花ものがたり ―梅の章―
【7】



 やっとのことで磯田を追い出した後、井之口は丸二日間ベッドに籠城してマンションのインターホンにも電話にも居留守を決め込み、三日目の朝十時ごろにやっと起き出した。
 九月末から十月上旬にかけて梅団の団員に一週間の遅い夏休みが与えられていたのはせめてもの幸いだった。磯田のせいで井之口の心と体は最悪の状況に陥っており、何事もなかったように稽古に集中することなどとてもできなかっただろう。
 だが、たとえ仕事は休みでも、花水木歌劇団のトップの一人であるからには、いつまでもだらだらと寝ているわけにはいかない。定期的にメンテナンスしてもらっている歯科に行って、服も買いに行って、ついでにボイストレーニングも受けたいところだ。
シャワーを浴びて着替えた後、今日はとりあえず何をしようかと考えながら歯磨きをしていると、客の来訪を告げるインターホンが鳴った。

「しつこい、マジで……」

 昨日も一昨日も朝昼晩と何度も鳴らされたのだ。
 磯田はこの休暇に彼氏と海外旅行へ行く予定だと井之口に自慢していたのに、どういうわけか、どこへも行かずに井之口のマンションに通いづめでストーカーまがいの行為をしている。井之口は、彼氏が磯田を世界の果てに連れ去ってくれればいいのにと念じながら、憂鬱な気持ちで受話器を取った。
 だが、井之口の予想に反して、モニターに映ったのは、ショートボブにカチューシャをつけた小さな頭だった。

『皐月です、来ちゃいました! 今、お邪魔しても大丈夫ですか?』

 元気よく名乗った後にすぐ心配そうに気を遣うところが上野らしい。井之口は思わず微笑んだ。

「どうぞ。今開ける」

 ダイニングテーブルにちょこんと座った上野は、カウンターに立ってコーヒーを淹れる井之口を見つめながら少しだけ首をかしげた。

「今日の夕子さん、なんだかいつもと違う気がする……」
「髪切ったからじゃなくて?」
「それもあるんですけど、それだけじゃなくて……何でかなぁ」

 井之口は、もしかして磯田との出来事に勘づかれたのではないかと気が気でなくなった。冷静に考えればありえないことなのだが、心にやましいことがあるのでつい考えがそちらへ向かってしまう。

「あ、わかった!」

 井之口は早くなった心臓のリズムに気づかれないよう目を伏せて平静を装った。

「何?」
「今日、ブラジャーしてる、でしょ?」
「ああ……」

 井之口はホッとして、溜息を誤魔化すために笑った。そういえば、普通のブラジャーをつけて上野に会ったことはないかもしれない。胸を潰すのは舞台だけにしろといくら磯田に怒られても、具合の悪いとき以外は普段から男装を貫いていたからだ。今日のような日は、本当にめったにない日なのだ。

「休みだし、たまにはね」
「素敵です」
「ありがと」

 気恥ずかしくて少しぶっきらぼうに答えながら、淹れたてのコーヒーを上野に渡したとたん、インターホンが鳴った。
 今度こそ磯田に違いない。
 井之口は溜息を押し殺しながら、上野の視線を気にしつつ受話器を取った。

「はい」
『夕子? よかった、いてくれて! 大丈夫? 具合どう?』
「どなたですか」
『もう……。とりあえずここ開けてよ、夕子の好きなかぼちゃのスープ作ってきたの』
「うちはけっこうです」
『そんなこと言わないでよ、訪問販売じゃないんだから』
「今、人が来てるので帰ってください」

 井之口はそう言うと有無を言わさず受話器をがちゃりと置いた。
 たったこれだけ磯田の声を聞いただけでも、頭に血が上って動悸がする。実際に会ったらどうなってしまうのか見当もつかない。
 井之口が力なくダイニングの椅子に腰かけてコーヒーのマグに鼻をうずめると、上野が心配そうに話しかけてきた。

