花ものがたり 若葉の章 〜卒業〜

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「どうぞ。入って」

 ラグのないフローリングに置かれた白い革のソファに腰かけ、布美子は、物珍しげにあたりを見回したりしないように気を付けた。粟島の家に来るのは二度目だが、いっこうに慣れない。この家の雰囲気が慣れるということを拒んでいるようだった。
 漆喰の壁にはレコードとモノトーンの版画が飾られ、窓には昼でも薄暗い黒の透けるカーテンがかかっている。天井からぶら下がっている小さな鉄のシャンデリアが唯一の照明だ。そして部屋全体にインド風のお香の香りが漂っていた。余計なものは見えないようにすっきりと片付けられていて、とにかく生活感というものがない。

「紅茶でいい?」
「はい」

 恐縮しながらも、おかまいなくという言葉を飲み込む。まだ入団もしていない生徒と次のトップを約束されたスターとの立場の差はあまりにも大きく、遠慮などするのもおこがましい。紅茶を出してくれるというならそれを頂くしかないのだ。
 粟島は金の縁取りのあるティーカップを布美子と自分の前に置いて、ソファの隣に座った。ただのラフな白シャツと黒いパンツで裸足なのに、ドキドキするほど美しい。

「そんなに緊張しないで」
「すみません」

 布美子はますますどぎまぎし、紅茶を飲んで少し落ち着いた。マスカットのような香りのするダージリンだ。

「話すのがうまくないから短く言うけど、返事をしに来てくれたんだよね?」
「はい」

 布美子は紅茶をテーブルに置き、両手を膝の上にそろえた。

「初めてお話を頂いたとき、正直、トップなんて私にはとてもできないし困るって思ってしまいまして、どうやったらお断りできるか……ということばかり考えていました。でも、文化祭を経験して、真ん中に立ってソロを頂いたりお芝居をしたりすることがすごく楽しくて、劇団で主演を経験できたらどんなに素晴らしいだろうと思いました」

 布美子は勇気を出して震えそうになる声を絞り出した。

「でも、それは今じゃないと思うんです。私には成長する時間が必要です。それにトップになったら三年の任期しかつとめられません。花水木歌劇団が大好きで、劇団に入りたくて今まで自分なりに一生懸命努力してきました……だから三年は短すぎます」

 必死に目を上げた布美子を、粟島は真剣な顔で見つめていた。

「私は、この前の文化祭を見るかぎり、布美子ちゃんはもう遠回りする必要はないと思うし、たとえ三年という短い期間でも十年分の経験と実りをあげられる自信はあるけど」

 布美子は何も言い返せずにうつむいた。もうこれ以上布美子に言える言葉はない。

「……布美子ちゃんは、杉山君の相手役になりたいんじゃないの?」
「えっ」
「三年では杉山君がトップになるのを見届けられないから短すぎるんでしょう」

 その言葉を聞いた瞬間、布美子は思いがけず突然ぽろぽろと泣き出してしまった。
 無意識のうちに本当は強くそれを願っていたこと、いつの間にか自分の夢が二人の夢になっていたこと、そして本気で叶うと信じていること―――いきなり心の中の真実を突き付けられたのだ。
 粟島はティッシュを差し出してくれた。

「彼女のことが好きなんだ」
「違います、もちろん、かけがえのない友人ですが……」
「そう」

 粟島が一瞬にやりと笑ったような気がした。しかしもう一度見直したときにはもう真顔に戻っている。

「私、自分のことはどうでもいいんですけど、瑞穂は絶対にトップになるって信じています。あの子は初めからスターなんです」
「わかるよ。私もそう思う」

 粟島はソファに背を預け、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。布美子はやっと、なんということを言ってしまったのだろうと後悔した。相手役になることを断るだけでも大変なことなのに、ほかの男役の話などしてしまうとは。

