花ものがたり ―梅の章―
【6】



 上野とのデートから半月が過ぎ、九月公演が千秋楽を迎えた翌日の夜。

「夕子、どうしたのその頭!」

 マンションの部屋のドアを開けるなり、磯田は井之口に飛びついてきて、いがぐりのような刈上げのブラウンヘアを撫でまわした。くすぐったさに首をすくめながらも、約一か月ぶりのじゃれあいに心が和む。

「やめろよ! 乱れるだろ」
「こんなに短かったら乱れるも何もないじゃない。随分派手にやっちゃったね」
「次の作品、軍隊物だから、役作り。未央は髪切らないの?」
「……ん? ああ、切らないよ。ちょんまげに結うつもり」

 磯田は井之口の頭を観察するのに没頭するあまり、ブーツも脱がずに玄関先で立ちっぱなしだった。
 井之口自身は思ってもみなかったが、この髪型は井之口がやるとインパクトが強すぎる。すらりとした白いうなじや削ぎ落とされた顎の線がくっきりと露わになって、顔のパーツが引き立ち、要するに頭は完全に男の子仕様なのに可愛らしさはぐっと強調されてしまうのだ。

「靴、脱げば? お風呂も入りたかったらどうぞ」
「ありがとう。……あれ? 珍しく片付いてるじゃない!」

 開いているドアから寝室をちらりと覗いて、磯田が驚いた。
 井之口主演の赤坂小劇場の千秋楽が終わり、磯田の率いるツアー組が東京に戻ってきてからまだ一日しかたっていない。公演中は家事をいっさいやらない井之口の家は、この時期になると散らかり放題の無法地帯と化すのだが、今日は少し違った。

「うん。何回か皐月が来て、片付けていってくれたから」
「へえ! 夕子、上野ちゃんと付き合ってるの?」

 最近いちばん悩んでいることを聞かれ、井之口はむっとした。

「なんでそんなこと聞くんだよ、関係ないじゃん」
「いいじゃない、別にそのくらい教えてくれたって。コンビが仲良いのはいいことだと思うよ」

 能天気な磯田の言い方にさらに神経を逆撫でされ、井之口はわざと答えないままダイニングに入った。
 ダイニングももちろん片付けられていて、上野が来たときのために買い置きしてあるワインやつまみも、すぐに出せる状態になっている。
 井之口がグラスとボトルをテーブルに並べると、磯田はにやにやと笑った。

「夕子の家に来てこんなにもてなしてもらったの初めてかも。恋は夕子をも変えるのか」
「……恋、なのかな……」

 溜息と一緒についぽろりと出てしまった愚痴を、磯田が聞き逃すはずはなかった。

「上野ちゃんと何かあったの? ケンカ?」
「ううん、別に」

 本当の恋とは何なのかわからない、などという恥ずかしい悩みを知られたくなくて、井之口は軽い口ぶりで誤魔化した。しかし磯田は突っ込んでくる。

「相手役さんなんだから私生活のわだかまり残しちゃだめだよ。仕事しづらくなったら娘役の上野ちゃんのほうが苦労するんだからね」
「だから、別にそんなんじゃないって」
「じゃあ何なの? さっきの溜息は」

 磯田の強い視線に責められ、井之口は言葉を選びながら答えるしかなかった。

「ケンカとかじゃないし順調だけど……、皐月はすごい純粋に思ってくれてるのに、俺、同じようには気持ち返せなくて。もう付き合って四か月もたってるのに何も進展ないし、このままでいいのかなとかいろいろ考えちゃってさ。まあ、皐月は楽しそうにしてくれてるけど」

 磯田はグラスにワインを注ごうとした手を止め、あっけにとられた様子で井之口を見つめていた。

「それって……夕子は、同性愛者でもないのに女の子と付き合ってるの?」

 身も蓋もない言い方だが、事実はまさに磯田の言うとおりだ。
 井之口は黙って目を逸らし、磯田の手からボトルを奪って二つのグラスに赤ワインを注いだ。この気まずい雰囲気から逃れるために一刻も早くアルコールが飲みたい。
 だが、磯田は急にお説教モードのスイッチが入ってしまったようだった。先輩に怒られているときに飲むわけにもいかず、井之口は両手を膝に置いてうつむいた。

「そんなの今すぐやめなさい! 自分も相手も騙してることになるんだよ? お互いに傷つくだけでしょ」
「やめてどうすんの? 男と付き合って結婚しろとか? そんなことしたら完全に女になっちゃうじゃん」

 上目づかいに先輩を睨んで口答えした井之口に、磯田は美しい眉をひそめて大きな溜息をついた。

「何を言ってるの、夕子は女の子でしょ」
「男役だよ! 今さらそれ以外になれるかよ」

 力いっぱい目を背け続けていた真実を当たり前のように指摘され、井之口は一気に頭に血が昇った。
 こうありたいと思う自分と現実との差に十二年間苦しみ続けた挙句、もう、本来の目的や理想が何であったかも忘れるほど、心も身体感覚もぐちゃぐちゃに絡まってほどけなくなってしまった。男が好きなのか女が好きなのかもわからないし、目の前にいる告白してくれた子が好きなのかもわからない。誰と何がしたいのかもわからない。

「……じゃあもしかして、夕子、一度も、誰とも、本気で付き合ったことないの?」
「どうでもいいだろ! 未央には関係ないし……」

 眉根を寄せたまま井之口を見つめていた磯田は、突然グラスを取って、注がれていた赤ワインを一息に飲み干した。
 そして椅子から立ち上がると、あっという間に井之口の体を両腕に抱え上げた。

