花ものがたり ―梅の章―
【13】



 一月の合同公演は大盛況のうちに千秋楽を迎えた。いつも磯田の代役としてひとりでセンターに立つプレッシャーを感じている井之口には、松団や竹団の先輩トップたちと一緒の舞台は気が楽で、ひたすら楽しいお祭り騒ぎのようなものだった。磯田のやきもち妬きと、それを面白がってからかう才原たちのせいで、二人が付き合っていることはすっかり劇団じゅうに知れ渡ってしまったが。
 そして短い二月がまたたく間に過ぎ、春の足音が聞こえてきた三月の初めの月曜日。

「ねえ、この対面式キッチンいいでしょ? 夕子がそっちに座って、話しながら料理できるの」
「料理くらい手伝うよ。いくらなんでも座って見てるだけじゃ……」

 磯田がうきうきと新品のシステムキッチンの向こう側から話しかけてくるのに、井之口は少しばかり戸惑いながら答えた。
 今日は休演日なので、磯田の新居探しに付き合って物件の下見に来ている。磯田が目をつけていた新築マンションが二月の末にようやく完成したらしい。
 この物件も最寄りの駅は井之口の家と同じ代々木上原だが、駅からの距離はずっと遠く、それに比例するように部屋の広さはずっと広い。磯田と暮らすようになってから、霞が関までの通勤には磯田のシボレーを使っているので、駅から遠くても問題ないのだ。

「手伝ってくれるにしても、この広さがあれば十分じゃない? 寝室も見た? 壁一面がクローゼットになってるの」
「ああ、収納多いよね、この部屋」
「でしょ。二人分でも余裕だよ。……うん、やっぱりここに決めちゃおうかなあ」

 磯田がぱたぱたとキッチンの戸棚を開け閉めしている様子を眺めながら、井之口は、先ほどから心に引っ掛かり続けていたことを思い切って尋ねてみた。

「あのさ……もしかして、ここに二人で住むつもり……?」
「うん」

 磯田はごく軽い当たり前の調子で頷いた。
 以前上野に予想されたことがまさに現実になってしまった。動揺するよりも、やはりそうかという思いのほうが強く、井之口は深く息を吸い込んだ。

「でもここって1LDKじゃん。二人なら2DKとかのほうが良いんじゃない?」
「2DKだとかえって狭い間取りしかないのよ。LDKが広いほうがゆったり暮らせるし、それにどうせ寝る部屋一緒なんだからいいじゃない」

 いったん心を決めてしまった磯田には、何を言っても無駄だ。井之口は溜息を押し殺して言いたいことを胸にしまった。磯田の辞書にはプライバシーという言葉はないらしい。
 それに、考えてみれば、二人暮らしがいつまでも続くわけではないのだ。磯田のトップの任期はあと二年だし、いろいろなきっかけで違う人生を歩むことになる場合もあるだろう。そうなったときに相手のいないがらんとした部屋に住むよりも、このくらいの広さがちょうど良いのかもしれなかった。

「まあ、1LDKなら将来未央が出て行っても暮らしやすいかな」
「出て行くって……?」

 眉をしかめてつかつかと近寄ってくる磯田を見て、井之口は思わず背筋を伸ばして緊張した。昔からこういうときは思いっきり怒られると決まっている。

「だって……劇団辞めたら仕事の都合とかで引っ越すかもしれないじゃん。あ、でもそしたら俺も出ていかないと、こんな家賃高いところ住めないか」
「夕子。ここ、賃貸じゃなくて、分譲だよ。まさか気付かなかったの?」
「……え……?」

 言われた言葉の意味を考え、井之口は呆然と立ち尽くした。
 磯田は、二人で住む家を買おうとしているのだ。
 さすがの井之口もまさか磯田がそこまでするとは思わなかった。しかし、ただ一緒に住む賃貸マンションを探すだけならもっと早くに見つけることができたはずで、今まで四か月もかかったのは、人生で最大かもしれない買い物をしようとしていたからだったのだ。

「私はずっとここにいるつもり。夕子にもいてほしい」

 ふざけた様子など微塵もない磯田のストレートな言葉に、井之口は一言も返せなった。
 そんなことで本当にいいのか。磯田の輝かしい人生が、自分などの存在で左右されていいのか……井之口の胸はその大きな不安だけでいっぱいに膨れ上がる。もちろん磯田のことは大好きだし一緒にいたいと思うが、これはもう、プロポーズと同じではないか。

「どう? この部屋、気に入らない?」

 黙り込んでしまった井之口に、磯田は心配そうに聞いてくる。
 ぴかぴかのシステムキッチンや、乾燥機能つきの広いバスルーム、大きなクローゼット。それらのすべてが磯田の思いの強さを表しているようで、井之口は部屋を見回すだけで真っ赤になってしまう。
 しかし、答えを待つ磯田の前で、いつまでも黙っているわけにはいかない。
 ようやく喉から絞り出した返事は、本心よりもずいぶん消極的なものだった。

「……未央がいいなら、いいよ」

梅の章 終わり
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