花ものがたり ―梅の章―
【3】



 赤坂小劇場のダンスコンサートの千秋楽は大成功のうちに幕を下ろした。
 千秋楽終演後の舞台で行われる恒例のファンミーティングは予定時間を三十分もオーバーして大いに盛り上がり、その後も当然のように出演者たちは打ち上げ会場へ流れて、井之口が自宅に帰り着いたときにはもう日付が変わろうとしていた。
 一人暮らしの1LDKのマンションの中は散らかり放題に散らかっている。井之口は、公演中は家事をいっさいする気になれず、家に帰るとほとんどの時間をバスルームで過ごしていた。買い物もおっくうで、家の中で口にするのは水道水だけというありさまだ。
 井之口はとりあえず寝室のベッドの上から洋服をすべて床に払い落して寝る場所を確保し、風呂に湯をため始めた。公演が終わった開放感で今はもう何もしたくない。荒れ放題の家の片付けもたまった洗濯も掃除も明日にして今夜は寝よう。
 そう思って携帯電話を充電器にセットしようとしたとき、その電話が鳴り始めた。

「もしもし?」
『早く開けてよ。さっきからインターホン鳴らしてるんだけど。家にいるんでしょ?』

 懐かしい声に、先ほどの打ち上げで軽く回っていた酔いが一気に冷めた。千秋楽のどさくさで今夜の約束を完全に忘れていたのだ。

「悪い、すぐ開ける。……でも、うち、すっごく汚い」
『知ってるよ。何を今さら』

 井之口はまだ服を脱いでいなくて良かったと思いながらひとまずダイニングの明かりをつけに行き、インターホンが鳴らない理由を知った。受話器が外れたままになっていたのだ。いつからそうなっていたのかもわからない。
 チェーンを外してようやく開けたドアの向こうには、黒いシャツと黒いジーンズを涼しげに着こなした若い男役が立っていた。
 井之口の一年先輩で、現在の梅団の準トップ男役を務めている、磯田未央(いそだ みお)だ。
 長いツアー公演を終えて東京に戻ってきたばかりの深夜だというのに、相変わらず非現実的なほど整った容姿をしている。身長百七十二センチの引き締まった体、男役では珍しく肩に触れるほど伸ばした黒髪、すっきりとしていながら甘い顔立ち。磯田はそのずば抜けた美貌のため、花水木歌劇団の広告塔として、政府広報のポスターによく起用されていた。ファンの間ではアンドロイドという仇名で呼ばれているらしい。

「お邪魔します。……お風呂入れてるの?」

 水音に気づいたらしい磯田は、靴を脱ぎながら井之口の顔を見て尋ねた。
 磯田の視線には力がありすぎて、真っ直ぐ見つめられると井之口は必ず目をそらしてしまう。まるで野生動物の上下関係のように。

「うん」
「後で入らせて。もう汗びっしょりでさあ。夜なのになんでこんなに蒸し暑いんだろうね」
「先に風呂入れば? 俺、今日はもういいから」
「いいよ、気つかわないで。あ、一緒に入ろうか?」
「ヤダ」

 こんな軽口を交わすのも一か月ぶりだ。想定外に胸の奥がつんとなる。井之口は認めたくなかったが、やっぱり自分はこの人に会いたかったのだと改めて感じた。
 養成所の入学式の日に起こったあの事件で出会ってからというもの、他の生徒たちから妬まれることの多かった井之口と磯田は、一年違いの厳しい上下関係の中にあってもお互いに味方しあっていた。実は年齢は井之口のほうがひとつ上であることや、梅団のオープンな気質もあって、今では先輩後輩関係なくほとんど対等な付き合いをしている。

「それにしても今日はほんっとに酷いね」

 リビングに来ると、その惨状を見て磯田は呆れた声をあげた。井之口は水道水のほかに何か飲めるものはないかと探し、かろうじて見つけたインスタントコーヒーを生かすべく湯を沸かしはじめた。

