花ものがたり 若葉の章 〜初日〜

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 養成所生徒の朝は早い。
 六時に食堂に集合し、健康状態や身だしなみのチェックを行った後、授業以外のその日の仕事についてミーティング。その後、寮生全員分の朝食の準備を手伝い、自分たちも食べる。そして清掃だ。と言っても建物のすべてではなく、外部の業者に立ち入りを許さない重要な部屋のみを分担して掃除することになっている。

「全員揃ってるわね」

 二年生の主任である豊原志保(とよはら しほ)が食堂に整列した一年生の顔を端から眺めるのを、布美子は緊張に震えながら見守った。初日に誰かが遅刻でもしようものなら、さっそく布美子の監督責任が問われることになる。
 豊原の目がある一人の生徒に留まった。

「あなた、まだ髪切ってないの?」
「はい、時間がなくて」
「返事は『はい』だけでいいから」

 やっぱり言われてしまった。杉山瑞穂だ。
 つい数分前、腰まで届きそうな長い髪の毛をポニーテールにして現れた彼女を引っ掴まえ、校則に触れないよう、ジェルをたっぷり使ってがちがちのお団子にまとめた。しかし、男役と娘役では制服が違うので、違和感はぬぐえない。
 今日は必ず切らせなければ、と布美子は心に刻みつけた。

「今日から新しいダンスの先生がお見えになるので何か困っていらっしゃったらお声をかけてご案内してください。お名前はムッシュ・ボーランジェです。……わかったの? わかったら返事して。社会人の基本よ」
「はい」
「当分、あなたたちの仕事は、はいって返事することだけだから」
「はい」

 豊原は背の高い男役見習いで、涼しげな吊り目の美人だ。芝居の勉強をしているだけあって、早口の説明も一言一句よどみなく、よく響く。
 布美子は入学式の後この豊原から一対一で養成所の規則を学んだ。豊原は、ただ命令事項を並べ立てるだけではなく、何のためにそうするのか、決まりを守ることによってどんな効果があるのか、筋道を立てて話してくれた。だから無理やり暗記しようと思わなくてもたくさんの規則をすんなりと覚えられたのだ。もし瑞穂の同室の先輩が豊原だったら布美子は部屋を代わらなかっただろう。

「ここには序列があってあなたたちはその一番下です。掃除の業者さんより、出待ち禁止を破って駐車場に並んでる中学生より、台所のネズミよりも下なの。たとえ誰に対しても偉そうな態度や物の言い方は一切許されません。よく覚えておいて」
「はい」
「私たちはまだ舞台に立ってない。でも国を代表する女優になるために選ばれて最高の教育を受けさせてもらっている。その上に生きていくための最低限のお給料まで頂いている。ありとあらゆる人に感謝してこの恩を必ず返さないといけないの。ここにいる間は、自分の体も、時間も、周りの方々から与えていただいた貴重なものだってこと忘れないで」

 豊原の射るような視線がしばしば自分に向けられるのを布美子は感じていた。その目はこう語っている。今自分が言ったことを一年生全員に守らせるのがお前の役目だと。
 一年生たちが朝食の準備にとりかかった後、布美子は豊原に呼ばれて廊下へ出た。

「博子に聞いたわ。部屋代わったんだって?」
「はい。勝手で申し訳ありません」
「あの杉山瑞穂って子のせいなの?」
「杉山は帰国子女でスタートが遅れているんです。私が責任を持って教育します」

 布美子は主任の豊原に相談もなく園部と直談判で勝手に居室を交換したことを怒られるのではないかと思って必死に弁明した。しかし豊原は表情を変えなかった。

「一人部屋を譲るなんてなかなかできることじゃないわ。杉山の面倒見るのもいいけど他の子たちのことも忘れないでね。一〇六期はあなたにかかってるんだから」

 豊原が去り、解放されてほっとしているところへ同期が呼びに来た。

「主任、朝ごはんの準備できたみたいだけど」
「ありがとう、渡辺さん。渡辺智香(わたなべ ともか)さんよね?」
「うん。もうみんなの名前覚えてるの?すごい!」

 男役見習いにしては少し小柄な渡辺は、驚きの目を布美子に向けた。

「覚えてないと何かと不便だから……。あ、いけない、早く食べ終わらないと先輩たち来ちゃう。それまでに席空けておかないと」
「ヤバイね! もう六時半過ぎてる。早く食べよう」

