花ものがたり 若葉の章 〜入寮〜

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「憧れの花水木歌劇団養成所の制服に身を包みました今、諸先輩方が築き上げられた伝統を受け継ぐことができる喜びと誇りに胸がいっぱいでございます。これからの二年間、全身全霊で芸道に精進してまいりますので、よろしくご指導ご鞭撻のほど、新入生一同、心よりお願い申し上げます」

 マイクなしの凛とした声が講堂に響き渡る。
 杉山瑞穂(すぎやま みずほ)はその声に聞き惚れていた。

「新入生総代、岸田布美子」

 読み終わって手にしていた紙をたたむと、その横顔が現れる。
 緊張で蒼白になっている生真面目な横顔のなんと清らかなことだろう。瑞穂は、化粧をしなくてもこんなにきれいな少女を見たのは初めてだった。いつまででも眺めていたい気がする。

「礼。着席」

 布美子が席に戻ると、一番前の角にいる号令係の少女が声を張り上げた。
 新入生二十名にはもうそれぞれの役割がついている。
 養成所では、主席合格者は主任と呼ばれ、れっきとした役職であり、手当もつく。布美子の命令は上司の命令であって、同じ学年どうしでも絶対なのだ。
 だが瑞穂がそれらの事を知るのはもっと後になってからで、布美子の挨拶を聞いているときにはただその美しさに見とれていただけだった。いや、主任のことだけではなく、養成所と花水木歌劇団の全てについて、瑞穂はほとんど何も知らずに入学してしまったのだが。

 入学式が終わった後、新入生たちは寮へと案内された。
 この養成所は全寮制であり、授業時間だけでなく二十四時間すべてが劇団員になるための職業訓練になっている。
 瑞穂があてがわれたのは五階の廊下の西側にある二人部屋だった。そして一緒にそこへ住むことになる相方は、なんと、一学年上の上級生だったのだ。

「君が今年の残り物か」

 開いたドアから顔を出した上級生は、瑞穂の顔を見るなり憐れむような笑みを浮かべた。
 同期が二十人いて、そのうちの一人が主任として一人部屋を与えられると、残りは十九人。余った一人は、他の学年の生徒と相部屋になる。
 瑞穂は学年でひとりだけ他学年と相部屋になってしまう、いわゆる「残り物」に選ばれたのだ。
 
「残り物って? っていうかあなた、誰なんですか」

 初対面の相手から変なことを言われて瑞穂は思わず不機嫌な顔のまま尋ねた。すると相手は太い眉毛を吊り上げて瑞穂のスカーフを掴まんばかりに詰め寄ってきた。

「何? その口のきき方は! 一年生は自分から名乗りなさい。そして先輩の名前は聞いちゃだめ。去年の名鑑を見て覚えるの」

 瑞穂より五センチほど背の低いその先輩は、ショートカットで黒のパンツスーツの制服を着ているところから見て男役見習いらしい。先輩の注意はそこまでで収まらず、瑞穂のポニーテールの髪を指差した。

「その髪も明日までに切ってきなさいよ。四階に床屋があるからそこに行けば校則どおり切ってくれるから。それと、この部屋は君の部屋だけど、先輩の私の部屋でもある。入るときは必ず三回ノックをして自分の名前を名乗ること。黙ってドアを開けたらダメ。わかった?」
「自分の部屋なのにノックするんですか?」
「一年生の返事は『はい』以外は禁止」

 これはもしかしたら大変なミュージカルスクールに入ってしまったかもしれない、と瑞穂は初めて思った。瑞穂にしてみれば、ミュージカルを学びに来ただけで、ニューヨーク時代のようなダンス好きの若者たちとの軽やかな青春を予想していたのだ。学生も団員も女性しかいない、ということも入学式の今日になって初めて知った。男の役を演じるのは面白そうだと思ったが。

