するものなのかと布美子は思った。頭を預け、目を閉じてほっと息をつく。
 やっと頭に血がめぐってきたとき、ぱらぱらと大勢の足音が向かってくるのが聞こえて、布美子は体を起こした。

「大丈夫?」
「ありがとう、もう平気。先輩たち来たんじゃない?」
「あ、ほんとだ」

 即座に整列をして二年生を迎える。まだ気分は悪かったが、ここは頑張らなくてはいけない時だ。

「おはようございます!」

 布美子の前で主任の豊原が足を止めた。

「全員そろってる? 具合の悪い子はいない?」
「問題ありません」
「そう。……岸田、制服汚れてるよ」
「申し訳ありません」

すぐにタオルハンカチでスカートのすそを払った。豊原の目はすべてを見透かしているように思える。自分でも顔色が悪いのはわかっているので、布美子は視線を合わせられなかった。

「岸田。今日のメイク、自分でやったの?」
「はい」
「全員、口紅の色が薄すぎる。もっとくっきり映える色にしなさい」
「はい」
「誰か口紅持ってる人直してやって」

 豊原の一声で、二年生数人が一年生を捕まえて口紅をつけ直し始めた。黒いスーツにゴールド・赤・緑の三色スカーフという制服だから、野外のコンサートでは赤い口紅にしないと美しく見えないのだ。
 豊原は布美子の顎を持ち上げ、真剣な表情で口紅を塗り直してくれた。間近で顔に触られながら唇を見つめられるというのは、緊張する上に気恥ずかしい。
 ふと気づくと瑞穂が心配そうにこちらを見ていた。大丈夫、と気付かれない程度に目配せする。
 ついにスタンバイの合図が出た。舞台袖に整列しなおし、全員でアイコンタクトを取りあう。とくに円陣のようなことをするわけではないが、無言で緊張感を分かち合うだけで二十人の心がひとつになった。
 入学して二週間と少し。まだいっぱいいっぱいではあるが、今の自分たちの全力で舞台に立つしかない。三週間前の自分とは違い、今はもう、日本に二十人しかいない花水木歌劇団養成所の一年生なのだから。
 万雷の拍手が布美子たちを迎え、駐車場一面を埋め尽くす群衆がわきたった。
 ピアノの前奏が始まり、歌い始める。
 歌い始めてすぐ、おかしなことに気が付いた。舞台側面のスピーカーから流れ出る音声が、ほとんどアルトパートの声だけになっている。
 布美子はすぐにわかった。自分の目の前、すなわちソプラノパートの音を拾うはずのスタンドマイクのスイッチが入っていないのだ。
 布美子の体が震え始めた。合唱ならまだいい。ソロになった瞬間、たったひとりの生の声は大空に拡散し、無音となってしまうのではないか。マイクの音声はラジオで全国に中継されている。そのマイクに歌声が入らなかったら……。
 いったいどうすればいいのか。歌いながら必死に頭を働かせていたその時、アルトパートの前列にいた一人の生徒が前に進み出て、アルト用のスタンドマイクを持って全体の中央のやや離れた位置へ置いた。落ち着いたその動きは、まるで最初から定められていたように無駄がない。
 そしてなんと、一年生二十人は、中心へ置かれたマイクを囲むように半円形に隊形を変えはじめたのだ。
 スピーカーから流れる音声は、バランスの取れたハーモニーになった。
 布美子は全身をぞくぞくさせながら一年生の顔を見まわした。先陣を切ってマイクを移動させた瑞穂はしれっとした顔で歌っている。ほかの皆も、やったぞという顔で布美子を見つめてきた。
 スタンドマイクは最初に用意されていたソロ用のものよりも1メートルほど遠い位置にある。
 ついに三番になり、布美子は大きく腹の底から息を吸い込んだ。

「錦おりなす 長堤に……」

 布美子はオペラの主役になったつもりでいつものソロより何倍も力強くアリアを歌い上げた。一年生の皆が力をあわせて成し遂げた本番の舞台の上の奇跡を、弱弱しい歌で台無しにするわけにはいかない。

「眺めを何に たとうべき」

 ピアノの後奏が終わるのを待たず、割れんばかりの拍手が起こった。
 この日は、岸田布美子と伝説の一○六期が、花水木歌劇団のファンに初めて認識された記念すべき日になった。

続き→文化祭   
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