 布美子は渡辺と一緒に食堂へ戻って朝食をかきこんだ。
 そしてこの日、もう昼食も夕食も食べる時間が取れないことを、さすがの布美子も予測できなかった。



 初日の授業は、ほとんどがガイダンスだった。
 一年生の使える教室は、座学用のこぢんまりとした教室一部屋と、ピアノと鏡とレッスンバーのあるバレエスタジオが一部屋あるだけで、そこですべての授業を行う。
 月曜日の午前中2コマのうち初めの課は演劇だった。

「では自己紹介、出席番号一番から」

 てかてかと禿げ上がった精力的な顔つきの演劇教師に命じられ、一番前の右端に座っていた布美子は立ち上がった。出席番号は入試の成績順になっているので布美子が一番なのだ。

「前に出て」
「はい」

 教壇に上ると、クラス中の視線を痛いほどに感じた。みな好奇心と羨望と興味のないまぜになった、なんともいえない生暖かい目で布美子を見ている。同期生でありながら上司でもある特別待遇の生徒とは、いったいどういう人間なのだろう……上に立つ資格があるほどに出来る子なのか……そんな意地悪な関心が彼女たちの心には渦巻いているに違いない。布美子は緊張のあまり被害妄想に陥っていた。

「はじめまして、花水木歌劇団養成所一年の」
「そんなことみんなわかってる。それに入学式昨日だろう。今さらはじめましてもあるか」
「すみません。えー、岸田布美子と申します」
「挨拶は」
「おはようございます。岸田布美子と申します」
「岸田なんだって? もっと腹から息を出せ。自分の名前もろくに言えないやつが舞台に立てると思ってるのか」
「岸田布美子と申します。十八歳です。東京都立城西高校出身です。今年度の主任を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「はい、たいへんつまらない自己紹介でした。では次、二番!」

 布美子は蒼白になって自分の席へ戻り、震える足でやっと腰を下ろした。
 次に呼ばれた娘役見習いの少女は、前の布美子を見てすっかり萎縮してしまったらしく、こわごわと教壇へ上った。小柄でかわいらしい子だ。ひっつめにしていると額が広いのが目立ち、幼く見える。

「……み、みなさんこんにちは。し、出席番号二番の、鶴木めぐみ、十九歳です。四谷女子大学中退です。一度は大学に進学しましたが、梅団の磯田未央さんの大ファンでどうしても花水木歌劇団に入りたくて養成所を受験しました。どうぞよろしくお願いします」

 おどおどしている割には言いたいことをしっかりと喋っている。それに若く見えるのに布美子よりも年上だというのにも驚いた。

「磯田が好きか。ファンなのは仕方ないがあいつを見習ったらいかんぞ」

 教師は笑って次の生徒を呼んだ。明らかにさっきの布美子に対しての口調と違う。
 布美子はくやしさに唇を引き結んで次の生徒の自己紹介を見つめた。たった二十人の同期生、すでに名前と経歴は覚えているが、この機会に顔や声も覚えこんでしまおう。今やらなければいけないことはそれだ。ささいなことを引きずっている場合ではない。

「おはようございます。出席番号三番の宮下朱里と申します。沖縄から来ました。十八歳です。得意なことはサーフィンです。海の似合うかっこいい男役目指してがんばります。よろしくお願いします」

 色の浅黒い目のはっきりした顔の男役見習いはハキハキと笑顔で話した。三人目にもなればもうだいぶ慣れてきたようだ。

「沖縄出身は久しぶりだなあ。本島か?」
「はい、名護市です」

 一人一人の自己紹介を聞いているうちに、布美子は気付いた。皆の表情や言葉から、その人の個性が少しずつ垣間見えることに。厳しい選考を潜り抜けて入学しただけあってそれぞれが魅力的な色をもっているのがわかる。それに対して布美子の自己紹介は、自分自身を表現するという部分がまったく無かった。これから舞台の上で演技を通じて自分を出していく女優という職業を目指しているのに、自己紹介でアピールすらできないなんて、まるで失格ではないか。
 深く反省していると、順番は最後の生徒に回ってきた。