「あの……申し訳ございません」

 ティッシュを握り締め、小さくなって頭を下げる。

「私こそごめんね、悩ませて。……布美子ちゃんはもう二十歳になった?」
「はい」
「じゃ、今から飲みに行こう」

 今からとは突然すぎる。それに時刻はまだ昼間の2時過ぎだ。布美子はまったく心の準備ができていなかった。粟島の自宅へ行くだけでも心臓が飛び出しそうなのに、二人で飲みに行くなんて想像もできない。しかし花水木歌劇団では先輩の誘いを断ってはいけないのがルールである。

「私、まだお酒を飲んだことがないんです」
「それじゃなおさら」

 布美子のささやかな抵抗は無視された。粟島は腕時計をつけ、ジャケットを羽織り、革のバックパックを肩にかけながら言った。

「門限までには寮に送ってあげるから大丈夫。それと、バーに行く前に服を買おう。制服じゃ居心地悪いでしょ」
「そんな……」

 びっくりして手を振ると、粟島はその手を取った。

「さあ、早く出ないと、そんなに時間がない。……緊張する? なんなら杉山君も呼んでいいよ」
「いえ、あの子は、未成年なので」

 自分でも驚いたことに布美子は嘘をついていた。実際は瑞穂のほうが布美子より半年も誕生日が早いのに。

「じゃあ仕方がない、今日だけ付き合って。酒の飲み方ぐらい教えさせてよ。キスのしかたは教えてあげられなかったけど」

 動揺を隠せない布美子を見て、粟島は唇をかすかに歪めて笑った。



 瑞穂はスナック菓子を食べながらベッドで漫画を読んでいた。同級生を遊びに誘ったが、もうすぐ行われる卒業試験の準備に忙しいという理由で誰も付き合ってくれなかったのだ。
 卒業試験は一週間で20科目も行われ、その成績に従って配属が決定する。果てしない試験勉強が必要なのは無理もないことだが、卒業さえできればいいと思っている瑞穂にはどうでもよかった。入団してからオーディションで本気を出せばいいことだ。
 そうは言っても布美子がいると尻を叩かれて勉強せざるをえなくなってしまうのだが、その布美子も今日は早くから外出してしまい、せっかくの休日だというのに暇をもてあましてしまった。もう門限の六時も近い。
 帰って来ない布美子が心配になり始めたそのとき、待っていた声がした。

「ただいま」
「おかえり。……って、布美子、どうしたのその格好」

 コートを脱いだ布美子は、規則通りの制服ではなく、ワインレッドの光沢のある長袖のワンピースを着ていた。一目見てちゃんとしたブランドとわかる上質な品だ。ひっつめの頭にもきらりと光るカチューシャをつけている。

「ちょっとね」
「ちょっとって何!? 明日ぐらいヒョウでも降るんじゃない? どこ行ってたの、デート?」

 瑞穂はベッドから飛び起きて布美子の両肩をつかみ匂いをかいだ。驚いたことに、アルコールの匂いがする。

「着替えるから放して。もう点呼に行かなきゃいけないから……」
「教えてくれなきゃ放さない」

 布美子はおなじみの溜息をついて瑞穂の手をぽんぽんと叩いた。

「粟島さんと飲みに行ってたの。この服はそのとき買ってくださったのよ」

 その言葉は一瞬にして瑞穂を暗闇に突き落とした。
 文化祭が終わるまで、という期限つきで粟島は布美子の返事を待っていた。その文化祭が終わって次の週末に、粟島に買ってもらった服を着て酒の匂いをさせて帰ってきたのだ。瑞穂は落胆のあまり感情を抑えられなかった。

「最低だな、布美子がデートとかそういうの免疫ないのわかってて、汚いやり方してさ。相手役にしたいなら物で釣ったりせずに正々堂々実力で勝負するべきだよ」
「粟島さんを悪く言わないで」

