花ものがたり ―梅の章―
【2】



 井之口夕子は二年間一度も主席の座から落ちることなく養成所を卒業し、歌劇団入団後、梅団に配属された。
 花水木歌劇団は松・竹・梅の三つの団に分かれている。
 最も歴史の古い松団はいにしえの女歌舞伎のような雰囲気を残しており、二番目に誕生した竹団は本格的な文芸作品を演じこなす実力派だ。それらに対し、最も新しい団である梅団は、エンタテイメント性の高いショーやミュージカルコメディを主なレパートリーとしている。
 梅団での初舞台から九年がたち、泣き虫の少女だった頃とは見違えるような堂々たる中堅男役になった井之口は、後輩からの相談もよく受けるようになっていた。

「夕子さん、私、娘役に転向しようかと考えてるんです」
「ええっ」

 後輩男役の後藤舞(ごとう まい)からそう告げられた井之口は、周囲の客が振り返るほどの驚きの声をあげてしまった。
 後藤は入団八年目で、今いちばん輝いている若手男役である。劇団内部でもファンの間でも、近い将来梅団を背負って立つ存在になるだろうと囁かれていた。もともとバレリーナを目指していたというだけあってダンスの技量がすばらしく、絵に描いたようなスタイルの良さも手伝って、若い年代のファンに絶大な人気があるのだ。
 現在、梅団は、トップの倉橋志乃と準トップの磯田未央を中心とするキャリア組が全国刑務所慰問ツアー、井之口と後藤を中心とする若手組が赤坂小劇場でダンスコンサート、と二手に分かれて公演を行っている。
 翌日の公演が休みという日の夜、井之口は、相談があると言われて後藤と一緒に食事に来たのだった。それがこんな衝撃の内容だとは、入団以来ずっと一緒に過ごしてきた井之口でさえ夢にも思っていなかった。

「冗談だろ? なんで今さら性転換? ファンが泣くぞ」
「それなんですよね……」

 後藤はさらさらの茶色い髪を悩ましげに掻き上げた。
 確かに後藤は丸顔で顎が小さく、どちらかというと少女っぽい面立ちをしている。身長は百六十七センチ。井之口よりもほんの数ミリ大きいが、今時の男役は百七十センチ以上が当たり前だから、相手役に困るというほどでもない。もし背の高い男役と組んだら、きっと華やかで舞台映えするカップルになるだろう。

「もう決めてるんだ?」
「はい。あの女役の場面、毎回すごく気持ち良くて。やっぱり女役が私にはフィットするんだなって改めて思ったんです」

 現在赤坂小劇場で公演中のダンスコンサートでは、一場面だけ、全ての出演者が女役でソンドハイムの『Ladys who lunch』を踊る場面がある。
 キラキラと光る黒のロングドレスを体にぴったりと添わせた井之口と後藤の並びの美しさは、このコンサートでいちばんの話題だった。
 井之口は男役にしては背が低く華奢で、顔立ちも甘く繊細だ。そんな井之口が本気を出して女の格好をすると、そこらの娘役では到底かなわないほど可愛らしくなってしまう。またその隣に並ぶのが伸びやかな肢体を惜しげもなく晒した後藤だから、観客が夢中になるのも無理はない。

「うまく言えないんですけど、今まで舞台で妙に気を張ってたり違和感があったりしたのがいっぺんに消えて、もうただ楽しいだけ、っていうか……初めて『私を見て!』って思ったんです。男役をやっているときは、恥ずかしくてどうしても照れてしまってたんですけど……」

 後藤がぽつぽつと言葉を紡いでいるうちに、熱々のデザートクレープの上の生クリームはすっかり溶けてしまった。

「そうか……そういえば舞ちゃんはあの場面、稽古のときから水を得た魚みたいだった。でもそんだけ違和感があってよく八年もやってきたなあ、男役」
「最初は単純に男役に憧れて入って、言われるままにこなしてきたんですけど、いつの間にかそんなふうに感じるようになっちゃって……」

 後藤は溜息をつき、ナイフでクレープの端を切り取り口に入れた。
 井之口から見ると、後藤のような華も才能もある若手が娘役になるなんて、もったいないの一言に尽きる。男役としてのさまざまな技術は生半可な修業では身につかないし、形になるにはそれなりに年月もかかるものだ。後藤も相当の努力はしてきたはずで、そうして得たものを最大限生かせるトップの地位が射程距離に入っているというのに、今さらすべてを捨てるというのか。

「ほんとにいいわけ? 後悔するよ?」
「いいんです」
「舞ちゃんならトップになれるのに」
「……それは、私の夢じゃありませんから……。もちろんトップの方々は素敵な先輩として憧れてます。でも、最近思い出したんですけど、私、小さい頃からクラシックバレエをやっていて、プリマドンナになりたかったんです。ふわっとしたスカートの綺麗なドレスを着て髪飾りをつけて。それで思いっきり踊れるなら、他には何もいりません」