「今の訪問販売ですか? 一人暮らしなのに嫌ですよねぇ。ああいうのはキッパリ断って無視するのがいちばんです」
「ずっと無視してるんだけどね……」

 そのとたん、再びインターホンが鳴った。井之口が在宅していると知って磯田があきらめきれずに押したのだろう。
 またか、と井之口がマグを置いたとたん、上野がすぱっと立ちあがって素早く受話器を取ってしまった。

「しつこいですよ、お断りしたでしょ、もう来ないでください! ……え? 嘘、未央さん?」

 モニターに向かって慌てて謝りまくる上野を見て、井之口はどうしたらいいだろうと途方にくれた。

「夕子さん、未央さんですよ。鍵開けていいですか?」
「……うん……」

 磯田との関係は普段どおりだと上野に思わせるために、井之口は頷くしかなかった。
 だが、三人でダイニングテーブルを囲むと、井之口はいよいよ具合の悪さに耐えきれなくなってきた。ただでさえこの二日間ろくに物を食べていないこともあり、視界がゆらゆらとする。

「上野ちゃん、夕子の家掃除してくれてるんだって? ありがとうね」
「いえ、ほんとにたまになんです。夕子さんが誘ってくださったときだけ……」
「今日も?」
「あ、いえ、今日は押しかけちゃいました」
「へえ、熱々だね」

 えへへ、と照れたように笑う上野に、磯田がちらりとこちらを見ながら調子を合せるのが見ていられない。

「……ごめん、二人とも……ちょっと今日、頭痛いから、帰ってくれない?」

 井之口はついに音を上げた。二人がじっと心配そうに井之口を見つめるのもいたたまれなくて、つい怒ったような口調になってしまう。

「しばらく一人で静かにしてたら治るから」

 上野はすぐに席を立って、お邪魔しました、お大事にと笑顔で帰っていった。井之口は上野のこういうあっさりとして気の利いたところが好きだった。もうひとりの訪問者とは真逆の。

「夕子、大丈夫? 横になる? 私薬持ってるから、我慢しないで飲んだほうがいいよ」
「いらない、帰って」

 頭痛の原因はお前だ、という言葉は心の中で言うにとどめて、井之口はテーブルの上にうつ伏せた。固く冷たい木の天板が熱のこもった額を冷やしてくれる。

「未央のこと許したわけじゃないから」

 本当は許すだの許さないだのと思ってはいなかったが、井之口はもうそう言うことでしか磯田を拒めなかった。

「ごめん、ほんとに。あんなことするつもりじゃなかったの。自分でもなぜだかわからないけど、どうしても今、私がそうしなきゃいけないって思い込んじゃって。怖い思いさせてごめんね。もう絶対、二度としないって約束するから……また今までみたいに遊びに来てもいい……?」

 磯田の口から出た「二度としない」という言葉に、井之口は呆然とした。そして同時に、無意識に磯田との関係が続くことを期待していたのに気づいてしまった。
恥ずかしくて、テーブルにうつ伏せた顔を上げられない。
 井之口には、そんなつもりもなかったのにもののはずみで一度だけ人を抱くということが理解できなかった。芝居の役柄ではそんな男も演じることがあったかもしれないが、少なくとも磯田が自分をそうする理由はわからないし、わかりたくもない。

「悪いけど……未央と二人になりたくない」
「……そうだよね、ごめん。もう帰るね。スープ、ここに置いとくから」

 ほどなく磯田がそっとリビングルームの扉を閉める音がした。
 その音を聞いた瞬間、急に寂しくてたまらなくなった。

「……未央!」

 理性で考えれば、磯田に甘えることなどできるわけがなかった。でも行ってほしくない。
 たとえあの行為が磯田にとっては何の意味もなかったとしても、井之口のほうは確かに変わってしまったのだ。
 磯田はすぐにリビングルームに引き返してきた。微熱で赤くなった井之口の顔を覗き込んでくる。

「どうしたの? 夕子」
「……スープ飲みたい」
「わかった。ちょっと待ってて、温めるから」

 井之口は、嬉しそうな磯田の笑顔の眩しさに、思わずまたテーブルに突っ伏してしまった。

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