「ねえ夕子、年頃の娘が下着を床に散らかすのはやめようよ」
「触るな!」

 たまらず片付け始めようとした磯田を制して、ダイニングの椅子を引き、無理やりそこへ座らせる。テーブルの上もほこりだらけだが、あの無法地帯と化した寝室のベッドへ行くよりはマシだろう。
 戸棚の奥から引っ張り出したマグカップにインスタントコーヒーを淹れ、ようやく向かい合って落ち着いた。

「牢獄ツアーお疲れ様」
「そっちも千秋楽おめでとう。今日観られたら観ようと思ったんだけど結局行けなかったの。良かったって聞いたよ、総務部長に」
「へえ……って、まさかもう本部行ってきたの? 帰ってきたの今日だろ?」
「うん。トップの内示、出たんだ」

 磯田の言い方があまりにもさらっとしていたので、井之口はあやうく聞き流すところだった。確かに磯田は現在のポジションやキャリアから見て必ず次のトップになるだろうと誰もが思うスターだが、実際にそう決まったというのは大ニュースである。
 とうとうこの日が来たのか、と井之口の感情は一気に腹の底にずしりと沈んだ。花水木歌劇団養成所に入ったその日からずっと追い続けていた背中が、また一歩先へと離れていってしまう。
 しかしとりあえずこの言葉だけは一番に言いたかった。

「おめでとう」

 磯田は、井之口ひとりだけが見るのはもったいないような綺麗な笑顔でにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。―――それで、相手役、誰にしたらいいと思う? まあ、今までも考えてなかったわけじゃないんだけど、いざこれで決まるとなると悩んじゃって……」

 磯田の決断力は並外れていて、何かを相談してくるときにはたいていすでに心が決まっている。そんな磯田が珍しく口ごもっている様子は、長年側にいる井之口を心配させた。やはり団のカラーを決定づけるトップコンビの人事ともなれば相当な重圧を感じるのだろうか。

「それで? 候補は誰?」
「やっぱり梅団娘役のエースは上野ちゃんかなと思うんだけど、あの子、夕子のこと好きでしょ」

 井之口はインスタントコーヒーにむせてしまった。磯田の気の遣い方は完全に方向を間違っている。

「……ちょっと、関係ないじゃんそれは今。皐月だってそんな理由でトップ娘役になれなかったら、俺のこと恨むよ」

 磯田は何を言っているのだというようなきょとんとした顔で井之口を見た。

「夕子もしかして、まだ部長室に呼ばれてないんだ?」
「何? 何のこと?」

 井之口の胸に、急速に冷たい不安が広がった。ずっと事務局の『娘役になれ』という圧力に逆らい続けてきた井之口には心当たりがありすぎる。いつどんなところへ飛ばされるかわからないという覚悟は常に持ちながら舞台に立ってきたが、ついにその日が来たのかもしれない。

「ごめん、私が先に言ったら本当はいけないんだけどさ。来期の梅団はダブルトップになるんだって。といっても規則は変えられないから、待遇としては準トップなんだけど、実質的には赤坂小劇場公演の主役っていう形でトップをもう一人置くらしいよ」

 そう言って磯田はにこにこと井之口を見た。
 井之口にはなぜ磯田が怒っていないのか不思議だった。準トップの立場にしてすでに世間的には花水木歌劇団の顔になっている磯田なら、十分にひとりでトップが務められるのに、わざわざダブルトップにするなんておかしなことだ。第一、磯田と並んで見劣りしない男役などいないだろうに。

「なんでわざわざそんなこと。それに誰が未央とダブルになるんだよ。松団から粟島さんとか呼んでくんの?」

 クールな美貌で有名な先輩の名前を挙げると、磯田はなぜか意味ありげにニヤついた。

「なんだよ、そのやらしい笑い方……」
「夕子だよ。もうひとりのトップ」

 井之口は、今度は持っていたマグカップを派手に落としてコーヒーをぶちまけてしまった。

 磯田がこぼれたコーヒーを手際よく拭きとってくれたおかげでテーブルはすっかりきれいになったが、井之口は汚れてしまった服を脱がなくてはならず、結局、二人はバスルームで話の続きをすることになった。

