花ものがたり ―梅の章―
【8】



 十月になり、国立銀座歌劇場で行われる梅団本公演の稽古が始まった。ダブルトップ制になって以降は二手に分かれて公演することが多かった梅団にとって、久しぶりに全員集合する舞台ということもあり、稽古場はいつも以上の活気にあふれている。
 その稽古の休憩時間、井之口は本部ビルの屋上に出ていた。
 養成所の生徒だったころからこの場所は井之口のお気に入りで、真冬でも通っていたほどたった。屋上へ出るにはわざわざ管理事務所まで鍵をもらいに行かなければならず、その面倒を嫌ってめったに人が来ない。先客がいる場合は鍵が借りられているのですぐにわかる。寮の自室でさえ二人部屋という養成所生活では、一人になれる静かな空間はここしかなかったのだ。
 気温は低めだが、良く晴れて風もないのでそれほど寒さは感じない。井之口はゆっくりと深呼吸をし、アスファルトの床に座り込んで空を見上げた。
 稽古が始まれば毎日磯田と顔を合わせることになるのが不安だったが、実際に稽古場に来ると思ったほど気にはならなかった。長年の習慣とはたいしたもので、稽古場の張りつめた空気が平常心でいることを助けてくれる。
 トップとしてセンターポジションに立つ磯田の放つオーラは、スポットライトも何もない傷だらけの床の稽古場ですら圧倒的に輝いていた。井之口はそんなカリスマと同じ立場に並び立つプレッシャーを改めてひしひしと感じながら全力で踊り、歌った。仕事中はこうやって磯田のことを純粋に尊敬し、誇らしい気持ちで迷いなく隣にいることができるのに、プライベートになるととたんに難しくなってしまうのはなぜだろう。
 磯田はあいかわらず優しい。変わってしまったのは自分の心なのだ。
 だがそうは言っても、勝手に人を抱いておいて、しかも初めての恋に気付かせておいて、『ごめん、今までみたいに遊びに来てもいい?』だなんて身勝手すぎるにも程があるような気がする。
 磯田のことを考え始めただけで頭痛がぶり返し、井之口は抱えたジャージの膝に額を押し付けた。
 そのとき、ドアの開く音がして話し声が聞こえてきた。

「だからごめんって謝ってるじゃない。……それは言えないよ、他人のプライバシーに関わることだから。……言えないものは言えないんだってば。もちろん反省してるよ、本当に私が悪かったって。埋め合わせするから……ああ、今度の週末は劇団の慰安旅行だから休むわけにいかないの、ごめん。え、二月? 二月はツアーだよ」

 話し声が近づいてきたので井之口は焦って給水塔の影に隠れた。頭痛どころではなく動悸までしてくる。携帯電話を片手に話しているその声はまさしくたった今考えていた相手のものだ。そして電話の相手は彼氏にちがいない。

「はあ? 夕子にそんなことさせられるわけないじゃない! 私よりずっとか弱いんだよ。それにドサ回りって何? 日本全国の人が税金払ってるんだからどの地方に住んでいても花水木歌劇団見る権利は平等にあるの。あなた本当は私の仕事のこと馬鹿にしてるんじゃないの?」

 話の内容に自分の名前が出てきたので、井之口の心臓はますます激しく脈打った。最初は相手に謝っていた磯田だが、今は明らかに怒っているようだ。

「……ええそうよ、わからずやのあなたより夕子のほうがずーっと大事なの! そう、ご想像のとおり。彼女絡みでドタキャンしたのよ。私にとっていちばん大切な人だから。……いいよ。あなたと電話するの、もううんざり。二度と掛けてこないでね。バイバイ」

 ケンカの勢いとはいえ『いちばん大切な人』などとは言い過ぎではないか。話の流れから察するに磯田はなんと井之口が原因で彼氏と別れてしまったようだ。あまりの急展開に出て行くきっかけを失っていると、磯田の声がした。

