花ものがたり ―梅の章―
【9】



 その日の稽古が終わった後の午後九時過ぎ。
 深夜まで営業している銀座のうどん屋で、井之口は湯気の立つどんぶりを挟んで磯田と向かい合っていた。
 ここまで来るタクシーでの中でも何を話せばいいのかわからず、とにかく逃げたくて仕方がなかった。店の中では脱ぐのが礼儀だとは知っているが、お気に入りの野球帽を目深に被って顔を隠したまま俯いてうどんを箸でかきまぜる。

「……それで、未央は今さらどうしたいわけ? もう十二年も付き合ってるのに」

 ちらっと視線を上げて磯田を見ると、稽古の疲れなどまったく感じさせない生き生きした口調で答えが返ってきた。

「独占したい。夕子の部屋、他の人には掃除させたくない。困ったときに電話するのも私だけにしてほしい。ランチに娘役の作ったお弁当なんて絶対食べさせない」
「……それ、迷惑なんだけど……。今までどおりじゃだめ?」
「今までどおりって?」

 井之口は大きく息を吸い込み、心を強く持てと自分に言い聞かせた。

「未央は、俺にとってはもちろん劇団の先輩だけど、そういうの抜きでいちばん仲良い友達だと思ってるし、家族にも言えないことだって未央になら言えるし……たぶん未央よりお互いのことよく知ってる相手なんて、今までもこれからもいないと思う。それじゃダメなの?」
「親友じゃ物足りないから告白してるんじゃない」

 磯田はそう言って、温かい梅おぼろうどんをつるつるとすすった。こんなときによく食事などできるものだと感心する。井之口は必死だというのに。

「親友と恋人ってどこが違うんだよ」

 磯田は箸をとめてほんの数秒間考えた。

「独占欲と、性欲」
「……それって、なんか、自分勝手……」
「そんなものよ、恋愛なんて」

 簡潔な答えを聞いて、井之口は、磯田がすぐに男と別れる理由がわかったような気がした。お互いがそんな自分本位なもので結ばれている関係など、飽きれば終わる。

「だったら俺、親友がいい」
「どうしてよ」
「未央と別れたりするの嫌だし」

 磯田はびっくりしたような顔をして、すぐに、なぜかテーブルの向こうから両腕を伸ばして井之口の肩を抱こうとしてきた。もちろんその手を払い落とす。

「何だよ、もう……恥ずかしいだろ」

 仕事帰りの遅い食事と酒を楽しむ人々で賑わう店内を気にして、井之口はひそひそ声で叱った。だが、磯田は嬉しそうに目を輝かせて都合のいい解釈をのたまうだけだ。

「だって、夕子も私とずっと一緒にいたいって思ってくれてるってことでしょ」
「まあそうだけど……」
「じゃ、とりあえず夕子の家に一緒に住んでもいい?」
「え?」

 井之口はさすがに面くらった。話が飛びすぎている。
 磯田は、全寮制である養成所の二年間を除いてずっと杉並区の実家で暮らしている。養成所時代、北海道の地元から一人で出てきていた井之口は、よく週末に磯田の実家に遊びに行っていた。磯田の家族は井之口のことをまるで本当の娘のように可愛がってくれたものだ。

「家、出るってこと?」

磯田は、とろろ昆布の絡んだ細麺を一口すすって飲み込んだ。

「うん。実は兄貴が結婚することになって、同居するって言うから。義理の両親のほかに小姑までいたらお嫁さん可哀想でしょ」
「和己さん結婚するんだ。おめでとう。確かに未央が小姑って大変そう……」

 言いかけて井之口はふと我に返った。懐かしさについ反応してしまったが、大事なのはそこではない。磯田が家を出ることなどどうでもいいのであって、問題は、井之口の家に引っ越してくるということなのだ。『とりあえず』と言ってはいるが、一度暮らし始めたら簡単には出ていかないであろうことは想像できる。

「大変って何よ、私と同居するといいことばっかりじゃない。掃除はしてあげるし、料理だって得意だし、洗濯もしてあげるよ。ねえ、明日から夕子の家行ってもいい?」
「明日って……」

 つい昨日まで片思いに悩んでいたはずなのに、いつのまにか立場は逆転し、押しかけ女房されそうになっている。磯田がどれくらい本気なのかはわからないが、少なくとも、胸の痛みにただ悶々としている自分よりは覚悟が決まっているようだ。
 甘いかもしれないとわかっていたが、井之口は仕方なく受け入れてしまった。だって、好きなのだ。

「……ちゃんとした引っ越し先が見つかるまでの間だけなら。ただし人は連れ込まないこと」
「当たり前じゃない! まだ信じてくれてないの?」
「それと、寝るのはリビングで」
「えー、夕子のベッドでいいじゃん」
「……磯田さん、調子に乗らないでください」

 本気で凄みをきかせてみたが、磯田はまったく感じていないようだった。

「乗っちゃうよ。だって夕子も私のこと好きなんでしょ」

 顔を覗き込まれて、井之口は慌てて目を伏せ、聞こえるか聞こえないかの声でぶっきらぼうに答えた。

「別にそんなの、今までと一緒だよ」
「ふうん」

 磯田はなんだか嬉しそうにニヤニヤとしている。ここでいい気にさせてはいけない、と井之口は焦った。はっきり拒否できないという弱みがすでにばれてしまっている。

「だいたい、突然そういうこと言い出すって意味わかんないんだけど。未央、女は好きじゃなかったんだろ。なんで急に変わっちゃったの?」

 キャップの下から上目づかいに尋ねると、磯田は平然と言った。

「急にじゃないよ。最初から好きだったもん、夕子のこと」
「最初って……」
「養成所の入学式の日。十一年前かな」

 井之口は耳を疑った。自分も同じだったからだ。

「でもそんなの全然そぶりにも出さなかったじゃん」
「気づいてなかったんだもん、自分の気持ちに。だけど、今思えば夕子はずっと私の特別だった。夕子にはずっと恋人とかいなかったから私だけのものだって勝手に思ってたし……」

 頬杖をついてじっとこちらを見つめてくる磯田の目は、憎らしいほど冷静だ。

「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、あの夜に初めて確信したの。私、夕子のことがそういう意味で好きなんだって」

 なんと、これもまた井之口とまったく同じだ。
 初対面のときからお互いに特別な存在になり、その恋心が十一年間気づかれないまま熟成されて、ある夜を境に二人同時に目覚める。こんな絵に描いたようなロマンチックな恋愛の当事者になってしまったことを、井之口はとりあえず否定することしかできなかった。

「全然わかんない」
「本当にわかんないの? 顔、真っ赤だよ。さっきからうどん一口も食べてないし」
「うるっさいなぁ……」

 井之口は、どんぶりの中に赤くなった顔をうずめて、二、三本のうどんをようやくすすり始めた。

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