花ものがたり ―梅の章―
【4】



 後輩のマンションに深夜に押しかけて風呂を借りたあげく、磯田は自宅に帰る気をなくしたらしい。この時間に約束をしたときから、十中八九そうなるだろうとは井之口も思っていた。深夜一時を回った今ではもうタクシーも簡単にはつかまらないだろう。

「泊ってっていいでしょ?」
「うん……でも、寝る部屋、リビング以上に汚いよ? シーツ一か月洗ってないし」

 いくら親しい間柄でも、あの足の踏み場もない魔境にどうぞ寝て下さいと言うのは気が引ける。
 しかし、磯田は止めようとする井之口を振り切って寝室のドアを開けてしまった。

「あーあ、大変だわこりゃ」

 口とは裏腹に、磯田は張り切って動き出した。ツアー公演から帰ってきたばかりで疲労は極限に達しているはずなのに、磯田の体は実に軽く動く。ベッドからシーツを引きはがし、その上に洗濯物をありったけ乗せて風呂敷包みのようにひとつにまとめていく磯田を井之口は半分呆れて見ていた。
 磯田は最後にベッドサイドの窓を開けた。初夏の気持ちの良い夜の風が流れ込み、澱んだ空気を押し流す。

「今夜だけはシーツなしで寝て。明日それまとめて洗濯してあげる。あ、夕子先に寝てね。私はまだ少し用事があるから」
「相変わらずマメだよね……」

 井之口は長かった千秋楽の一日の疲れに負けてベッドに寝転がった。すると磯田の手が自動的に掛布団を首元まで引き上げてくれる。井之口は小さな子供になったような気恥ずかしさを覚えた。
 さらに、どんなに近くで見ても一点の瑕もない顔が枕元に寄せられ、小さな声で聞いてくる。

「最近、体調どう?」
「普通だよ」
「生理まだ止まってるの?」
「……いいじゃん、別に具合悪いわけじゃないし健康診断でもひっかからなかったし」

 井之口は寝返りを打って磯田の顔に背を向け、鼻の上まで掛布団に潜り込んだ。
 男役の体型補正をしてライトを浴びて激しいダンスを毎日踊っているとあっという間に体重が落ちる。そのうえ慢性的な疲労と緊張で食欲もあまりなく、腕も足も見せるのが恥ずかしいほど痩せ細っていた。もういつだか忘れてしまったほど前から生理は来なくなっていて、それを異常だと思う感覚すらもなくなっている。

「だけど、もう半年ぐらいたつでしょ」
「……たぶん、もっと……一年ぐらいかな……」

 少なめに見積もって言ったが、その数字も磯田の許容範囲を超えてしまったようだ。

「夕子!」

 磯田に無理やり掛布団をはがされ、井之口は顔をしかめて片腕で光を遮った。

「なんだよ、うるさいなあ。もう寝る!」
「聞いて」

 養成所時代から、磯田の声には逆らうことのできない力があった。成績が特別優れていたわけでもなく学年の代表でもないのに、誰もが磯田の声に自然と耳を傾けた。それは本人が常に正真正銘の本気で物を言っているからなのだが、それが時には井之口の耳には耐えがたいほど痛いこともある。真剣に後輩のためを思って言ってくれているのだとわかっていても、いやわかっているからこそ、その気持ちが胸に刺さって苦しくなるのだ。

「夕子が頑張ってるのはよく知ってる。だけど今の夕子は頑張りすぎ。もっと力抜いてもいいんだよ。そうじゃないとこれから先はもっともっと大変になるんだから」
「またお説教? 仕方ないじゃん……力の抜き方なんてわかんねえし」

 井之口は磯田に背中を向けたままぎゅっと丸まった。磯田の言うことがいくら正しくても、どうしようもない。一瞬でも気を抜けば男役を続けられなくなるという危機感が、絶え間なく井之口を追い立てていた。力を加減することなど考えられず、体力と気力の限界線を綱渡りする日々をもう何年も根性だけで続けている。
 溜息と掛布団が同時にそっと井之口の体の上に降ってきて、やがて明かりが消えた。磯田が部屋を出たようだ。
 体はひどく疲れているのに、眠気はまったく訪れない。
 こんな状態の自分に今以上の仕事をこなすことが果たしてできるのか。ましてやダブルトップの片割れとして磯田を支えていけるのか―――。
 暗い寝室のベッドの中で井之口は自分の腕を眺めた。
 Tシャツの袖口が思いっきり余っている、細い細い二の腕。もっと太くて逞しければ、軽々と娘役を持ち上げられるのだろうか。鍛えても痩せていくだけの体が恨めしい。
 賃貸マンションの薄い壁越しに、磯田の低い話し声が聞こえる。何を言っているのかまでは聞き取れないが、誰かと電話で話しているようだ。その声が不意にいらついたように高くなった。

「他人ん家で痴話喧嘩すんなよ……」

 井之口は掛布団を頭からかぶった。磯田の電話の相手はきっと彼氏だ。一か月もの長いツアー明けの日に、恋人の家ではなく後輩の家に泊まる磯田はだいぶ変わっていると井之口は思う。そんなことをすればどんな寛容な彼氏でも気を悪くするだろう。
 しばらくして電話が終わった後も、ごそごそと何か動いている気配があったが、そのうちまた扉を開け閉めする音がして、磯田が寝室へ戻ってきた。長身の体が狭いベッドに入り込んで来る。