「夕子、いるんでしょ?」
「……俺じゃなかったらどうするつもりだったんだよ」

 いくら屋上に来る人が少ないといっても、たまたま居合わせた誰かに聞かれては危険すぎる会話だ。
 しかし磯田は姿を現した井之口を見て自信たっぷりに微笑んだ。

「絶対夕子だってわかってたもん」
「なんで」
「夕子が私から逃げようとして行くところっていったらここしかないし」

 避けていることなどお見通しだったようだ。磯田は携帯をグレーのジャケットの胸ポケットに入れながらこちらへ近づいてくる。井之口は下界の景色を見ているふりをしてさりげなく後ずさった。

「ねえ、夕子、聞いてたんでしょ」
「彼氏大事にしろよ」
「そうじゃなくて……」
「可哀想だろ、あんまりほったらかしにしちゃ。未央みたいな女王様に付き合ってくれてんだから少しは感謝しなよ」

 相手に背を向けて片手でフェンスを掴む。皇居の濃い緑と紅葉とのコントラストが午後の日を受けて美しく映えているのを一生懸命眺めていると、不意に後ろから二本の腕が伸びてきて、その腕の間にガシャンと閉じ込められた。

「未央……」
「私、付き合ってる男にはいつもワガママばっかり言ってきたけど、なぜか夕子に対してはめちゃくちゃ尽くす女になっちゃうんだよね。どんなことでも叶えてあげたいし、幸せにしたいし、笑顔でいてほしいし」

 そんなことを耳元で言われたら、もう笑うしかなかった。

「その気持ち、恋人に対して持つべきだろ」
「うん……。ねえ、気づかないかな?」

 磯田のワンレングスのストレートの毛先が井之口の首筋をくすぐるほどに近くに顔を寄せられ、井之口はぶるぶると犬のように首を振った。

「何すんだよ気色悪い」
「私、夕子のこと好きなんだけど」

 あまりにもストレートな言葉に井之口の心拍数も体温も一気に上り詰めてしまった。
 しかし、一緒にいた時間が長いだけにわかることもある。仕事がどんなに忙しかろうと、磯田は今まで男なしで生きていた時期がないのだ。いつどこで知り合っているのだろうと不思議になるくらい、芸能人や医者や弁護士や高級官僚などの人種の男を自分のしもべにしている。そんな磯田が女に恋するなどということが、まともに考えて、あるはずがない。

「知ってるよ」

 井之口は、もうどうやっても誤魔化すことができない自分の恋心にぬか喜びさせまいと頑張った。だが磯田はおかまいなしにストレートを重ねてくる。

「そういう意味じゃなくて、恋人になってほしいってこと。……もしかして、夕子、この間の……遊びでやったと思ってる?」
「……遊びっていうか……未央にとってはそうするべきだったんだろ」

 真っ赤な顔で精一杯の皮肉を言うと、磯田はフェンスから手を離し、その両の手のひらをぴたりと合わせた。

「ごめん! そうするべき、とか、夕子のためっていうのは実は言い訳なんだ」
「言い訳……?」
「あの夜の夕子、髪切りたてでもう犯罪的に可愛くなってたじゃない? しかも上野ちゃんの話なんかするから妬けちゃって……まだ誰のものにもなってないってわかったとき、これは奇跡だ、私のために神様が与えてくれたチャンスだって思って、自分を抑えきれなかったの」

 どうしてそんなことをまっすぐに人の目を見つめたまま言えるのだろうか。それが磯田と自分の違いなのだと井之口は思った。磯田は相手が男であろうと女であろうと人を好きになることにまったくためらいがない。しかし井之口は自分の気持ちを認めることさえ恐ろしいのだ。

「稽古終わってからにして。集中途切れる」

 ようやくそれだけ小さな声で言い返し、腕の時計を見ながら屋上の出口へ向かって歩き出すと、磯田の声が追いかけてきた。

「最初から、ちゃんと責任取るつもりだったんだからね!」
「…………」

 本当の気持ちを隠したままこの女を巧くあしらうことなど自分にはとてもできそうにない、と井之口は半ば諦めのうちに悟った。

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