「ハーイエブリワン!アイムミズホ・スギヤマ。プリーズコールミーミズホ」

 まずい、と布美子は冷や汗をかいたが、演劇教師は腕を組んで面白そうな顔で見ているだけだ。

「アイムフロムニューヨーク。アイラブダンシングアンドシンギング。ミュージカルイズマイライフ!」

 身振り手振りもつけて、今にも歌いだしそうな表情たっぷりの自己紹介が終わった後、演劇教師は三回手を叩いた。

「はい、よくわかりました」

 布美子は瑞穂が叱られなかったことにほっとした。

「今日はここまで。いいか、この授業以外でも初めての授業では必ず自己紹介をやるだろう。与えられた一瞬でどれだけ自分のことを印象付けられるか、そこに集中しろ。入団したら役はすべてオーディションで決まるんだ。恥ずかしがらずにプライドを捨てて自分をアピールしないと仕事はないぞ。わかったな」
「はい」

 新入生二十人の表情が変わった。同期というのはただの仲良しグループではなく、最大のライバルでもある。まずこの集団の中で抜きん出なければスターにはなれないのだ。そのことに皆が気付いた瞬間だった。



「岸田、昼休みになったら二年生の教室に来て」

 一時間目の演劇が終わった休み時間、二年生の主任・豊原志保が呼び出しを告げに来た。
 それで、布美子は、正午にバレエの授業が終わると同時にめまぐるしく制服に着替えて二年生の教室へ飛んで行った。
 二年生の教室では、休み時間だというのに、半分以上の生徒が勉強していた。

「遅いよ岸田」
「申し訳ありません」
「制服に着替えるのに何分かかってるの? そんなんじゃ授業に遅刻するよ」
「すみませんでした」

 教室の一番後ろの壁の前で、布美子はひたすら頭を下げた。豊原の手が伸びてきて、急いで結んだために少し乱れてしまったスカーフを直してくれる。

「ありがとうございます……」
「身だしなみは注意してね。今朝の掃除だけど、全然言われたとおりにできてないじゃない。今から全員でもう一回やり直し。放課後にミーティングを開いて反省点を確認すること。反省点がわかったらレポートを書いて夕食の時間に私に提出して。わかった?」
「はい」
「じゃあすぐ行って。休み時間短いわよ」

 布美子は食堂へ走り、昼食を食べ始めていた同級生たちに向かって叫んだ。

「みんな、今すぐ掃除! 持ち場に走って! 早くしないと午後の授業に間に合わないから!」

 食事の途中でそんなことを言われても、すぐには反応できない。一年生たちは互いに顔を見合わせて何があったのかというような顔をした。

「今すぐ動いて! 食べるのは後よ!」
「どうしたの? 布美子」

 一年生全員の気持ちを代表するように瑞穂が聞いた。

「掃除が言われたとおりにできてないからすぐにやり直しなさいって。真剣にやらないとまたやり直させられるわよ」
「わかった。じゃあ布美子はご飯食べててよ、私もう食べ終わったから行ってくる」

 瑞穂と、事態を把握した一年生数人が立ち上がった。

「ご飯は後でいいわ。書庫の担当、あなただけに任せられない」

 布美子と瑞穂の二人が分担している掃除場所は、書庫だった。そこには劇団の最重要書類がすべておさめられており、入退室は学生証のIDカードで厳しく管理されている。百年以上前の紙類もおいてあるその場所で、資料がほこりをかぶったり虫がついたりしないように掃除し、湿度や温度も管理するのが掃除係の役目だった。掃除の際は資料に決して手を触れてはいけないと厳命されている。劇団員の個人情報や運営上の機密などもあるからだ。
 前任者からのメモを見ながらもう一度掃除の手順をやり直し、時計を見ると、もうあと十分で次の授業の芸能史が始まってしまう時刻だった。

