花ものがたり 若葉の章 〜初恋〜

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 入学して最初の一週間はあっという間に過ぎた。
 一挙一投足すべてにおいて規則に縛られた生活は瑞穂にとっては異世界に迷い込んだように常識の通じない世界だったが、そのなかで授業時間だけは、上級生に怒られることを気にせず過ごせる気楽な時間だった。
 歌の授業のときに布美子がびっくりするほど美しいソプラノの持ち主だということを初めて知ったり、タップダンスの授業では講師がニューヨークで瑞穂と同じ先生に師事していたことがわかったり、やはり普通の大学へ行かずここへ入ってよかったと思うこともいくつかあった。
 だが、入学試験で最下位だった瑞穂は、当然ながらすべての授業が得意というわけではない。

「ねえ瑞穂、芸能史の授業わかる?」
「わかるよ」
「嘘。寝てるじゃない」

 入学後、初めて学校が休みになった土曜日の朝、ベッドでごろごろしている瑞穂に布美子が心配そうに話しかけてきた。
 子供のころからレッスンしてきたダンスや歌は得意だが、中学までニューヨークにいた瑞穂には、難しい漢字だらけのテキストを読まなければならない座学はちんぷんかんぷんだった。さいわい実技と違って机に座っていればやりすごせる授業なので、聞いているふりをしてこっそり寝ているのを布美子は目ざとく見ていたらしい。

「法学の授業は?」
「まったくわからない」
「やっぱり……」

 ため息をついた布美子が瑞穂の体を布団の上からばしっと叩いた。

「起きなさい。復習付き合うから」
「ええっ、休みの日まで勉強するの? ありえない」
「追いつくにはみんなが休んでるとき勉強するしかないじゃない。ほら起きて」

 布美子は絶対に譲らない。それはこの一週間で十分にわかったことだった。特に瑞穂のことに関しては自分のことのように熱くなる。それは嬉しくもあったが、なぜそんなに熱心におせっかいをやくのか不思議でもあった。布美子のことだから単なる好意というわけではない確固とした理由があるのだろう。

「こんな堅物じゃなきゃモテるだろうにねー。可愛いのにもったいない」
「何言ってるの」

 布美子の顔を見ると心の底からバカと思っていることがわかる。しかし、校則どおりのひっつめ髪ではなく洗ったままの髪を下ろしている休日の布美子の可愛らしさを見ていると、幸せになって何も言えない。

「起きて着替えて。食堂に行くわよ」
「はいはい」

「だからね、ここは初代市川團十郎。初代吉右衛門は時代が違うでしょ」
「同じ初代なんだから同じ時代でいいじゃない。めんどくさいなあ」

 机の上の空欄だらけの年表にえんぴつで画数の多い名前を書き込む。瑞穂は気が狂いそうだった。見たこともない演劇の歴史だけを暗記するなんて本当にその演劇をわかったことになるのだろうか? こんなことより自分にはやるべきことがあるのではないかという気がする。

「だいたい歌舞伎って何? 見たことないし想像もできないよ。なんでこんなの覚えなきゃいけないわけ」
「国立劇団の女優になるんだから自分の国の演劇の歴史を覚えるのは当たり前でしょ。演劇の歴史だけじゃなくて、日本舞踊とか日本の文化を身に着けてなきゃ、外国に行って日本の女優ですって名乗れないわ」

 布美子はもう日本代表女優チームの一員としての自覚があるのだった。瑞穂には、まだ花水木歌劇団が何なのかさえわかっていないのに。

「日本の女優、ね……。そういえば私まだ花水木歌劇団の舞台見たことがなかったんだ」
「えええっ!!!」

 今まで聞いたことのない布美子の大きな叫び声に、瑞穂は思わず引いてしまった。

「行こう。今日の昼の部、11時から銀座歌劇場で松団公演やってる」
「チケットあるの?」
「関係者はチケットは買えないの、監事室から見るのよ」
「監事室って?」
「一階席の後ろの壁にガラス窓があるでしょ、その向こうの部屋」