 布美子にたしなめられ、瑞穂はいっそう怒りを爆発させた。

「もうすっかり相手役気取りじゃん。あいつと付き合うことにしたの? おめでとう」

 すると布美子は大きな瞳で上目遣いにきつく睨んできた。

「私は断ったの! それなのに粟島さんは服も買ってくれたしごちそうもしてくれたの。瑞穂とは器の大きさが違うわね」

 瑞穂は突き放されるままに両手を下ろして茫然とした。

「ほんとに断ったの?」
「そうよ」
「なんで?」
「ねえ、チャック下ろすの手伝って」

 布美子は問いに答えずに後ろを向いた。首元のチャックを腰まで下ろしてやると、ほくろひとつない背中と下着が見えて瑞穂は目をそらした。

「ありがと」

 言葉を失った瑞穂を後目に布美子はてきぱきと制服に着替えていく。

「自分で考えて決めたことだから後悔はしない。瑞穂にもいろいろ心配かけたけど、もう大丈夫だから。心おきなく試験勉強に集中してね」
「最後の一言が余計だよ……」

 布美子は笑顔を残して、一年生の点呼のために部屋を出て行った。 
 布美子が粟島の相手役になることを断ったというのに、瑞穂はまったく粟島に勝てた気がしなかった。そもそも勝った負けたの話ではないのだが、実は先日、瑞穂は粟島に宣戦布告をしてしまっていたのである。
 あの文化祭の日、医務室で眠っている布美子の付き添いをしていたとき、ひとりの客が現れた。

「杉山君、お疲れ様。布美子ちゃん大丈夫? 舞台で具合悪そうに見えたけど」

 それはライラックの花束を持った粟島だった。舞台メイクと照明にも誤魔化されず布美子の体調を見抜いたのはさすがだが、わざわざ医務室にまで様子を見に来るところが気に入らない。そんなことをしたら布美子が気を遣って休めないということがわからないのだろうか。
 瑞穂は唇の前に人差し指を立てた。

「今、眠ってるんで、帰ってください」

 ここは自分が門番として絶対に追い返さなければならない、と瑞穂は気負った。

「そう。じゃ、これ渡しておいて。布美子ちゃんをよろしくね」

 粟島は花束をキャビネットの上に置いて帰ろうとした。

「ちょっと待ってください」

 布美子ちゃんをよろしく、とは、まるで身内のような言い方だ。瑞穂はかちんと来て椅子から立ち上がった。そして、精一杯抑えた声で宣言する。

「布美子は私の相手役ですから」

 瑞穂の不遜な物言いにも粟島はぴくりとも表情を動かさなかった。

「彼女に恋してる?」
「それが何か」
「別に。……良かったよ、舞台」

 ひらりと手を挙げて出て行くスマートな後ろ姿に、瑞穂はなぜか悔しい思いでいっぱいになったのだった。
 その後、花束は一年生に渡して本部の玄関に飾る花のなかにこっそり混ぜてもらい、粟島が来たことは内緒にしていた。わざわざ見舞いに来て花束までプレゼントしてくれたことを知ったら布美子がほだされてしまうかもしれないと思ったのだ。
 あれから一週間が過ぎ、結局布美子は粟島の相手役にはならないという選択をしたらしい。瑞穂はようやくじわじわと嬉しさがこみ上げてきて、ベッドに勢いよくダイブした。

「やった!」

 枕を抱き締めて寝返りを打った視線の先に、椅子の背にかけられたワインレッドのワンピースが見える。

「……あんなの、似合わないよ」

 つぶやいた独り言が負け惜しみのように聞こえて、瑞穂は唇をかんだ。



 痛いほどの緊張感と沈黙が狭い教室を支配している。
 布美子たち二年生20名は、ぴくりとも動かず背筋を伸ばして座っていた。今日はこれから、卒業試験の結果と採用辞令が総務部長から直接ひとりひとりに手渡されるのだ。
 廊下を近づいてくる足音に、布美子はごくりと唾を飲み込んだ。

