花ものがたり 若葉の章 〜受験〜

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 受験会場は、高校の制服姿の若い女子であふれかえっていた。
 長テーブルとパイプ椅子がずらりと並ぶ広い教室で、皆がいっせいに浴衣に着替えている。これから行われるのは日本舞踊の試験なのだ。
 課題曲は、長唄の藤娘の一節と、民謡のソーラン節。受験生によって習っている流派が違うため、振付は自由で良いということになっている。

「ねえねえ、そこの彼女。帯ってどうやって結ぶの?」

 受験生の岸田布美子(きしだ ふみこ)は明るい声に振り向いた。
 その声の主は見上げるほどの長身で、腰までありそうな長い髪をポニーテールにしていた。きっとモデルかなにかの芸能活動をしている子だろう。雰囲気があきらかに他の受験生たちとは違う。

「……浴衣、着たことないの?」
「うん、ない」

 彼女の恰好は、帯の結び方がわからないというレベルではなかった。重ねる襟の左右も違うし、おはしょりもない。浴衣のサイズがまったく合っていないのだ。

「これから日本舞踊の試験なんだよ。浴衣も着られないのに踊れるの?」
「ソーラン節なら踊れるよ。運動会で踊ったもん」

 答えた彼女の瞳に悲壮感はまったくない。
 ひやかしの受験か、と布美子はうんざりした。
 花水木歌劇団の団員になるためには、まず二年制の養成所の入学試験に合格しなければならない。これによって準公務員として採用され、わずかな給料をもらい、寮で暮らしながらほぼ二十四時間年中無休の研修を受ける。
 社会貢献活動を含む厳しい研修を経て、入団基準以上の成績を修めて卒業し、二年間の研修態度が劇団員にふさわしいと判断された者のみが晴れて歌劇団に入団を許されるのである。
 今日の入学試験は、憧れの花水木歌劇団に入るための二年間の長い入団審査の最初の一歩というわけだった。

「私が着替えたらやってあげるから、ちょっと待って」

 布美子はひやかしの受験生にそう答えてしまった。この背の高い白人のように色が白い女子高生も、自分と同じように今日この先の人生が決まるのだろうと思えば、見捨てるのはしのびない。もっとも自力で浴衣を着ることもできないこの子が合格する可能性はほとんどないだろうが。
 布美子は細心の注意を払いながら皺ができないように浴衣を着た。浴衣の着方も審査の対象になる。少しでも気を抜けばライバルに蹴落とされてしまうのだ。
 小さな手鏡で襟の抜き加減を確認し、完璧なラインに整えると、布美子は背の高い子を呼んで浴衣を着せ直してやった。

「サイズが小さいからちょっと変だけど、しょうがないわね」
「サンキュー、ぬのみこちゃん」
「え?」
「ぬのみこじゃないの?」

 彼女が指差したのは、机の角に置いてあった布美子の受験票だった。

「ふみこって読むの」
「ああそうか」

 簡単な人名も読めないらしい。
 可哀想だがますます合格の可能性はないな、と布美子は思った。試験の科目には一般教養も小論文もあるのだ。しかし落ちたところで、本人もあきらかに記念受験のような雰囲気だから、特にショックでもないのかもしれないが。
 こんなバカな子のことなど気にするのはやめて試験に集中しなければと布美子は気合を入れて襟を直した。



「ねえ、大丈夫?」

 耳にその言葉の意味が届くよりも早く、布美子は、ポニーテールの長い髪の匂いに目を上げた。
 しかしうなだれた頭は持ち上げられない。少しでも動いたら吐きそうだった。
 日本舞踊の試験が終わり、バレエの試験も終わって、あとは面接を残すのみとなり、受験生たちはそれぞれ制服やリクルートスーツに着替えて廊下に並べられた椅子に座っている。その椅子に座って自分の順番が来るのを待ち始めたとたん、布美子は急に極度の貧血に襲われてしまったのだ。

「顔が真っ白だよ。気分悪いの?」
「……大丈夫……」
「誰か呼んでこようか」
「絶対呼ばないで!」

 布美子は全身の力を振り絞って相手の膝を掴んだ。
 受験というここ一番の勝負時に具合が悪くなるなんて、劇団員の素質がないと判断される材料としては十分だ。

「まだ時間あるから寝てなよ。私の膝、枕にしていいからさ」

 見ず知らずの相手にそこまではできないと顔を見て、布美子は驚いた。セーラー服を着ているポニーテールのその子は、さっき浴衣を着付けてやったひやかし受験生だったのだ。
 世話になったお返しにということかもしれないが、それにしても膝まくらなんて……とためらっていると、いきなり両肩を掴まれてぐいと引かれた。

「寝てなって。試験官は誰も見てないから」

 言い当てられて布美子は赤くなった。実はそれほどバカな子でもないのかもしれない。言われたとおり相手の太腿にこめかみを預けると、頭に血が通い始め、明らかに気分が楽になった。
 実技のときは、緊張したら実力が発揮できないとわかっているので理性で抑え込んでいたが、終わったとたんに気が緩んでこのざまだ。これを克服しなければ合格もその後の劇団員生活もおぼつかないだろう。
 急に自信がなくなり、溢れてきた涙でスカートを濡らしそうになって、布美子は指で目をこすった。すると頭にぽんと大きな手が置かれた。