「舞より軽い」
「未央! ちょっと、何すんだよ!」

 急に空中高く抱きあげられ、不安定な態勢と、意志に関係なく連れ去られることへの恐怖で、井之口は足をばたつかせた。
 だが、磯田のこの言葉で、暴れることさえもできなくなった。

「目をつぶって。何も考えないで。……私が、元の夕子に戻してあげる」

*    *    *    *    *

「離せよ!」

 不安にかられて叫んでも、自分を抱きかかえた相手は一言も答えない。磯田は井之口を抱いたまま寝室のドアを足で蹴り開けた。馴染みの自分のベッドの上に寝かされたと思ったとたん、体重以上の力で抑えつけられる。

「未央……んっ……」

 いきなりのディープキスだった。あまりの激しさに乾燥した唇が切れそうになる。
 やめろと言いたくても声すら出せず、井之口は、早くこの苦しみが終わるようにとひたすら念じた。
 井之口の脳裏に十二年前の出来事がよみがえる。
 主席入学で同期生の代表だった井之口は、入学式が終わった直後、上級生に生活指導という名目の呼び出しを受け、寮の部屋に軟禁された。下着一枚になるまで脱がされたところへ、磯田がドアを壊して飛び込んできたのだ。
 優しくて強い、年下の先輩。信じられる唯一の人だった。
 いつも井之口を守ってくれたその人はいったいどこへ消えてしまったのか。呼吸と心の苦しさで目じりから涙が零れる。
 抵抗をやめると、抑えつけられていた力が緩くなり、井之口はやっと息をつくことができた。
 だがほっとしたのもつかの間、磯田の手は井之口のジーンズのボタンとチャックを瞬く間に外し、下着ごと引き下ろした。
 そのときになって、井之口はやっと磯田が何をしようとしているかに気付いた。

「……未央、なんで……」

掠れる声をやっと出したのに、その問いへの答えはない。

「怖くないからね。私に任せて」

 ものすごく理屈に合わないことを言われているのはわかっていたが、井之口はもう逆らう気力をなくしていた。抵抗すると人が変わったような恐ろしい力で抑えつけられるので、怖くて身動きできないのだ。着ていたTシャツもその下のタンクトップも、まるで母親が子供を着替えさせるように手際よく脱がされていく。この慣れきった手つきは本当に磯田のものなのだろうか。
 どうして。嫌だ。やめろ。やめて、お願い……。
 胸の中に渦巻く言葉は喉をしめつけられたように全く出て来ず、代わりに、とめどなく涙が流れ出す。

「夕子、大丈夫だから落ち着いて。そんなに泣かないで……」

 頬にぽろぽろ零れ落ちる液体を唇で吸い取り、背中をさすってくれるのは、昔から知っている優しい先輩だ。
 柔らかな唇が吐息とともに優しく首筋に触れ、大丈夫、とその唇が肌の上で囁く。
 何が大丈夫なのだかまったくわからない状況の中で、井之口は少し安心した。触れているのは磯田の手と唇。そう思えば大したことはない。
 安心しかけたとたん、その手は悪魔のように体を這い上がった。ぞくりとする感覚が羞恥心に火をつける。
 やっぱりダメだ、耐えられない。
 跳ね返る井之口の体に磯田の熱い体が絡みつき、容赦なく抑えつけた。
 ――初めて会ったときから、磯田が好きだった。そんなことに、今、このタイミングで気付いてしまうとは。

*    *    *    *    *

「刺激で出血するかもしれないから、何か当てとこうね」

 こんなときでもいつものマメさを発揮してベッドから起き上がろうとした磯田の腕を、井之口は無意識に掴んでいた。
 磯田の理不尽さには納得いかないが、それでも今は傍にいてほしい。体が自分のものではないように頼りなく、鈍い疼きの中に溶けてしまいそうだ。
 磯田は、腕を掴む動きだけですべてを察し、そっと井之口の瘠せ細った体を抱きしめてくれた。
 その温かさに、必死で抑えようとしていた感情がどうしようもなく溢れ出す。
 男になろうと十二年間血の滲むような努力をしてきた心も体も、抱くより抱かれるようにできているということを思い知らされ、井之口はただ苦しくて、磯田の胸の中でぼろぼろと泣いた。

「大丈夫?」

 自分であんなことをしておいて、磯田は心配そうに聞いてくる。
 石鹸とかすかな煙草の混じった慣れ親しんだ香りに包まれ、涙を落ち着かせるように優しく背中を叩かれていると、このまま際限なく甘えてしまいたい気持ちになってしまう。
 が、それだけは駄目だ、と、井之口は気力を振り絞って磯田の腕を振りほどき、ベッドを抜け出した。

「夕子、どうしたの?」
「来るな」

 バスルームへ逃げ込んで覗き込んだ鏡には、泣きすぎたひどい顔が映っていた。しかも、もともと欝血しやすい白い皮膚の上にはところどころに赤い跡が残っている。

「未央のバカ……」

 今は千秋楽の後だからいいが、公演中だったらこれを全部隠すのは大変だ。
 鏡を見ながらどこに跡が付けられたか確認していると、不意にとろりと脚を伝うものの感触に気づき、直後に殴られたような腹痛が襲ってきた。
 数年ぶりの感覚に、回らない頭でどうすればいいか考えた結果、以前、衝動的に生理用品をすべて捨ててしまったことを思い出した。

「……ったく、どうしてくれるんだよ……」

 磯田は本当に井之口を女に戻してしまったらしい。
 みっともない自分をすべて洗い流してしまおうと、井之口はシャワーの栓を勢いよくひねった。


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