「瑞穂、もう行かなきゃ、教室」
「急がなくても大丈夫だよ。パンぐらい食べてったら?」
「そんな時間ないわ。五分前には教室に入らないと。それにトイレも……」
「じゃあこっち! いつも誰も使ってないトイレがあるの見つけたんだ」

 瑞穂に連れて行かれたのは、どのフロアにもある大きな洗面所とは違う、2室しかない小さな男女共用のトイレだった。そこで素早く用をすますと二人は一年生の教室へ駆け込み、無事に三時間目と四時間目の座学をこなした。
 今日の授業はこれで終わりだ。しかし布美子の仕事は終わりではない。

「みんな、教室に残って。ミーティングを始めます」

 これから掃除の反省点をレポートにまとめなくてはならないのだ。

「鶴木さん、黒板にメモとってくれる?」
「オーケー」

 入学試験で布美子の次の二番の成績だった鶴木めぐみは、立ち上がって黒板の前に立った。

「今日の朝の掃除で何ができていなかったか、反省点を挙げてください。一時間半後にレポートを出さなきゃいけないの」

 布美子は必死の表情になっていただろうが、一年生たちは顔を見合わせたまま、何も言わなかった。

「掃除やり直したとき何か気付かなかった? 二年生にできてないって言われたのよ。やらなきゃいけないことがわかってるなら何が間違ってたかもわかるはずじゃない? それともどこができてないのかわからなかった?」

 沖縄出身の宮下が大きな目をぐりっと回して言った。

「岸田さんは反省点ないの?」
「あるわ。でもレポート書くの私だから、みんなの反省点が知りたいの」
「岸田さんがレポート書くって誰が決めたの?」
「誰って……そういうものだと思ってた」

 宮下はにかっと笑って布美子の机の上にある前文だけが書かれたレポート用紙を拾い上げた。

「みんなで書こう、そのほうが早いよ。まず理事長室担当の私から書くね」

 レポート用紙は生徒の間を回り、布美子の手元に帰ってきたときにはさまざまな筆跡の文字で埋まっていた。

「はい、あとは書庫担当だけ」
「ありがとう……」

 布美子は自分の担当箇所を書きながら胸がいっぱいになった。たったの30分でミーティングもなくレポートが書き終えられたのだ。なんと頼もしい同期生だろう。

「布美子、じゃあ私帰っていい? 今夜は久しぶりに彼とデートなんだ」
「待ちなさい!」

 布美子は腹の底から一喝して瑞穂の上着の裾をつかんだ。

「一年生の門限は六時よ。一時間で帰って来られるの? それに今日は何がなんでも髪を切ってもらうわ。床屋は五時で閉まるんだから……うわ、あと十分! 急いで!」

 本部の中にある床屋で、腰のあたりまであった瑞穂の長い髪にばっさりとハサミが入れられるのを見たときには、さすがの布美子も息をのんだ。しかし、カットを終えた姿を見て、やはり切ったほうが良かったと思った。
 襟足ともみあげを短くしてすっきりと耳を出した瑞穂は見違えるように男役らしくなっている。もともと眉がきりりとした涼しげな顔立ちで、しかもハーフなので鼻筋がまっすぐに通り肌も白い。美人はショートにするとさらに美貌が際立つものだ。
 明日から教室に出待ちが並びそうな美少年になったというのに、本人は鏡を見て顔をしかめている。

「だっさいアタマ……」
「とても似合ってるわよ」
「ほんとに?」
「本当よ。ファンになりそう」

 大げさなくらい褒めると、瑞穂はやっとニヤリと笑った。その笑顔を見て、布美子は本当にファンになってしまいそうだと思った。



 養成所の生徒が夕食をとる時間は6時と決まっている。
 その時間に布美子は、食堂に集合している生徒たちの中をかき分けて二年生の豊原に掃除の反省レポートを手渡した。なんとかひとつ言われたとおりのことができたという安堵と、今日はじめての食事にありつける嬉しさで、布美子の頬も緩みがちになる。