「頭洗ってあげる」
「自分でやる。いいから未央は何もするな」

 磯田は昔からすぐに井之口の世話を焼きたがる。気遣いが細やかなうえ、綺麗好きで料理も上手く、もし結婚でもしたらいい主婦になるだろうなと井之口はときどき思う。芸能人になるために生まれてきたような磯田には専業主婦というのは決してない人生だろうが。

「さっきの話だけど、夕子がもうひとりのトップだったら上野ちゃんは夕子の相手役だな、と思ったわけ。そうすると私、誰と組めばいいのかなあと思ってさ。若手もみんな可愛くて上手いし、適当な人がいないわけじゃないけど、これっていう決め手に欠けるんだよね」

 井之口の頭にふと名案がひらめいた。

「舞ちゃんは?」
「え? 梅団にマイって子、いたっけ?」
「後藤舞だよ。転向するんだって、娘役に」
「後藤……ええっ、嘘でしょ!」

 思ったとおりの反応が返ってきて、井之口は口元に浮かびそうになる笑みを抑えた。
 そうだ。後藤なら磯田の隣にいてもひけをとらない輝きを放つ娘役になれる。華やかな笑顔にのびのびとしたオーラ、優雅なダンス―――背が高く包容力のある磯田と組めば、無敵のコンビになるに違いない。

「嘘じゃないよ、この前相談されたんだ。ずっと男役に違和感感じてて、もう決めたんだって」
「なんで夕子なの? 舞、今までは何でも私に相談してきたのに。プライベートでも私の方が仲良いのに!」
「未央はツアー行ってていなかったじゃん」
「いなくても電話とかメールとかできるでしょ。上野ちゃんのハートも舞のハートも持っていきやがって、この、後輩殺しめ!」

 バスタブの中で後ろにいる磯田に肩をつかまれて揺すぶられ、井之口の頭はがくがくと揺れた。やめろ、と言おうとしたとき、その手の動きはわずかに変わって井之口の両肩をさすり始めた。

「すっごい凝ってるね、肩」
「疲れがたまってるだけ。……いいよ、もうそんなことしなくて……未央も疲れてるんだから」

 振り払おうとしたが、がちがちの筋肉がお湯のあたたかさと磯田の手のひらでほぐされていく気持ちよさについ甘えてしまう。
 そのとき、耳のすぐそばで、こらえかねたような磯田の小さなため息が聞こえた。

「転向するなら、夕子がしてくれたらよかったな」

 井之口は一瞬息ができなくなり、目の前が暗くなったような気がした。
 養成所時代、娘役への転向を迫られていた井之口を、たったひとりだけかばってくれたのが磯田だった。井之口が陰口をたたかれるたびに自分のことのように怒ってくれた。その磯田のまっすぐな優しさにどれだけ助けられていたことか。
 磯田だけは言わないと思っていた言葉だった。

「……そんなふうに俺のこと見てたのかよ……」
「ごめん、夕子、怒ってるでしょ。でも、夕子が男役でやっていきたいって思うのも、私が夕子と相手役として組みたいって思うのも、どっちも同じくらい大事な本当の気持ちだから……だから隠したくなかった」

 磯田は両肩に置いていた手を滑らせて、井之口の薄い肩を後ろから抱きしめた。
 そんなことを言われたら許さないわけにいかなくなる。磯田の言うとおり、人が人に対して何を思い何を感じるかは自由だ。磯田はいつも、本当に心に思っていることだけしか言わない。正直すぎてひやひやさせられるほどに。

「本当は夕子がいいんだ、私の相手役。だけどダブルトップどうしでくっつくわけにいかないしね?」
「それで悩んでたのか」
「うん」
「俺の代わりに舞ちゃん可愛がってあげてよ」
「……振られたか。わかってたけど。ねえ夕子、背中流して」

 井之口は海綿に薔薇の香りのボディシャンプーを泡立てて磯田の背中をこすり始めた。
 髪を伸ばしても、料理が趣味でも、言葉遣いが優しくても、決して女っぽくならない磯田の広い背中。
 これから井之口は、その背中と同じ道を並んで歩いていく。

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