「失礼します」

 がらりと扉を開けたのは、一期上の先輩・豊原志保だ。劇団員の正装である松竹梅の留袖に、所属する竹団のからし色の袴をつけた豊原は、鋭い視線で教室の中の生徒の顔を見回した。
 布美子は目を閉じて祈る。どうか彼女が最初に口にする名前が自分でありますように、と。
 教室からワンフロア下にある総務部長室に二年生をひとりずつ呼び出すのが豊原の役目だった。そして、その呼ばれる順番が、試験の成績順なのである。つまり最初に呼ばれる人がこの学年の主席卒業者というわけだ。

「一番。……杉山瑞穂」

 布美子は目を開けて後ろの席の瑞穂を振り返った。瑞穂は自分を呼ばれたのが聞こえていないのか、ぼうっとしている。布美子は囁いた。

「瑞穂、立って」
「……あ、はい」

 瑞穂はようやく起立して豊原のところへ行った。

「おめでとう。入学試験では最下位で卒業試験は一番なんて、出来すぎね」
「ありがとうございます」
「総務部長室へ行って。ちゃんと作法を守りなさいよ。最後まで気を抜かないこと」
「豊原さん相変わらずですね……はい」

 瑞穂は豊原に睨まれてかしこまってから廊下へ出て行った。すぐに走り出す足音が聞こえ、布美子は頭を抱えた。廊下は走らない、なんて小学生レベルの注意事項をわざわざ言う気にもなれない。
 教室には微妙な空気が流れていた。二年間主任の座を守り続けた布美子が主席で卒業すると同期の誰もが信じていた。それが、ずっと面倒を見てきた手のかかる問題児の瑞穂に抜かれてしまったのだ。布美子は自分に同情の視線が向けられているかのような被害妄想を抱いた。悔しさなのか諦めなのかわからない脱力感が全身を襲う。瑞穂の一番には納得できるが、二年間の集大成の試験の結果が初めてのトップ落ちというのはやはりショックだった。
 瑞穂は五分もしないうちに教室に戻ってきた。両手に白い風呂敷包みを抱えている。

「布美子、私、梅団だったよ!」

 その風呂敷包みの中身は、所属することが決まった梅団の臙脂色の袴と、松竹梅の紋付だ。この着物は入団にあたって劇団から支給されるのである。
 布美子は、おめでとう、と声に出さずに口だけで伝え、万感の思いを込めて瑞穂の目を見て頷いた。梅団はダンスショウや軽いミュージカルコメディを得意としている団で、瑞穂には最も向いているだろう。きっと入団したらすぐ活躍するに違いない。

「二番、岸田布美子」
「はい」

 布美子はまっすぐに立ち上がり、豊原のところへ行って一礼した。

「首席卒業おめでとう。杉山と同点一位よ。慣習で男役を先に言うけど」
「えっ」

 そのとき、ぴゅうっと口笛が聞こえ、教室じゅうから拍手が沸き上がった。思わず皆の顔を見ると、温かい笑顔で布美子を見つめてくれている。
 布美子は泣きそうなのをこらえ、

「ありがとうございます」

とお辞儀をして逃げるように廊下へ出た。主席だったことにほっとして、それに何より同期の皆の気持ちが嬉しすぎて、これから大事な辞令を受け取りに行くというのに涙でぼろぼろになってしまいそうだ。
 感激するいっぽうで、布美子は自分の所属する団は竹団だろうと冷静に考えていた。主席を二人とも同じ団に配属するわけがないし、松団は粟島の相手役の申し出を断った件があるので布美子を採らないだろう。
 初老の総務部長は、手持無沙汰そうに両手を組んで机の前に立っていた。

「岸田布美子君、主席おめでとう。君の努力はずっと見ていたよ。入学試験のときから、きっと岸田君なら厳しい研修を乗り越えて同期の諸君を引っ張っていってくれるだろうと思っていた」
「いいえ、私なんて……自分のことにただ精一杯でした」
「一○六期生は、ひとりの不合格者もなく、全員が劇団員になる。これは20年ぶりの快挙です。君の力が大きいと思うよ。特に、杉山瑞穂君の成績がこの二年で最下位から一位になったのは、君のおかげじゃないかな」