 驚くほどに詳しい布美子に連れられて、瑞穂は生まれて初めて国立銀座歌劇場へと足を踏み入れた。



 養成所の制服姿の初々しい二人が楽屋口に現れると、通りすがりの劇団員たちが、

「あら、新入生? 可愛いわね」

などと声をかけて行く。そのたびに布美子は、

「おはようございます」

と凛とした声で言いながら美しい会釈をするのだった。口先だけそれに追随しながら、瑞穂はただ布美子についていく。楽屋の廊下は複雑で、似たような景色が続く上に、殺気立ったスタッフたちが急ぎ足に行き交うのに気をとられてしまって瑞穂はまったく道順を覚えられなかった。
 廊下の突き当たりの鉄の扉にたどり着くと、布美子はやっと振り返って瑞穂の顔を見上げた。

「ここから先は劇場のロビーだから、五分くらい待ってから入ろう」
「えっ、せっかく来たのに公演始まっちゃうじゃない」
「お客様がみんな席についてロビーに誰もいなくなってから入ったほうがいいでしょ」
「なんでそこまで気を遣うわけ?」

 布美子は呆れたような顔をした。たぶん一日に十回くらいはこんな顔をさせている。

「大騒ぎになるから。私たち養成所の新入生なのよ、まだどのイベントにも出てない……花水木のファンだったらどんな子が入ったのか知りたくてしょうがないはず」
「そんなもんか」

 瑞穂は知らなかったが、いわゆる青田買いというやつで、さまざまな公式イベントに参加する養成所の生徒たちを品評してごひいきの生徒を見つけ、入団前から応援するのが花水木歌劇団ファンの王道なのだ。
 と、その時、瑞穂たちが歩いてきた方向から、武士の扮装をして腰に刀を差した男役スターが数人のスタッフを従えて歩いてきた。

「布美子、誰か来たよ。サムライだ!」

 振り向いた布美子の表情が一変する。

「……あれは……、粟島さんよ! 客席から出るんだわ。どうしよう」
「どうしようって言ったって」

 布美子は青ざめて、廊下の壁に張り付くように背中をつけ、瑞穂の手をぐいと引っ張って隣に並ばせた。そして近づいてくる粟島という男役に深々とお辞儀をする。瑞穂も真似をしてお辞儀をしつつ横目でちらと布美子を見て驚いた。さっきまで青白かった顔が真っ赤になっている。

「おはようございます!」

 布美子の声はめずらしく上ずっていた。

「ロビーの近くだから静かにして」
「申し訳ありません」

 低い囁き声に注意され、布美子は蚊の鳴くような声でうつむいた。顔がますます赤くなっている。

「君たち、手伝いに来てくれたの?」
「いえ、今日は見学させていただきに参りました」

 粟島の目が物憂げに細められた。

「そう」

 それっきり何も言わない。出るタイミングを待つ間、気まずい沈黙が続いた。
 びんつけ油の香りと衣擦れの音がする。瑞穂は首を伏せたままじっと粟島を観察した。袴の織模様が見事だ。刀のさやもつやつやと黒光りしている。そして腰の据わった立ち姿の上に作り物のような美しい頭がのっていた。切れ長の鋭い瞳は、何を考えているのか、ドアを通り越して遠くを見ている。
 そうか、と瑞穂は気付いた。
 きっと粟島は、この鉄の扉を開けてスターを送り出すという役割のために、瑞穂たちが持ち場に立っていると思ったのだろう。
 永遠かと思えるほどの数分間が過ぎた後、開演を告げるベルが鳴り、オープニングの曲が始まった。

「行きます」

 スタッフの声かけで布美子がすかさず鉄の扉を開けた。重そうだったので瑞穂も手伝う。粟島は振り向きもせずに颯爽とロビーへ出て行った。

「……なんだあれ……」

 ひとことぐらい何か言ってもいいんじゃないかと布美子を振り返ったが、布美子はまるで漫画に出てくる恋する少女のようにぼうっと粟島の後姿を見つめている。

「岸田主任? 大丈夫?」

 目の前でひらひらと手を振ると、布美子は我に返って鉄の扉を閉めた。

「行くわよ、監事室」
「今の人、誰?」

 ニヤついている瑞穂の顔には目もくれず、布美子はぶっきらぼうに答えた。

「松団の準トップさん」
「へえ。布美子、あの人のファンなんだ」
「違うわよファンとか言ってる場合じゃないでしょ同じ劇団の上司なんだから」
「ふうん」

 ムキになっている布美子は可愛いが、その粟島というスターはなんとなく気に入らない。誰もが自分の魅力にひれ伏して当然というような態度なのだ。
 それに何より、いつも冷静な布美子をこんなに動揺させるなんて、的外れな感情だが悔しいとしか言いようがない。
 だが粟島の影響はそれだけではすまなかった。監事室のドアの前まで来ると、布美子は急に瑞穂の腕をつかんだ。

