花ものがたり ―梅の章―
【11】


 十二月の初週から第二週にかけて、梅団は赤坂小劇場で井之口夕子と上野皐月を中心としたミュージカル公演を行っていた。
 上演されている『大江戸捕物帳』は磯田が準トップ時代に主演した作品の再演なので、短い稽古期間でもそれなりに形になっている。それでも初日が明けてすぐはバタバタしていたが、三日が過ぎた今はそれも落ち着き、また同じことを繰り返す日々が始まっていた。
 井之口は、主演用に設けられた個室の楽屋で、楽屋着の浴衣から私服のシャツとジーンズに着替えていた。
 今日の公演も無事に終了し、あとはもう磯田の待つ自宅へ帰るだけだ。
 同居していることはあえて人に話してはいないが、自然にわかるのはこの職場環境では仕方がないし、時間差で別々に帰ったりなどの工作をしたりもしていない。かえって隠すほうが怪しいというものだ。
 チェック柄のシャツのボタンを留め終わって顔を上げたとき、開け放しているドアの側に上野が立っているのが鏡に映った。

「あ、皐月、お疲れ様」

 上野はすでに終演後の身支度を終え、真っ赤なコートとボストンバッグを持っていた。帰りの挨拶をしに来てくれたのだ。楽屋を出るときにはトップに挨拶をしなければならないという決まりがあるわけではないが、上野は毎日律儀に顔を出す。
 上野はぺこりと会釈をしてはにかんだ。

「お疲れ様です」
「さっきのフィナーレの扇子出すタイミング、ちょっと早すぎたよね。ごめん」
「いえ、あれは私のほうが悪かったんですから。……あの、私の服、どこかおかしいですか?」

 そう言われて井之口は、上野のふんわりとしたミニのニットワンピース姿に知らず知らずのうちに見入っていたのに気付いた。
 上野はいつもアイドルのような甘い雰囲気の服を着ている。そしてどんなに女の子女の子した服でも、栗色の丸いボブヘアと白い肌にあいまって本当に可愛らしく似合うのだ。
 井之口は男役になったときからずっと、サイズがないのに無理やりメンズの服を着ていた。しかし最近、ワードローブを見た磯田に、

『夕子のシャツ、全部肩が落ちてるじゃない。レディース着ればいいのに』

と言われてしまったのだ。そのときは余計なお世話だと突っぱねたが、内心は揺らいだ。
 劇団員の噂では、磯田は相手役の後藤舞にレースのワンピースを買ってやったりしているようだ。さすがに男役の井之口にワンピースを着ろとは言わないが、そういう服が好みらしいとわかるとなんとなく意識してしまう。
 もともと男役になる前からボーイッシュなスタイルが好きだった井之口には、舞台衣装ならともかく私服で可愛い女の子の服を着るなどということがまったく想像もつかなかった。小児アトピーの名残で年中かさついている肌や、鍛えても鍛えても痩せていくだけの少年のような体で、着こなせる自信はまったくない。いかに男らしくあるかを追求していたときは気にもしていなかったが、上野の可愛らしさが羨ましいと井之口は生まれて初めて思った。

「皐月、可愛いなと思って……」
「もう! 夕子さんこそ、最近色っぽくなったんじゃありませんか?」
「……なっ……!」

 思わず赤くなって鏡を見ると、上野の明るい笑い声が楽屋に響いた。

「すみません、セクハラしちゃいました」

 上野はぺろりと舌を出しながら化粧前に近づいてきた。

「髪、乾かしましょうか?」
「ありがと」

 ドライヤーの電源を入れ、後頭部の髪を動かしながら乾かしてくれる上野の指先は遠慮がちで柔らかい。
 これぐらいは別に珍しいことではなく、タイミングが合ったときにはいつもしてくれるのだが、井之口はくすぐったいような嬉しさと同時に後ろめたさを覚えた。
 無意識に、力強いくせにやたらと丁寧な磯田の手つきと比べてしまっている。
 ひとりで赤くなっていると、背後から、心の中を読まれたような声が聞こえた。

「……あの、不躾でしたらすみません。未央さんとご一緒に住んでいらっしゃるんですか?」

 やはり上野は気づいていたようだ。磯田が来てからは上野を家に招くこともなくなってしまっていたので、最初に気づくのは上野だろうと井之口も思っていた。

「うん、今家を探してるらしくて、見つかるまでの間だけどね」
「お家って、お二人のお家ですか?」
「え?」

 それは違う、と否定しようとして井之口は考え込んでしまった。
 井之口に黙って二人で暮らす家を借りるくらいのことは、磯田ならばやりかねない。
 真面目にその可能性について考え始めてしまった井之口に、上野は気を悪くさせたと思ったらしく、申し訳なさそうに頭を下げた。

「すみません、立ち入ったこと……」
「あ、ううん、気にしないで」
「……あの、お二人は恋人同士なんですよね?」
「……ん……、何か、流れで……今はそんな感じかも……」

 さすがにはっきりとは答えられなかった。何もなかったとはいえ上野とは合意の上で付き合っていたのだ。裏切ったとなじられても甘んじて受けるしかない。

「夕子さん、私のこと、好きになってくださったのかなって思ってました」
「うん……。ごめん」

 数か月前の上野との蜜月とその頃の自分を思い出すと、井之口は俯いて赤面するしかなかった。格好つけて、しかも甘えるだけ甘えたあげく、思い切って惚れることすらできなかったのだから。

「謝らないでください。相手が未央さんじゃ、仕方ないです」
「皐月……」

 井之口は鏡に映る上野を見つめた。
 上野は本気で井之口を好きでいてくれたのだ。そしておそらく今も。
 きっと磯田とのことも、言い出すきっかけがなかっただけで、かなり前から勘付いていたのだろう。
 毎日一緒に稽古をし、舞台に立ち、些細な雑談から仕事の話し合いまでたくさんの会話を重ねてきた。そうやってコンビとしての役割を十二分に果たしながら上野がどんな気持ちでいたのか、井之口には計り知れない。

「ありがとう」
「え?」
「俺なんかの相手役になってくれて」

 上野はドライヤーのスイッチを切り、丸い瞳で鏡越しに井之口を睨んだ。

「なんか、なんて言っちゃだめです。私、夕子さんの相手役にしていただけたこと、人生で一番のラッキーだと思ってますから」
「そういえば、それ、未央が決めたんだ」

 井之口はふと、昔磯田が言っていたことを思い出した。

『あの子、夕子のこと好きでしょ』

 その理由だけで磯田は上野を自分の相手役に選ばなかったのだ。冗談のように軽く言われたその『好き』が、今は切ない。

「そうだったんですか?」
「うん。俺、皐月は未央の相手役になるんだろうと思ってたけど、俺の相手役のほうがいいって未央が……」
「……未央さんにはかなわないですね、本当に……」

 上野の小さくても深い溜息を聞いて井之口は胸が痛んだ。すべては、応えられないと知りながら近づいた自分のせいだ。
 何とかして元気を出させたかった。マシュマロのような肌をしたとびきり可愛い女の子がちびの男役に失恋して傷つくなんて、世の中間違っている。上野のような子なら、きっと誰もが一緒にいたいと願うだろうに。

「皐月……、今度、また家に来てくれる? うるさい小姑いるけど」
「……いいんですか?」
「もちろん」
「未央さんにやきもち妬かれそうですけど……」
「放っとけばいいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 そう答えて笑った上野の目じりには、小さな涙のしずくがにじんでいた。
 それを見て、井之口は強く思った。
 上野を泣かせたことをもう他人のせいになどしない。今日からは自分の意志で磯田と共にいることを選ぶのだ、と。

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