花ものがたり ―梅の章―
【10】



 『明日から夕子の家行ってもいい?』と磯田に聞かれたものの、まさか翌日には来るまいと高をくくっていた井之口だったが、夜遅くに鳴るはずのないインターホンが鳴って、そのまさかが現実になったことを知った。

「夕子、ただいま」
「何がただいまだよ……」

 呆れながらも、大きなトランクを運ぶのをつい手伝ってしまうのは後輩の性というものだ。
 磯田は海外ツアー用のトランクに当座必要なだけの荷物を詰めて持ってきたらしい。いつもそのトランク一つで一か月間の旅公演をこなしているので、それがあれば井之口の家で一か月は暮らせると計算したのだろう。そういえば荷造りの早さも昔から誰よりも早かった。
 リビングに運び込んだトランクを開けて洗面道具や寝間着を探し始めた磯田を横目に、井之口は先に風呂に入った。本当なら先輩にお先にどうぞと言うところだろうが、押しかけて居候する気満々の相手にそこまでしてやる気にはなれない。
 風呂から上がって短い髪を乾かし、水でも飲もうとリビングに入ると、磯田はトランクの中から毛布を出して三人掛けのソファの上に掛け布団のように広げていた。頭と足をひじかけに置いて女一人寝ようと思えば寝られる大きさの革張りのソファだが、ベッドとして使うようには作られていない。

「未央、本当にそこで寝る気? 疲れ取れないよ。それにそんな毛布一枚じゃ風邪ひくって」
「大丈夫、旅で慣れてるから」

 海外公演ではよく受け入れ側の手違いでホテルの部屋数が足りないことがあった。そんなとき、部屋にあぶれた若手たちは、先輩の部屋のソファで寝ていたのだ。
 そうは言ってもここは海外でもなくホテルでもない。薄い壁を隔てた隣の寝室には、セミダブルのちゃんとしたベッドがあるのだ。
 井之口は溜息をついた。

「いいよ、ベッドで寝ても。変なことしないって約束するなら」

 黒いベロアの部屋着に着替えた磯田は、髪を後ろでひとつに束ねながら、井之口をじっと見た。

「そんなこと口で約束させても意味ないと思わない?」

 その言葉を聞いて井之口は絶句した。磯田は本当に約束を無視する気だ。目がそう物語っている。
 この十一年間、磯田のことを信じて裏切られたことは一度もなかった。それなのに、突然襲われたあの夜から、磯田は井之口の大好きだった先輩とは少し違う人になってしまったように感じる。
 こみ上げる寂しさと悔しさで、井之口の言葉は途切れ途切れになってしまった。

「……未央と……今までみたいに、もう、一緒に寝られないの……?」
「夕子……」
「この間は二度としないって言ったくせに……」
「あれは許してほしかったから言ったに決まってるでしょ」

 磯田はソファに座ったまま困ったような顔で見上げてくる。
 嘘も方便ということがわからなかっただけか、と井之口は自分で自分を嘲った。そんな言葉に傷ついていたことが馬鹿らしい。
 自分の家にいるというのに井之口は身の置き所がどこにもないように感じた。このまま壁際にじりじりと追い詰められ、結局は磯田の思い通りにされてしまいそうだった。もうこの変化を受け入れるしかないのだという予感がする。井之口はまだまったく心の準備ができていないというのに。
 身動きもできずに立ち尽くしていると、磯田が立ち上がって肩に手を伸ばしてきた。

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。夕子にはもっといろいろ教えてあげたいな」
「変態! 出てけよ! 未央なんて嫌いだ!」

 気づいたときには、肩に触れた手を振り払って反射的に叫んでしまっていた。
 しかし、磯田の顔が苦痛を覚えたように歪んだのを見て、すぐに後悔した。

「夕子。私がどんなに君に弱いか知ってる?」
「……ごめん……」

 本当は磯田が好きで、同居を一日で解消するつもりもないのに、どうしてこんなことになってしまったのか自分でもよくわからない。
 途方にくれて足元を見つめていた井之口の頭に、暖かい手のひらが優しく置かれた。

「もう遅いから一緒に寝よう。……そんな泣きそうな顔しないの。夕子が嫌がることするわけないじゃない」

 井之口は思わず相手の顔を見上げた。やっぱり磯田は磯田だ。
 変わってしまったと思ったのは、これまで見たことのない磯田の姿を見てしまったからなのかもしれない。今自分に向けられている、包み込まれるような声も、清冽で真っ直ぐな視線も、井之口が一目惚れしたあのときのままだ。
 嬉しくて、自然に顔がほころんでしまう。

「……未央、大好き」
「はいはい」

 磯田は長い溜息をつきながら、湯冷めするよ、と毛布で井之口の肩をくるんでくれた。
 磯田の匂いのするやわらかな毛布に包まれて、井之口は、甘えすぎだとわかっていても、もうこのぬくもりを手放せなくなっているのを感じていた。

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