「ごめん、瑞穂、今日は一人で観て。帰るときは幕が閉まる前に正面玄関から出て行けばいいから。劇場の方に挨拶を忘れないでね」
「えっ、布美子は?」
「楽屋に手伝いに行ってくる。門限までには帰るから」
「そんな、ちょっと待って……」

 身をひるがえして蝶のように駆けて行く布美子を、瑞穂は途方に暮れて見送った。



 しかたなく瑞穂は一人で監事室のドアを開けた。
 ドアはあっけなく開き、中には一人の男性が一つしかない椅子にふんぞり返って座っていた。その男はすぐに瑞穂を振り返って驚いた顔をした。

「おっ。見慣れない顔だな。新入生か。いらっしゃい」
「失礼します」

 瑞穂は一応、二年生から口をすっぱくして言われたとおりにお辞儀をして監事室に入った。電気はつけられていない薄暗い部屋で、ガラスの大きな窓から客席と舞台が見え、その明るさだけがたよりだ。

「公演見に来たの? えらいねえ、まだ入学したばかりだってのに」
「見たことがなくて。花水木歌劇団を。だから見ろって同期に……主任に言われて」
「へえ、見たことがないのに合格したのか。大物だなぁ。名前なんていうの?」
「杉山瑞穂です」

 男はキャップをかぶっていて顔がよく見えなかったが、声の感じは若かった。30手前というところかもしれない。

「杉山君ね。ほら、もっとこっちに来れば? ちょうど今からいい場面だよ」

 言われるままにガラス窓へ近づくと、舞台の上では、通路から登場した粟島と舞台上のもう一人の武士との立ち回りが始まったところだった。
 二人がにらみ合い、ゆっくりと刀の柄に手をかける。はっ、という気合が聞こえるやいなや抜かれた剣が目にもとまらぬ速さで動いた。そこからはもう怒涛のような殺陣となり、お互いに攻めては受け、弾き、かわし、舞台の端から端まで走りながら切り結ぶ。その動きの流れるような素早さに瑞穂は口をあけっぱなしで見入ってしまった。これが本当に二人とも女性なのだろうか。
 戦いの結果粟島が死んで、残った一人が深手をおいながらも歌を歌う。その歌も今まで瑞穂が聞いたことのないような心に染み入るメロディだった。

「この歌は何ですか?」
「黒田節だよ」
「日本人の心って感じですね」

 その言葉を聞いて男は笑った。

「君、面白いね。まあたしかに才原さんの歌は説得力あるよなあ。あ、今、こっち見た」

 歌い終わった侍はちょうど瑞穂たちのいる監事室の窓へ向かって片手を差出しながら息絶えていった。

「きっと制服が見えたんだよ。才原さんものすごく目がいいからね。ちなみに耳も地獄耳だけど」
「才原さんってあの人ですか?」
「そう。松団の男役トップ。花水木歌劇団で一番偉い劇団員だよ」
「ふうん……」

 その後のショウも芝居も、瑞穂はガラス窓の前に立ったまま、のめりこむように見てしまった。カーテンコールが始まろうとしたとき、茫然としている瑞穂に男が声をかけた。

「そろそろ出たほうがいいんじゃない? お客さんたちにもみくちゃにされるよ」
「あ、はい」
「僕は演出助手の佐野武。そのうち稽古場で会うと思うよ。また見においで」
「はい。ありがとうございました」

 寮に帰る瑞穂の頭の中では、一糸乱れぬ日舞の群舞や、才原というトップスターの切れのいい踊りがリピートし続け、それに何よりあの殺陣の場面が焼き付いて離れなかった。どれもこれも今までのレッスンではまったく経験したことのないことばかりだ。
 二年後にはあの舞台に自分も立たなければならない。そのためには学ばなければならないことが山ほどある。
 瑞穂はようやくそれに気づいたのだった。



