花ものがたり ―梅の章―
【5】




「それでは、カンパーイ!」
「乾杯、お疲れ」

 手土産のワインを開けて、二人はグラスをかちりと合わせた。
 麻のギンガムチェックのテーブルクロスがかけられた食卓の上には、手作りのグラタンとロールキャベツが並んでいる。
 九月中旬、夏から秋へ移り変わる途中の、よく晴れた日曜日の夜。
 赤坂小劇場で公演中のダンスショーも、明日の月曜日は休演日だ。
 梅団のダブルトップの片割れに就任した井之口夕子は、相手役の上野皐月(うえの さつき)のマンションに招かれていた。
 キャリアが二年しか違わないことや、相手役になる前からよく組んでいたこともあって、それまでもオフには二人で食事に行ったり遊びに出かけたりしていたのだが、自宅を訪ねるのは初めてだ。

「一人暮らしなのに、よくこんなに綺麗にしてるよな」

 井之口は感心して小さな上野のマンションの部屋を眺めた。
 白い壁と薄い木の色でナチュラルな雰囲気に統一された室内には、上野の趣味の編みぐるみとミニ観葉植物がところどころに飾られ、その飾りを邪魔しないように生活感のある物はすべて見えないところにしまわれている。娘役だからアクセサリーなどの小物がたくさんあるはずなのに、この小さな部屋のどこに収納しているのか、雑多な感じはまったくしなかった。

「ふっふっふ。夕子さんがいらっしゃるから一生懸命掃除したんです。カーテンも替えちゃいました」
「えっカーテンまで? じゃあ普段はもっと散らかってんの? あ、おいしい」

 終演後に一緒にこの家に帰ってきて、それからすぐにオーブンで焼いたグラタンは、なかなかの味だった。上野が料理をするというのは聞いていたが食べるのは初めてだ。
 上野は心から嬉しそうにニッコリと笑った。
 顎のラインぎりぎりのショートボブにつり気味の大きな瞳が印象的な上野は、その可愛らしさと明るく快活な雰囲気がファンに大人気の娘役だ。磯田がなぜ初めから上野を自分の相手役にせず井之口に譲るつもりだったのか、いまだに井之口にはよくわからない。付き合っているといってもよくある男役と女役の恋人ごっこで、仕事に差し障るほど深い関係ではないことぐらいわかっているはずなのに。

「もう夕子さんったら。普段もそんなには散らかしてない……つもりです。あの、よかったらロールキャベツも召し上がってくださいね? 母に教わった自信作なんです」
「うん、食べる食べる。すごいよね、皐月は……掃除も編み物も料理もできて。いつでもお嫁に行けるじゃん」

 井之口がそうからかうと、上野は薄いピンクの頬を膨らませて可愛らしく唇を尖らせた。

「夕子さんまでそんなこと言わないでください。ああ、夕子さんみたいな男の人がいたらすぐ結婚するのになぁ」
「いないよ!」

 自信たっぷりの即答に、二人して噴き出した。
 酒が好きということが二人の共通点だ。食事をしながらワインを一本開けた後、冷蔵庫で冷やしていたデザートワインを開け、結局ボトル二本分を飲みきった。

「皐月。寝ちゃった?」

 二人掛けの小さなソファで並んでテレビの深夜番組を見ているうちに、上野の体は井之口の肩にもたれかかってきた。かすかに聞こえる呼吸は深く、すでに眠りに入ってしまったようだ。一週間の公演の疲れが溜まっている上に、先輩を招くため家を片付けたり料理をしたりと気を遣ったせいもあるのだろう。
 そんな一生懸命な上野の寝顔が可愛く思えて、井之口は疲れた体に鞭打ち、力を振り絞って上野をベッドへ運ぼうとしたが、すぐに無理だと悟った。自分の腕の力では眠っている彼女を持ち上げられそうにない。彼女を怪我させるか自分が腰を痛めるのが関の山だ。
 再びソファに座りこんで頭を垂れたとき、溜息混じりの小さな声が聞こえた。

「……夕子さん、好き……」

 寝言が本心であるとは言い切れないが、井之口の心には小さい針のように刺さる告白だった。
 上野のことは好きだ。てっきり磯田の相手役になるものだと思っていた上野が自分の相手役に決まったときは本当に嬉しかった。今日こうして彼女の家に来ることだって楽しみにしていたし、仕事の延長線上で完全に彼氏気取りでもある。
 だが、この生身の美しい女性を目の前にして、いったい何ができるだろう。
 芝居に入り込んでいるときは、どんなクサい愛の言葉も言えるし、涙も流せるし、キスもできる。
しかし井之口夕子というひとりの人間に戻ったとき、事はそう簡単にはいかない。眠っている恋人をベッドに運ぶことさえできない非力な女にすぎない自分を思い知らされるだけだ。
 上野のふっくらした唇と長い睫毛を見つめ、そしてそのまま、さらさらの髪をかけた耳へ、細い首筋へ、襟ぐりの大きい白いニットの胸元へとゆっくり視線を移す。
 もし男だったら、この胸に顔を埋めたいと思うのだろうか。
 そう思った一瞬後、井之口は罪悪感を覚えて目を逸らした。女性との恋が具体的になればなるほど気持ちも体も引いていくということにはもうとっくに気が付いている。それなのに無理してこんな中途半端な付き合いを繰り返してしまうくらい、自分は男になりたいのだろうか。

「皐月、好きだよ」

 その言葉は嘘というわけではない、だから言ってもかまわないはずだ。そう自分の胸に言い聞かせ、井之口は上野の耳にそっと囁いた。

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