 総務部長の言葉にさからうのもおこがましいと思いつつも布美子は首を振った。

「彼女自身の努力と才能だと思います」

 本当にそれしかない。瑞穂は布美子の言うとおりに勉強するような素直な生徒ではなかったし、まして実技の点数に関しては他人に何ができただろう。総務部長は笑いながら、制服の入った白い包みを差し出した。

「さて、岸田布美子君。あなたを四月一日付で花水木歌劇団員に採用し、梅団への所属を命じます。実はさっき、杉山君が君と同じ団にしてくれなければ入団を辞退するって言ったものだから」

 布美子は仰天した。総務部長に対してそんなわがままを言うなんて、それだけでクビにされても不思議ではない。

「申し訳ございません!」

 白い包みを抱えてこれ以上できないほど深々と頭を下げると、総務部長は低い声で笑った。

「冗談冗談。最初から二人とも梅団に配属することに決まっていたんだよ。でないと、制服を発注できないでしょう」
「安心しました……」

 布美子はもう腰が抜けそうだった。面白そうに笑っている総務部長は実はかなり食えない人なのかもしれない。

「早く帰って杉山君に教えてあげなさい」
「はい。ありがとうございます。あの、ひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか……?」

 布美子は勇気を振り絞って聞いた。ここで聞かなければ一生わからないことだからだ。

「どうぞ」
「どうして私と杉山は同じ団に配属されたのですか?」

 総務部長は首を傾げた。

「さあ……プロデューサーや演出家たちが二人は梅団にということで意見が一致していたから、現場に従うことにしただけだよ」

 結局理由はさっぱりわからないまま、布美子は皆の待つ教室へと戻った。そして布美子が口を開く前に、飛びついてきた同期たちに風呂敷包みを奪われて、その中身が臙脂色の袴であることがわかると、またひとしきり拍手と歓声が上がったのだった。



「布美子、一緒に寝てもいい?」
「どうしたの?」
「だって今夜で最後だから」

 布美子が黙って場所をあけてくれたので、瑞穂はいそいそとベッドの隣にもぐりこんだ。洗いたての髪のシャンプーの香りと布美子の体の温もりに全身がしっとりと包まれる。瑞穂は布団の中で手を伸ばして布美子の腰に腕をからめた。

「何してるの」

 怒られたがそんなことにひるんでいる場合ではない。

「いいじゃん」
「ほんとにもう……」

 布美子は溜息をつきながらも寝返りを打って瑞穂の腕の中に入ってくれた。
 この二年間、いつもそうだった。困った顔をして小言を言いながら、何かあったらすべて自分が責任を取るという覚悟を決めて、瑞穂と一緒に未知の世界に飛び込んでくれた。周りからはいつも冒険しているように思われていたが、布美子がいなかったらそんな勇気は出せなかった。

「ねえ、本当に実家に帰っちゃうの?」
「今さらやめてなんて言わないでしょうね。もう全部荷物送っちゃったのに」
「言わないよ。言わないけどさ……」

 瑞穂は布美子の髪に頬を押し付けた。

「入団したら布美子、もう私と口きいてくれなくなりそう」

 そう言うとまた怒られる。

「そんなことあるわけないじゃない」

 真っ暗な部屋はがらんとして、瑞穂の身の回りの物を詰めたダンボール箱だけが無造作に積まれている。明日は引っ越しの日で、瑞穂は上階にある劇団員の寮へ、布美子は東京都内の実家へと移るのだ。段取りのいい布美子はすでに荷物を発送してしまっていた。
 急に瑞穂の胸に感傷がこみ上げる。この部屋ではいろんなことがありすぎた。