「岸田が帰ってくるまでここで整列。わかってるだろうけどいじめじゃないわよ。あんたたちの主任が門限守らなかったのが悪いんだからね」

 二年生の豊原は怒りを通り越してあきれ顔で溜息をついた。

「……ったく。あの子はもっとしっかりしてるかと思ったのに」

 瑞穂も同感だった。まさか、あの布美子が寮の門限を破るなんて。
 楽屋に手伝いに行ってくる、と言って走っていった布美子は、とうとう門限の六時になっても寮に帰ってこなかった。五時半を過ぎたころに心配して電話をしたが携帯もつながらない。ついに六時の点呼になり、主任がいないのはすぐにばれて、瑞穂たち一年生は連帯責任で五階の廊下に整列させられたのだ。
 瑞穂は時計の針に身を刻まれるような気持ちで布美子を待った。一秒ごとにつのっていく一年生たちの恨みが布美子に向けられるかと思うと怖かったのだ。それに、もし予期せぬ事故にでもあっていたら……と心配にもなってくる。あのとき、行くなと止めればよかった。
 結局、布美子は六時半に顔を真っ赤にして息を切らしながら五階の廊下へ駆け上がってきた。

「どこ行ってたの? バカ!」

 瑞穂は誰よりも先に布美子の肩を掴んだ。

「ごめん、瑞穂。みんな、本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」

 布美子は深々と頭を下げた。

「ごめんなさいじゃないわよ、ちゃんと説明して」
「そうだよ! 心配したんだから」

 皆があっという間に布美子を取り囲む。そのとき豊原の鋭い声が飛んだ。

「勝手に動くな!」

 そしてちらっと布美子を一瞥すると、

「すぐ点呼して夕食に行きなさい。八時までに反省文を書いて私の部屋に来ること」

と厳しい表情で言い置いて行った。
 豊原は布美子に作文を書かせるのが趣味らしい。これはまた面倒なことになったと瑞穂は思ったが、夕食を終えて寮の部屋へ戻ったとたん、布美子がうふふふと妙な声で笑い出したので、怪しいと気付いた。

「ちょっと、何笑ってんの」

 布美子はもはや満面の笑みを隠そうともしなかった。

「ごめんね。みんなには本当に悪いことしたしその点は反省してるけど、でも、でも、もうこんなこと一生に二度とないかもしれない」
「だからどうしたんだよ」

 悪い予感が瑞穂の胸をよぎった。もしかしてあの粟島という男役が絡んでいるのだろうか。まだ付き合いは浅いが、このうきうきした様子を見ればわかる。布美子は恋をしているのだ。

「粟島さんが袴のたたみ方を教えてくださったの」
「袴? そんなの前からできるじゃん」
「お衣装の袴をたたんでって言われてたたんでたら、こうしたらもっと綺麗にできるよって。それに差し入れのお菓子も頂いたの。粟島さん甘い物嫌いなんだって」
「それで遅刻したわけ?」
「帰らなくていいの?って言ってくださったんだけど、楽屋出るときお見送りしたかったから。でももう二度と遅刻はしない、それは約束する」

 粟島も当然門限は知っていて忠告してくれたというのに、布美子はそれを無視して楽屋に残っていたのだ。好きな人の側にいたいという思いは堅物すらも変えてしまうパワーを持っているらしい。
 瑞穂は大げさに肩をすくめてみせながらもなんだかおかしくなって頬がゆるんでしまった。

「ごめんね、瑞穂……怒ってる?」
「まったくしょうがない子だなあ」

 お団子を解いたばかりの乱れた長い髪をぐしゃぐしゃにかきまわし、体格差を利用して後ろから襲いかかり全身をくすぐりまくる。これくらいされても文句は言えないはずだ。布美子はキャッと、瑞穂が出会ってから初めて、年相応の笑い声を立てた。

「もうやめて! 後で豊原主任の部屋に行くんだから……」
「早く反省文書けば? あと1時間しかないよ」
「うん」

 怒られたのに幸せな興奮状態のまま、布美子は作文を書き上げて部屋を出ていった。
 初めての休日に起こったさまざまな出来事は、瑞穂の体を心地よい疲れで重くしていた。それに加えてこの一週間のめまぐるしさもあり、部屋着に着替えると同時にベッドで眠りこんでしまった。
 だから、深夜に布美子が泣きはらした顔で戻ってきたことにも気付かなかったのだった。

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