花ものがたり ―梅の章―
【12】


 毎年一月になると、花水木歌劇団の本拠地である国立銀座歌劇場では、松・竹・梅の三団合同の特別公演が行われる。
 公演中の朝は霞が関にある劇団本部ビルに出勤し、朝礼とウォーミングアップを済ませたあと劇団所有のバスで劇場入りをするのだが、今月は出演者が多くバスの定員をオーバーしているため、乗れなかった団員は数台のタクシーに分乗して移動することになっていた。
 ある朝、本部ビルの玄関口で井之口と磯田の二人がタクシーに乗る順番を待っていると、後ろから松団のトップスター・才原霞(さいばら かすみ)と準トップ・粟島甲子(あわしま こうこ)がやってきた。

「お二人さん、私たちも一緒に乗っていい?」
「もちろんかまいませんけど、荷物もあるし窮屈じゃないですか? お先にどうぞ」

 磯田が驚いたようにジャージ姿の二人を眺めている。それもそのはず、名実ともに三団のトップスターの筆頭である才原霞は、本当なら黒塗りのハイヤーの後部座席に一人で乗っていてもおかしくない立場なのだ。

「荷物はトランクに入れたらいいし。今月はタクシー代節約せえ言われてるねん、総務から」
「そうなんですか」

 松団のトップともなると歌劇部の課長として経費のことまで考えなければならないらしい。

「悪いね、後ろ三人になっちゃうけど」

 いつもクールで近寄りがたい雰囲気を醸し出している粟島にそんなことを言われ、井之口も恐縮した。

「いえ、私たちは平気ですから」

 井之口にとって才原と粟島の二人はまさしく理想の男役であり、磯田とはまた違う意味で、昔から憧れてやまない存在だった。至芸に裏打ちされた貫禄と、男役を極めた先にある余計な力の抜けた自然体の魅力が、彼女たちには備わっている。
 四人は膨らんだ大きな四つのバッグをトランクに積み込み、才原が助手席に、あとの三人が後部座席に座った。井之口はいちばん後輩でしかも小柄なので、磯田と粟島の間に挟まれている。
 車が銀座へ向けて短い距離を走り出すと、粟島が尋ねてきた。

「井之口は普段化粧とかしないの?」
「はい」
「入りのときだけ?」
「いえ、基本的にしてないです、いつも」

 粟島がじろじろと顔を眺めてきたので、井之口は怒られるのかと緊張した。しかし粟島は、間近で見ても美しい顔をさらに近づけてこう言った。

「リップクリームだけでも付けたほうがいいよ。唇、ひび割れてる」

 そしてなんと、着ていた上着のポケットからメンソレータムを出して自分の指で井之口の唇に塗ってくれたのだ。唇からすうっと鼻へ抜けるメントールの香りがまるで粟島のようだと井之口は思った。

「……ありがとうございます」

 他人に対してそっけないように見えていた先輩が自分を気にかけてくれたことが嬉しくて、今日はちょっと良い日かもしれないと思った瞬間、ふとバックミラーを見てぞっとした。
 隣の席で車窓から外を眺めているように見せかけてこっそりミラー越しに井之口を見つめている磯田と視線が合ったのだ。
 まずい、と井之口はその顔を見て瞬時に思った。
 睨んでいるわけでも不機嫌そうなわけでもない。ただ目を細めて眠そうな表情をしているだけだ。しかしそれが、磯田が心の大波乱を押さえつけているときの顔だということを井之口は知っていた。
 タクシーが数寄屋橋交差点の赤信号で止まったとき、ついに磯田は五年も先輩の他団のトップスターに向かってドスのきいた声でとんでもないことを言い出した。

「……才原さん。粟島さんに、夕子に手を出さないように言ってください」
「未央! 何失礼なこと言ってんだよ」

 しかもタクシーの運転手という無関係な人のいる密室の中である。
 井之口の全身から冷や汗が出た。劇団内では珍しくないこととはいえ、今の磯田の本気すぎる剣幕を見れば、二人の関係はまるわかりだろう。
 井之口の焦りをよそに、才原は遠慮なく声を上げて笑っていた。

「誰かて人を好きになるのは自由やろ」
「粟島さんは自由すぎです! 夕子、私と場所交替しよう」
「無理だよ」

 狭い後部座席に大人が三人座っているのだ。降りずに入れ替われるわけがない。磯田がいらついているのが伝わってきて、井之口は恥ずかしさに消え入りたくなった。
 一緒に住むようになって二か月が過ぎ、わかってきたのは、磯田はたいそうなやきもち妬きだということだ。以前告白されたときに『独占したい』と言っていたのは冗談ではなかったらしい。職場で井之口が誰かと必要以上に仲良くしていると、帰宅後に文句を言われ、自分勝手なお仕置きをされてケンカになるというのがいつものパターンだった。

「磯田、落ち着きなさい」

 才原の鶴の一声で磯田は不満そうに口をつぐむ。
 一方的にライバル心を燃やされている粟島は、磯田の無礼な言動などまったく意に介していないようで、構わず井之口に話しかけてきた。