「暑い」

 井之口が文句を言うと、磯田はわざとくっついてきた。

「夕子のほうが私よりあったかいよ。大きなカイロみたい」

 後ろから抱きしめようとしてくる腕を、寝返りを打って振りほどく。顔を合わせてやっと磯田は井之口が不機嫌なことに気づいた。

「ごめん、うるさかったよね」
「……何で彼氏の家行かないの」
「あ、聞かれちゃった?」
「聞こえたんだよ」

 井之口は溜息をついて仰向けになり目を閉じた。いらいらしているのは疲れのせいだと自分に言い聞かせる。

「だって、夕子にトップになったこと一番に言いたかったんだもん」
「発表まで黙っとけよ、そんなの」
「あ、可愛くない。喜びなさいもっと」

 磯田が勝手に怒るのを放っておいて、井之口は寝ることにした。いったい何を喜べというのだ。

「おやすみ」
「ん、おやすみ。明日はゆっくりでいいよね」

 すでに時刻は深夜二時を過ぎていた。はるか下の道路を走る車の音がときおりかすかに聞こえる。暗闇の静寂と隣に横たわる人の気配とが入り混じり、いったん眠ろうとした井之口の神経を再び緊張させ始めた。
 明日の自分はもう今日の自分ではない。
 運が良ければ場面の芯を取らせてもらえる単なる若手の一人ではなく、梅団のトップとして、あの磯田未央と並び称される男役になるのだ。トップになりたいというのはずっと井之口の夢だったが、自己管理さえ満足にできない今の自分にその価値があるとは思えなかった。
 隣で目を閉じている磯田の横顔をじっと見つめる。こんなに近くにいるのに、まるで地上の生き物と太陽のように、磯田は井之口からかけ離れた存在だった。その距離は初めて会ったあの日から変わらない。

「……なんで、もうひとりのトップ、俺になったのかな……」

 ついに泣き言が出てしまった。磯田が瞼を開き、暗闇の中で優しく微笑んだのがわかる。

「夕子って意外と自分に自信ないんだ」

 井之口は磯田の肩に額を押し付けた。顔を見られたくなかったからだ。

「全然、ない……未央みたいには、絶対、できないし……失敗させて、やめさせようとしてるのかも……」

 みっともなく声が震えるのを抑えることができなかった。布団の中で何度も磯田に泣きついては慰めてもらった養成所時代からまったく成長がない自分に呆れてしまうが、磯田の大きな手は今も変わらず井之口の髪を撫でてくれる。

「どうして夕子か、っていうより、どうしてダブルトップになったか、まず説明するね」
「どうして?」
「私、今もそうだけど、舞台以外の仕事がすごく多いでしょ。コマーシャルとか、テレビドラマとか、政府関係のレセプションパーティーで歌ったりとか。写真の仕事も多くて、ほとんど稽古に出られないときもあるじゃない。これからはもっとそういう仕事が増えるんだって。だから舞台は半分夕子にやってもらおうってことになったみたい」
「だから、なんで俺……」

 磯田は体をずらして井之口と向き合い、顔を覗き込んできた。そんなことをされると照れ隠しについ睨んでしまう。

「夕子のほうが私より実力あるもん」
「何言ってんの、バカ……」
「だってそうじゃない、歌は歌劇団でいちばん上手いでしょ。私、夕子の江差追分聞くといまだに涙出るもん。踊りだって子供の頃からやってるから養成所入ってから始めた私とは全然違うし、男役の芝居だって、夕子のほうがずっと格好いい」

 井之口は黙ってただ激しく首を振った。それは完全に磯田の贔屓目だ。磯田ほど美しく、観る人に夢を見せてくれる男役がどこにいるというのだろう。

「それにね、夕子を次のトップにしてほしいってファンからの投書がすごかったんだって」
「それは……、俺のファン、ちょっと過激だから」
「熱心に応援してくださる方が多いってことは、すごく大事なことだよ」

 磯田は井之口の痩せ細った体を昔と同じように優しく抱き締めてくれた。自分も男役なのに腕の中にすっぽり収まってしまうのは悔しいが、こうして磯田のぬくもりに包まれている間だけはなぜか不安が消えるのだ。そのぬくもりに素直に体を任せてうとうとし始めたとき、磯田の呟きが聞こえた。

「……私は夕子に嫉妬してる」

 あまりにも意外な言葉に、井之口は目を見開いた。

「ダブルトップの話初めて聞いたとき、私が必要とされてるのは見た目だけだ、舞台には乗るなって言われたみたいな気がした」
「未央……」
「でも今はすごく嬉しいの、一人じゃないっていうことが……」
「一人じゃない?」
「そう……」

 それだけ言うと磯田は瞼を閉じ、深い息をついてまどろみ始めた。
 井之口はふと気づいた。生まれながらのトップスターだと思っていた磯田も本当は自分よりたった一年早く入っただけの年下の団員にすぎないのだと。疲れや悩みを口にしないだけで、体力も精神力も無尽蔵ではないのだ。
 今の自分には彼女を支えるほどの力はない。でも、側にいることならできる。
 井之口はおずおずと両手を磯田の腰に回した。いつも自分がしてもらっているように、少しでもこのぬくもりで磯田を癒すことができれば良いと願って。

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