「目を閉じてリラックスして。大丈夫、すぐ治るよ」

 気が利かなそうなギャルがそんなことを言ってくるとは、よっぽど不安そうな様子に見えているに違いないと布美子は思ったが、実際ガタガタと震えて泣いていたのだから当たり前だ。
 そのまま三十分ほどの間、意外なことに、膝まくらの持ち主は何も話しかけず静かに待っていてくれた。貧血がおさまると、逆に寝ている体勢のほうがつらくなってきたので、布美子は用心しながらゆっくりと頭を起こした。

「ありがとう。もう大丈夫」
「どういたしまして。顔色良くなったね。よかったよかった。……あ、呼ばれてる。私たちの番だよ」

 面接の会場は、劇団本部内の稽古場だった。鏡を前に、七人の審査員たちが机を並べて座っている。その正面に並べられた十個の椅子に受験生たちが座らされ、一人ずつ質疑応答が行われるのだ。
 受験番号四十一番から五十番までが部屋に入った。ポニーテールの子は四十五番で、布美子はその次の四十六番だ。

「受験番号四十五番、なぜ花水木歌劇団に入ろうと思ったか、英語で述べてください」

 布美子はうらやましく思った。この質問は面接でもっともよく聞かれる問題で、この質問が出れば勝ち、と言えるほど模擬試験でも何度も練習してきたからだ。
 だが、ポニーテールの子は困ったように考え込んでしまった。まさか何の準備もしてこなかったのだろうかと布美子が思った瞬間、その子は完全にネイティブな発音の英語で長々と語りだした。
 それは身の上話のようなものだった。



 そのポニーテールの少女は、瑞穂という名前らしい。
 本来は、受験生は番号で呼ばれ、審査員には名前がわからないようになっている。コネを使って裏口入学をする輩を排除するためだ。
 しかし瑞穂は、受験の動機を語る途中で自分の名前を口にしてしまった。

「ニューヨークにいた頃はミュージカルスクールに通っていて、舞台にも出ていました。父の仕事の都合で日本に帰ってきてからは普通の高校に入ったんですが、いじめられたりして学校がとてもつまらなかったので、父に、ここをやめてミュージカルスクールに入りたいと言ったら、こう言われたんです。『瑞穂がミュージカルスクールに行きたいならまずそのつまらない高校を卒業しなくてはならないよ。その努力をする価値はある、なぜなら花水木ミュージカルスクールに入れば日本の代表として世界各国の舞台に立つチャンスがあるんだから』って」

 審査員の知る由もない彼女の父親の真似があまりにも可笑しくて、布美子は噴出しそうなのをこらえるのに必死だった。

「私、花水木歌劇団を見たことがなかったので、父に頼んでチケットをとってもらったんです。それが運悪くこの間の大雪の日で……やっと劇場に着いたときにはもう終わっていました。でも、劇場から出てくるお客さんが、みんなすごく嬉しそうな幸せそうな表情をしていて。大雪で電車に乗るのも大変なのに、嫌な顔ひとつしないで舞台を見に来て大満足して帰っている。そのお客さんたちを見たとき、私もこの舞台で踊りたいと思いました」

 布美子は思わず瑞穂の横顔を見た。この人は結局一度も舞台を見ずに、ただ客の顔を見ただけでこの劇団に入ると決めたのだ。
 ただのバカではないどころか大した伏兵かもしれない。少なくともひやかしの受験生ではないことがわかった。ニューヨークでミュージカルを学んでいて舞台に立った経験もあるというのだから、かなりの実力者ということだ。
 次の質問は、布美子の番だった。

「受験番号四十六番。先ほどの四十五番の話を聞いて、彼女は合格すべきだと思いますか? 日本語で結構です」

 布美子は唾を飲み込んだ。こんな質問の仕方があるとは思わなかった。つまり、瑞穂の流暢な英語の回答が理解できたかどうかを試し、次に、劇団員の適性についてどう理解しているかを試している。

「……私は……彼女は合格すべきだと思います。理由は、ひとつは自分に自信を持っているからです。彼女はすでにアメリカで舞台経験もあって、海外の舞台に立つことを当たり前に目標にしています。それにこの緊張する面接の場で、先生方を前にしても堂々とスピーチしていました。もうひとつは彼女の……お客様の笑顔を見てこの舞台に立ちたいと思った、という言葉です。お客様の笑顔は花水木歌劇団がそのためにこそ存在している目的であり、彼女はそれを本能的に理解しているのだと思います」

 布美子は言葉を切った後、自分でも思いがけない続きを口走っていた。

「それにさっき私が廊下で気分が悪くなってしまったとき、彼女はすぐに気づいて介抱してくれました。こんな人が現場にいたら、皆が働きやすくなると思います」

 瑞穂はびっくりしたような顔で布美子を見ていた。具合が悪いことを知られるまいと強がっていた相手が、自分からそれを審査員にばらしたのだ。それも、ライバルを合格させるために。
 布美子は自分でもなぜそんなことを言ってしまったのかわからなかった。いつの間にか、瑞穂が合格すべき理由を答えなければということに熱くなり、自分自身のことがどこかへいってしまったのだ。

「よくわかりました。では受験番号四十七番……」

 もうだめだ。今年のチャンスは逃げ去ってしまった。いや、つかみかけた合格への鍵を自分から投げ出してしまった。
 受験会場を出て地下鉄の霞ヶ関駅のホームへたどり着いたとたん、布美子は座り込んでしばらく動くことができなかった。
 だから、主席で合格したので入学式で挨拶をしてほしいと事務局から電話がかかってきたとき、いたずらだと思って一方的に切ってしまったのだった。
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