「舞台用の化粧品、何使ってる? 肌に合わないんじゃないの」
「そうかもしれません。子供の頃アトピーがひどかったので、全体的に乾燥肌で敏感肌なんです。だからあんまり化粧とかできなくて……」
「そうか」

 粟島の手がすっと伸びてきて井之口の首を触った。

「ここも粉ふいてるよ。ちゃんと保湿してる?」
「たまに……」
「毎日したほうがいいよ。舞台化粧落とした後は特に」
「はい。ありがとうございます」

 答えながらも、右側からの殺気がどんどん強まっていくのを井之口は感じていた。もしかしたら今夜の磯田は大荒れかもしれない。
 ほどなく劇場の楽屋口に到着し、井之口はやっと気まずい密室から解放された。タクシーチケットを運転手に渡して降りてくる才原に、トランクから出した荷物を手渡す。

「ありがとう。あ、そや、これ私の携帯。何かあったらいつでも電話して」

 才原は、渡したバッグのポケットから名刺を出して井之口にくれた。プライベート用らしく、肩書のないシンプルな名前にメールアドレスと携帯電話の番号だけが書かれている。

「何ですかそれ。才原さんまで夕子を口説こうとしてるんじゃないでしょうね」

 眉を吊り上げた磯田が井之口の手元を覗き込んできたので、井之口は急いで名刺を自分のバッグの底にしまいこみながら助けを求めた。

「才原さん、今、電話したいんですけど……」
「わかる。ダブルトップも大変やな」

 才原は井之口の頭を慰めるようにぽんぽんと撫で、じゃあねとクールに手を上げる粟島を従えて行ってしまった。

 今夜は大荒れ、という井之口の悪い予感は大当たりだった。
 公演を終えて帰宅した瞬間、磯田に首根っこをつかまれてリビングのソファに連れて行かれたのだ。

「夕子、服脱いで」
「は?」
「今すぐ全部脱ぐ」
「なんでだよ! それに寒いだろ」

 井之口がかみつくと、磯田はふいに我に返ったように手を離した。
 そして、すぐさまリモコンで暖房のスイッチを入れると、疲れたようにソファに座りこんで溜息をついた。
 磯田がこんなに落ち込んでいるのは珍しい。井之口は隣に座って様子を伺った。

「どうしたんだよ、未央……」
「夕子、部屋が暖まったら服脱いでね」
「だから何で」
「これから毎晩、全身保湿するの。誰にも触らせる隙を与えないように」

 井之口は、やはりそれほど気にしていたのかと呆れた。

「そんなの必要ないって」
「ある。よりによって粟島さんに唇触らせるなんて……」
「親切にしてくれただけじゃん」
「あの人がどんなに手が早いか知らないでしょ! 合同公演の間は気を付けなさいってあれほど言ったのに」

 磯田は荒っぽい仕草でバッグからマッサージオイルの青い瓶を取り出し、井之口の着ていた黄色のダウンジャケットをぐいと脱がせた。

「……未央よりマシなんじゃない?」
「いいから脱ぎなさい」
「わかったよ。自分でやるから、それ貸して」

 井之口は磯田の手の中の青い瓶を取ろうとした。アロマオイルのマッサージは海外旅行先のホテルのエステなどでよくあるが、どんなに勧められても断るくらい苦手なのだ。
 しかし磯田はひょいと後ろ手に瓶を隠してしまった。

「私が塗ってあげる」
「いいよ、自分でやる」
「でも背中は自分じゃできないでしょ? 背中だけでいいからやらせて、お願い」

 井之口はしかたなく譲歩してやることにした。結局のところ、『私にも触らせろ』ということなのだ。

「じゃあ、背中だけやって」

 ようやく暖まってきた部屋の中で、井之口は上半身裸になってソファの上で膝を抱え、磯田に背を向けた。すぐにひやりとする手のひらが肩甲骨のあたりに当てられ、ハーブの香りが鼻をつく。
 するすると肌の上を滑る手の感触に、井之口はぎゅっと自分の両足を抱きしめて膝に顔を埋めた。

「ごめん、冷たかったでしょ」

 磯田の手は井之口の背中の縮こまった筋肉を軽くさするだけで解していく。もともと磯田はマッサージが得意だが、井之口がこれが苦手だとわかったのか、今日は特に優しくゆっくりとやってくれていた。知らず知らずのうちに体の力が抜け、眠気が襲ってくる。

「ほんとだ。乾燥してるね、肩とか首とか……」

 磯田は手に少しオイルを足し、肩と首もマッサージしてくれた。肩凝りも酷い井之口があまりの気持ち良さに完全に身を任せてしまっていると、手のひらはそのまま二の腕へと滑って行く。
 その手が手首まで来たところで井之口はようやくハッと気付いた。
 上半身裸で後ろから抱きしめられるという、とんでもない体勢になっていることに。

「もういい!」

 磯田の両手をはねのけて、マッサージオイルの瓶を奪い取る。今度は成功し、井之口は素早くソファから立ち上がった。

「何だ、つまんないの。ねえ、気持ちよかったでしょ? 全部脱いだらベッドで続きやってあげるよ」
「結構です!」

 どこが乾燥していようが構うものか、と井之口は唇を思い切り突き出した。

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