「だって布美子はすっごく可愛いしスタイルいいし真面目で礼儀正しくて芝居もダンスも歌もできるし入団したらあっという間にスターになっちゃって人気者になって私なんか声もかけられなくなるよ。普段遊ぶ友達だって主役級の先輩ばかりだろうし、すぐ紹介されて彼氏とかできるだろうしさ、そしたら私とは挨拶ぐらいしかしなくなっちゃう……そんなの嫌だ」

 抱きしめる腕に力を込めると、鼻をつままれた。

「バカね。先にスターになるのは瑞穂のほうでしょ。舞台の上では実力だけが物を言うんだから」
「……そうか……」

 瑞穂は何となく理解した。布美子はそういう言い方で瑞穂を前へ進ませようとしているのだと。養成所に入学したときからずっと、ゴールのない道を全力で走り続けるために、立ち止まりがちな瑞穂を励まし続けてくれていたのだと。

「私が頑張って布美子と同じくらいスターになればいいってことか」

 布美子はふんっと笑って瑞穂の頭を優しく撫でてくれた。

「きれいに伸びたね、髪」
「うん。あのとき布美子が泣いてくれたの、実は嬉しかった」
「生きた心地がしなかったわよ」
「ごめん」

 布美子の手が頭に触れている、そのあたたかさがじわりと胸に染みて、瑞穂はたまらず照れをかなぐり捨てて布美子の肩口に顔を埋めた。

「布美子と離れたくない……寂しいよ……ぎゅっとして」

 かすかな溜息と一緒に細いけれど確かに女の柔らかい体が瑞穂に押し付けられ、温かい手のひらが嗚咽する背中をさすってくれた。

「よしよし、いい子いい子。……なあに、泣くほど寂しいの?」
「同期、には、黙っててよ」
「おばあさんになってもからかってあげる」

 布美子は含み笑いしながらも、瑞穂が泣き止むまでちゃんと抱きしめてくれた。
 もう二度とこんな夜はないのだということが瑞穂の胸をますます締め付けた。明日は養成所の卒業式、それが終われば入団式だ。もう学生ではなく、日々のすべてを舞台に捧げるプロの役者になる。そして二人は別々の家に帰ることになる。
 初めは、くそ真面目で口うるさい学年主任と同室になったことを後悔したこともあった。でも今はそのすべてが懐かしく愛しくかけがえのない日々だったことがわかる。

「こんなに寂しくなるなんて思わなかった。いつもうるさいって思ってたのに。布美子ぉ……」

 みっともないと思っても止められなくて泣きつくと、案の定呆れられた。

「同じ団なんだからこれからも毎日会うじゃない。24時間一緒じゃないといけないの?」
「だってオフに誰かと仲良くなっちゃうかもしれないじゃん」
「私は誰のものにもならないから安心して」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあキスしていい?」
「ダメ」
「だろうと思った」

 瑞穂はパジャマの袖で涙を拭き、ふてくされて仰向けに寝転がった。どうせ布美子を自分のものにすることなどできないのだ。彼女は自分の意志で飛ぶ自由な鳥で、みずから定めた目的地をよそ見もせずに目指している。瑞穂ができることはその行く先に付いて行くことだけだ。
 そのとき、布美子の顔が真上にぬっと現れて、瑞穂はびっくりした。

「何?」
「瑞穂。もし私のこと好きだったら、男役として舞台で惚れさせて。私の恋人の役を自分の力で勝ち取って。芝居の中でならいくらでもキスしていいから」

 暗くて表情はよく見えないが、声は真剣そのものだ。それが本心からの布美子の願いなのだと瑞穂は悟った。

「わかった。約束しよ」
「うん、約束」

 布美子の額がくっついて、さらりと落ちた髪が頬に触れる。
 後に花水木歌劇団の伝説となる杉山瑞穂と岸田布美子が手をつないでトップへの道を歩き始めたのは、その瞬間だった。

若葉の章・完

あとがき
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