「こりゃ間違えたかな……」

 思わず独り言をつぶやいたら、うるさい先輩に手首を掴まれ部屋に引っ張り込まれた。



「君、高校のとき彼氏とかいたの?」

 一日中細かい規則の説明が続き、夜になってやっと布団に入れるという時に、瑞穂の同室の先輩・園部博子は突然プライベートな質問を投げつけてきた。

「いたっていうか、いますけど」

 瑞穂がごく当たり前に答えると、園部は瑞穂の寝ているベッドの上に飛び乗ってきた。

「何なんですか?」
「受験のとき注意されなかった? 養成所の生徒は恋愛禁止! 他の人に絶対バレないようにして今すぐ別れなさい」
「なんでそんなこと人に指図されなきゃいけないんですか? そんなの学校とは関係ないし完全に私のプライバシーじゃないですか」
「返事は『はい』だけって何度言わせるの? 君が退学にならない為に言ってるんだからね。これだけは真面目に聞けよ」

 園部の顔が般若のように醜く歪む。
 部屋へ案内されたときからこらえ続けてきた瑞穂の堪忍袋の緒が、このときついにぷちんと切れた。布団をはねのけて起き上がり、パジャマ姿のまま無言で部屋を飛び出す。

「おい、ちょっと待て! パジャマで部屋の外に出たらダメだって!」

 追いかけてくる声を無視し、瑞穂は裸足で階段を駆け上がった。六階には学年主任の個室があると聞いている。そこには岸田布美子がいるはずだった。
 なぜか、瑞穂の頭の中には布美子の顔が浮かんでいた。彼女に会わなければならない、彼女ならなんとかしてくれる。そんな根拠のない思い込みだけで、瑞穂は部屋のネームプレートをひとつひとつ確かめながら走った。
 学年主任の部屋は、六階のいちばん北側の端にあった。

「布美子、開けて。私、杉山瑞穂」

 片手でドアをノックしながら、もう片手はドアノブにすがりついている。
 だから、布美子がドアを開けてくれたとき、勢い余って部屋の中へよろめくように倒れ込んでしまった。

「どうしたの? 就寝の点呼は終わったわよ。あなたの部屋は先輩と相部屋だから点呼には行かないことになってるけど……」
「布美子!」

 瑞穂は、白いネグリジェ姿の布美子を思わず抱きしめた。洗いたての甘い髪の香りが心をほっとさせる。

「お願い、部屋を変えてよ。もうあの部屋は嫌」
「まだ一日もたってないじゃない」
「でももう一秒も我慢できない。あの部屋にいたら息も自由に吸えないよ」
「杉山さん……」

 布美子は、十センチ以上も背が高い瑞穂の背中を母親のようにさすりながらベッドに座らせてくれた。
 たいしたことはないと思い込もうとしていたが、優しくされると堰を切ったように怒りがあふれだす。もともと日本の普通の高校でさえ息苦しくてたまらなかったのだ。こんな刑務所か軍隊のような学校だとわかっていたら入ることもなかっただろう。

「あれはダメこれもダメ、ああしろこうしろって一日中メモ帳に書かされて、あげくの果てに親にも連絡するなとか彼氏と別れろとか言い出して……ちょっとでも疑問を持ったら『はい』しか言うなって命令されるし。これっていったい何なの? しかも私だけがこんな目にあわなきゃいけないってどういう事よ。私だって他の子と同じように同級生と同じ部屋になりたい」

 布美子は黙って聞いていたが、瑞穂の目を見てこう言った。

「どうして杉山さんが先輩と相部屋になったかわかる?」
「ううん」
「入試の成績が最下位だから」
「え……」
「私は杉山さんは絶対合格しないだろうと思ってた」
「でも面接のとき私が合格するべきって言ってたじゃん」
「話を聞いた時には、そうなったらいいなと思ったから……。でも実際は着物も自分で着られてなかったし、踊りも習ってないみたいだったし、髪もお団子にするのが決まりなのにしてないし、劇団の公演を観たこともないって言ってたでしょ。普通そういう人は採らないわよ。他にもできる子はいっぱいいるもん」