「豊原主任、レポートを提出させていただきます」
「ああ」

 そうだったね、というような顔をして豊原はレポート用紙を受け取り、すぐに眉をぴくりと動かした。

「……何これ」

 布美子の全身に一気に緊張が走る。

「何でしょうか……」
「誰が紙に回し書きしろって言ったの? 信じられない。主任がレポート書かなくてどうするのよ。何考えてるのあなた」

 布美子の顔はどんどん青ざめた。豊原はもう食べ始めている一年生のテーブルに向かって怒鳴った。

「一年生! 全員今すぐ五階の廊下に整列しなさい!」

 そして布美子の手首をつかむと、引きずるように五階へと階段を上がっていく。
 一年生たちも、二年生に追い立てられてそのあとを駆け足で上がってきた。布美子は一日の疲れでふらふらしながら階段を上り、一年生二十人の先頭に立たされた。

「あなたたち、この回し書きは何? ちゃんと話し合いをしたの?」
「しました」

 布美子はすかさず答えた。

「話し合いをしたなら言えるわよね、そこのあなた。理事長室の掃除の反省点は何? 言ってみなさい」
「…………」

 指さされた渡辺は震えながらうつむいた。

「言えないの? どうして?」
「……わかりません……理事長室の担当ではないので……」
「話し合いをしたんじゃないの?」
「聞いてなかったんです、ごめんなさい!」

 渡辺はぎゅっと目をつぶって泣き出してしまった。布美子は強烈な後悔に身を焦がしていた。こんなことになったのは全部自分のせいだ。

「謝り方も知らないの。申し訳ありません、でしょ」
「もうしわけ、ありません……」

 布美子はたまらず手を挙げた。

「私がうまく話し合いをリードできなかったんです。申し訳ありませんでした」

 豊原はレポートを床に放り投げて腕を組んだ。

「こんなことして話し合ったことにするなんて、呆れかえるわね。あなたはもうちょっとしっかりしていると思ってたのにがっかりした。最初から最後まで自分の言葉で書き直しなさい、今すぐ」
「豊原主任!」

 そのとき、聞き覚えのある声が叫んだ。沖縄出身の宮下だ。

「私なんです、レポートをみんなで書けばいいって提案したの……だから岸田さんは悪くありません。本当に申し訳ありませんでした!」
「あなたは黙ってなさい」

 しかし豊原の言葉は冷たかった。

「私が怒ってるのは、岸田が自分の役目をきちんと果たしてないってこと。全員で話し合いをして意見をまとめるべきだったのにそれをしなかった。書類の作成も手抜きした。こんなことでこれから先やっていけると思ってるの?」

 布美子はひたすら頭を下げて豊原の指摘を受け止めるしかなかった。

「ちょっと待ってよ」

 その口調に布美子が不安を覚える暇もなく、整列の最後尾から、切りたての短い髪を振って瑞穂が豊原の前に立ちふさがった。

「布美子はちゃんとやってるよ。朝からご飯も食べずに働きづめじゃん、あんたの命令に振り回されてさ」
「瑞穂、やめて」
「だってひどくない? 布美子に夕飯も食べさせないで怒るなんて……しかも布美子のせいじゃないのに」
「お願いだから黙って向こうに立っててよ!」

 布美子は絶望的な気持ちになって瑞穂の肩を思い切り押した。

「今の誰?」
「杉山瑞穂! 早く覚えてよね」

 離れた場所から憎まれ口をたたく瑞穂に冷や汗を流しながら、布美子はもう下を向いたまま顔を上げられなかった。

「髪を切ってたからわからなかった。岸田、早く杉山に口の利き方を教えて」
「はい」

 豊原はため息をついて再び布美子の手首を握った。

「今から私の部屋に来てレポートを書き直しなさい。終わるまで一年生全員、このまま立っていること」

 布美子は慌てて床に落とされたレポートを片手で拾い、引っ張られるままにまた階段をよろよろと上がり、七階の豊原の個室へと連れ込まれた。
 個室のドアを閉めると、豊原は布美子の手を離し、顔を覗き込んだ。