 顔を上げて井之口にニコリと微笑みかけた後藤は、もう娘役の顔をしていた。

「その気持ち忘れるなよ。これからいろんな人にいろんなこと言われるから」
「覚悟はしてます」
「舞ちゃんって、こんなに強かったっけ」

 頬杖をついたまま顔を傾けて唇を突き出す井之口を見て、後藤はふふっと楽しげに笑った。

「夕子さん、可愛い」
「可愛いとか言うな」
「失礼しました」

 可愛い、という言葉に井之口はつい過剰に反応してしまう。そうするとかえって笑われるというのは経験からよくわかっているのに、いつも反発心のほうが勝ってしまうのだ。

「夕子さんって普段カッコイイのに時々すごく母性本能くすぐられるような表情しますよね」

 後藤の右頬には隠しきれない笑窪がある。やっぱり笑われているのだ、と井之口はむっとした。

「それって子供っぽいってこと?」
「そうじゃなくて……なんだかこう、ほっとけない感じで。皐月もそういうところが好きなんじゃないかなあ」

 後輩ににんまりとしながらそう言われ、井之口は急に照れて無言になってしまった。
 皐月というのは後藤と同期の梅団の娘役で、最近向こうから告白されて付き合い始めたばかりなのだ。女性どうしで男役・女役に分かれ恋愛劇をやり続けるという職場の特殊な事情から、こういうことはしばしばある。井之口もままごとのような関係は何度か経験したが、違う芝居で違う相手と組むようになれば自然と冷めるものだった。

「皐月、ほんとに夕子さんに夢中ですもんね」
「そんないつまでも続かないよ。そのうちイケメン男子に求婚されて寿退団するんだろうから」
「またまた」
「そっちこそ、舞ちゃんに憧れてる娘役いっぱいいるのに、裏切っちゃっていいの?」
「ああ、考えてなかったです」

 後藤の笑顔がふっきれたように明るいのを見て、井之口は、もう彼女の決意を翻すことは誰にもできないだろうと思った。

 店を出て、それぞれの家に帰るために、井之口と後藤は違う地下鉄の駅へと別れた。
 夜の赤坂の街はそれなりに人が多いが、誰も他人のことなど見ていない。夜なのにサングラスをかけている芸能人らしい人影など、テレビ局の足下ではめずらしくもない光景だ。
 まだそれほど混み始めていない地下鉄の、一番後ろの車両の壁にもたれかかって、井之口は後藤のことを考えていた。
 ファンは嘆くだろう。熱心な後援者であればあるほど非難もされるだろう。歌劇団事務局にももちろん反対されるだろうし、最悪の事態を考えれば戦力外通告で歌劇部から異動になるかもしれない。さらに、梅団の先輩や後輩からも早まるなと説得されるに決まっている。特に娘役たちからは、強力なライバルとして煙たがられるに違いない。
 その周囲の雑音のなかで、後藤がどこまで自分の夢を追い続けられるのか。
 今まで見て見ぬふりをしていた心の中の声に、後藤が今このときになって気づいてしまったのは、はたして良いことだったのか―――。
 自分のことでもないのに悩み過ぎだ、と井之口は自嘲した。
 だが、他人事とは思えない理由がある。
 実は、井之口は、養成所に入ってから十年近くの間、あらゆる人から娘役に転向しろと言われ続けてきたのだ。
 総務部の部長に『娘役になるなら今すぐトップにしてやるが男役のままなら一生なれない』とまで言われたこともある。
 その悔しさをバネにして、井之口は人一倍男役にこだわり続けてきた。身体の動きや角度など技術で盗めるところはとことん自分のものにし、深みのある声に磨きをかけ、普段の言葉づかいや服装からもすべて女であることを消し去った。自分はどこからどう見ても男役なのだとアピールするために、笑われるほど全力で打ち込んできた。花水木歌劇団の男役、それが井之口の夢そのものだからだ。
 その努力の甲斐あって、最近ではもう娘役になれなどと言う者はいない。井之口夕子は、梅団の中でも、触れれば火傷しそうなバリバリの男役として認められるようになった。
 後藤にも、きっとこれから大きな試練がやってくるだろう。
 ふと目をやった地下鉄のドアのガラスに映る自分の姿に、井之口は眉根を寄せた。思っていたより女っぽい。腰や太もものシルエットが出ない男物のパンツを履き、胸はつぶし、色気のないシャツを着て、細いうなじをネックウォーマーで隠し、耳の出るショートカットの上からキャップを深くかぶっていてさえも。
 井之口は、暗い窓ガラスを鏡にして、家につくまでずっと、どうやったら男に見えるかを研究し続けた。

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