 そう言って布美子は瑞穂の手を握った。

「杉山さんは他の同期よりもだいぶ遅れてるのよ。だから生活面でも先輩の指導が必要なの。これから覚えなきゃいけない決まり事は今日のメモの少なくとも十倍はあると思う。もし花水木歌劇団の団員になりたいんだったら、何がなんでもくらいついて行くしかない」

 瑞穂はうなだれて布美子の手をきつく握り返した。
 花水木歌劇団の団員になりたいかどうかなんて、今はもうわからない。ただ、この人が、自分が合格すればいいと思ってくれたことを、無駄にしたくない。

「悔しい……」
「私は、この学年から誰一人、落第者を出したくないの。それが私の仕事だと思ってる」
「……仕事だから?」
「え?」
「私に親切にしてくれるのは仕事だから?」
「そう」

 短く答えた後に、布美子は少し笑った。

「でも私たち、これから一緒に頑張っていく仲間なんだから、助け合うのは当然じゃない?」
「布美子……、私、布美子と同じ部屋がいい。指導が必要なら布美子が教えてよ。だいたい布美子だけ一人部屋なんてずるい」
「この役目は私が選んだわけじゃないわ。それと、布美子って呼ばないでね、人前では。主任って言うのが規則だから」
「今は二人きりだからいいでしょ。私のことも瑞穂って呼んでよ」
「はいはい」

 布美子は瑞穂の手をぽんぽんとたたいて外させ、ベッドから立ち上がり、壁にかけてあった制服に手を伸ばした。

「着替えるから待ってて。一緒に部屋に帰って先輩に謝ってあげる」
「嫌だ、帰りたくない。ここで寝る」
「……わかった。じゃあここにいて。私が先輩と話して来るから」

 ネグリジェを脱ぎ捨てて黒いスーツの制服をぴしりと着込んだ布美子が部屋を出て行くのを、瑞穂は唇を噛みながら見送った。



「……杉山さん、起きて」
「ん……」
「もう五時半よ。今すぐ部屋に戻って制服に着替えて。毎朝六時に食堂に集合、って説明があったでしょ」

 その声の意味をまったく理解できないままふわふわと夢うつつの境目をさまよっていると、鋭い声が耳に突き刺さってきた。

「杉山さん! 起きて!」

 やっと瞼を開けるとびっくりするほど近い位置に下着姿の布美子の上半身があって、瑞穂は一気に覚醒した。昨晩布美子が先輩と話してくると出て行ったあと、ベッドに座って待っているうちにいつの間にか寝てしまったらしい。

「……瑞穂って呼んでって言ったじゃん」
「おはよう、瑞穂」

 かなり疲れた様子の布美子は制服のシャツを羽織って鏡を見ながらボタンを留めはじめた。

「すぐ部屋に戻って制服に着替えてきて。園部先輩はいないから」
「いない……?」
「朝のランニングに行かれたわ」
「布美子、今までずっとあの部屋にいたの?」
「そう」
「……何してたの?」

まさか一晩中園部のいびりを受けていたのでは……と瑞穂の頭の中をよからぬ妄想がよぎった。だが、布美子の返事は意外にも淡々としたものだった。

「園部先輩の荷造り」
「荷造りって……」
「部屋を代わって頂けることになったの。私と」

 瑞穂は一気に喜びの絶頂へ駆けのぼった。園部と布美子が部屋を交換するということは、布美子が自分と二人部屋になるということだ。

「ほんとに!? やった!!」
「引っ越しは今日の放課後だから。とにかく早く着替えてきて」
「よく説得できたね、あの石頭を」
「瑞穂」

 布美子はスカートも履かないままで、ベッドにごろ寝している瑞穂の顔に三本の指を突きつけた。その目は真剣を通り越して血走っていて、瑞穂は今までに経験したことがないほど強烈な圧力を感じた。

「私、今、着替えてきてって三回言った。これ以上言わせないで」

 もしかしたら先輩よりも布美子と同室のほうが大変なのかもしれない――。少しだけ不穏な予感が瑞穂の胸をくすぐった。

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