「大丈夫? 顔色悪いよ。少し座って休もうか」

 几帳面に片付けられた殺風景な部屋で、布美子はうながされるままにベッドに腰を下ろした。ふと視線を上げると、壁に梅団のスター井之口夕子の写真が貼ってあるのが見えた。豊原が部屋に好きなスターの写真を飾ったりするというのがなんだか意外だ。

「すみません……」
「あなたは頭がいいからわかってると思うけど、さっきは岸田が一年生の責任者だってことをみんなにわからせるためにああ言ったの。たぶん明日からはみんなあなたの言うこと聞くようになると思うよ」

 布美子は安堵の涙をこらえて何度も頷いた。豊原は見ていたのだろう。一年生たちが布美子の声かけに対して鈍い反応だったのを。豊原が布美子だけを厳しく叱ることによって、ほかの生徒たちは、自分たちが布美子に迷惑をかけていることに気付き、布美子の指示を仰ぐようになっていくのだ。
 隣に座っていた豊原は、布美子の頭を軽く撫でると、立ち上がった。

「さ、レポートやっちゃおう。書き方教えるから」

 レポートを書き終えるまで、一年生たちは本当に五階の廊下に並んだまま立たされていたようだった。八時ごろに布美子が豊原の部屋から五階へ降りてくると、青ざめて心配そうな顔をした一年生たちが布美子を取り囲んだ。

「大丈夫? あいつにひどいことされてない?」

 まっさきに瑞穂が口火を切る。布美子はわざと悲しそうな目で瑞穂をにらんだ。

「瑞穂の口の利き方が無礼だってすごく怒られちゃった」
「そうか……ごめん」
「これから注意すればいいわ。じゃ、みんな、ご飯食べに行きましょう。待たせてごめんね」
「そんな……」

 皆が泣きそうな顔で首をふる。豊原のパフォーマンスの効果は絶大だった。
 食堂へ行き、調理場のスタッフが食べかけのままとっておいてくれたお膳をもう一度並べて席についたそのときだった。

「一年の岸田と杉山って子、いる?」

 入口に仁王立ちになってぐるりと食堂を見渡しているのは、たしか、布美子たちよりも二つ上の期の小柴広海(こしば ひろみ)という先輩男役だ。養成所を主席で卒業し、松団に配属されたばかりだということを布美子は『月刊はなみずき』で知っていた。
 布美子はハイと叫んで急いで小柴のところへ走った。もちろん瑞穂の手を掴んで。

「岸田布美子と杉山瑞穂です」

 すでに歌劇団に入団している先輩に呼び出されるような心当たりはない。いったい何を言われるのかと、布美子は今日のいろいろな出来事を思い出して怖くて震えた。

「君たち今日の昼休み、来客用の洗面所を使ったでしょう」

 あっ、と布美子は思い出した。書庫の掃除のあと、時間がないからと瑞穂が"穴場"のトイレを教えてくれた、あれは来客専用だったのだ。布美子は激しく後悔した。

「あそこはたとえトップスターでも身内は使わないって決まりなの。もし君たちが使ってる間にお客様をお待たせするようなことになっていたら……」
「申し訳ありません!」
「すみません、知らなかったんです、あのトイレ使っちゃいけないなんて」

 小柴の顔がきりりと凄みをおびた。

「一階の来客のあるフロアにあって、スリッパも用意してあるし、個室の数も少ないし、明らかに他の洗面所とは違うでしょ。だいたい養成所の生徒は四・五・六階の洗面所しか使っちゃいけないって言われなかった? 口答えするなんて言語道断!」

 布美子は瑞穂の頭を押さえこみながらひたすら頭を下げた。今日はもう何度頭を下げたか数えきれない。

「反省してないみたいだから今から二人であの洗面所を掃除してきなさい。そうすれば嫌でも覚えるでしょ」

 小柴の言いつけで二人は一階へ降り、トイレ掃除をさせられた。朝から三度目の掃除だ。自分たちが使ったのだから掃除するのは仕方がないが、このせいで、布美子はついに夕食を食べる時間がないまま就寝の点呼の時間を迎えてしまったのだった。
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