花ものがたり ―梅の章―
【1】




 純白のブラウスの襟元に、深緑・紅・金のストライプのスカーフ。細身の三つボタンの黒いジャケット、センターラインに折り目のついた黒いストレートのパンツ―――。
 それが花水木歌劇団養成所の男役見習いの制服である。
 新入生の井之口夕子(いのくち ゆうこ)は、二年間の浪人生活の末、夢にまで見た憧れの制服についに袖を通すことができた。
それなのに、その新品の制服は、入学式の午後には無残に皺くちゃにされてしまったのだ。

「あんた、制服間違えてんじゃないの? 新入生総代のくせに」
「そうそう、背も低いし髪も長いのになんで男役の制服着てるわけ? 娘役はスカートだよ。ほら、私の貸してあげるから着替えなよ。先生に怒られるよ?」
「わあ、ミカコ、優しい」

 三人の先輩たちは井之口を取り囲んで下品な声で笑い出す。
二十歳という年齢の割に幼い顔立ちと華奢な体つき、しかも規則に従いきっちりお団子にした長い黒髪―――男役部門で合格したとはいえ。そのパンツスーツが花水木歌劇団養成所の制服だと知らなければ、まだ男役として何の訓練も受けていない井之口はスチュワーデスのようにしか見えないかもしれない。

「ほら、着替えなってば」

 言うよりも早く、ミカコという小柄な先輩は手を伸ばして井之口のウエストのボタンを乱暴に外し、チャックを下ろした。

「やめてください!」

 反射的に抵抗する井之口の体を、後の二人が抑えつける。真新しいセンタープレスのパンツは、あっという間にぐしゃぐしゃと足元に絡みついた。

「リサ、この子、禁止用語言ってる。一年生が言っていい言葉は、はい、いいえ、ありがとう、すみませんだけなんだよ」
「あっそれあのマンガに出てくるやつでしょ? 超受けるー」

 また中身のない笑い声が響き、井之口ははっきりとこれは生活指導などではないことを悟った。ミカコの手は乱暴にシャツをたくしあげ、ショーツにかかる。

「本当にやめてください!」
「うわ、この子白いパンツ穿いてる。それも木綿みたいな。お母さんがスーパーで買ってきたの?」
「二十歳にもなってお母さんに下着買ってきてもらうなんてありえないよね」
「絶対処女だよこいつ」
「ねえ、確かめてみる?」

 井之口はなりふり構わず逃げようとしたが、ミカコの手に思い切りショーツを引き下ろされてしまった。足元に服が絡まっているせいで簡単にベッドの上に突き飛ばされる。見知らぬ人の匂いが染みついたシーツの上で、井之口は恐怖に震えて体を丸めた。
 養成所への入学を目指して浪人していたこの二年間は、高校を卒業したばかりの十代の少女には耐えがたいほど心細い毎日だった。大学にも行かず働きもせず、親の反対を受けながらその脛をかじって、いつ報われるとも知れない勉強と肉体訓練を朝から晩まで一人でやり続けたのだ。
 今倒れているこの場所はいったいどこなのだろう。どんな苦労をしてでも入りたかった場所は本当にここなのか。それとも、自分が来るべきところではなかったというのか。
 井之口は、舞台の上の夢の世界に騙されたのだと思った。どんな素晴らしい歌も踊りも所詮すべては作り事で、作っているのはどんな人間かなど観客にわかるはずもない。そんな当たり前のことにも思い至らず、ただ一筋にこの世界に入りたいと憧れていた自分が馬鹿だった。
 絶望と後悔がじわじわと胸を押し潰し始めたその瞬間―――。
それは実際には単なる偶然にすぎなかったが、もしかしたら偶然というのは運命と同じなのかもしれない。
 突然、遠慮のないノックの音と、ドア越しでも良く通る涼やかな声が聞こえてきたのだ。

『リサ、ミカコ、チホ、そこに溜まってるんでしょ? あんたたちいい加減に歓迎会の準備手伝いなさいよ』

 三人の先輩たちは顔を見合わせ、一瞬注意が逸れる。その隙に、井之口は足元のショーツを引き上げようとしたが、その手を一人の先輩が素早くねじりあげた。

「生意気なことすんじゃねえよバカ」

 胸を小突かれまたベッドに倒される。

「未央ごめーん、今ちょっと手が離せないの! 後で行く」
『後でっていつよ。今じゃなきゃ意味ないでしょ。何やってるの?』

 部屋のドアノブがガチャガチャと音を立てて回された。井之口はそれを見つめて息をのむ。

『どうして鍵なんかかけてるの?』
「助けてください!」

 井之口は声を振り絞って叫んだ。
 そのとたんに息ができないほど強く手のひらで口をふさがれ、スカーフもシャツも力任せに引き剥がされた。裸にすれば逃げられないだろうという算段らしい。その方法は確かに効果的だった。肌を包むものがなくなるだけで、体はすくみ気力は根こそぎ奪われる。憧れの制服が皺だらけになり、ボタンが取れ、床に投げ捨てられるのを、井之口はなすすべもなく見ていることしかできなかった。

『何? 何してるの? ちょっとリサ、開けなさい。開けないとドア壊すよ』
「器物損壊は懲戒だよ!」
『あんたたちは懲戒どころじゃないことしてるんじゃないの?』

 ドアノブの音が激しくなった後、何かぶつかるような音が数回したかと思うと、ばりっとドアの蝶番が壊れて部屋の中に短髪の背の高い少女が転がり込んできた。
井之口は助かったと思うより先に、ぼうっとその人を見つめてしまった。なぜなら、これまでの人生で見たこともないようなとびきりの美少女だったからだ。
艶のある黒髪は眉の上に届くか届かないかで斜めに軽く流れ、その下のいきいきと輝く瞳を強調している。化粧をしていないのにシミひとつないさらりとした白い肌に、ほんのり薔薇色に色づいた唇がきつく引き結ばれていた。
 そして、ただ顔かたちが美しいだけではなく、凛とした清冽な雰囲気をまとっている。この人が着ていると憧れの制服さえ凡庸に見えた。

「あーあ、未央やっちゃった。寮のドア壊した人とか初めて見たし」
「リサ、その子誰? ……っていうかまったくあんたらは……」
「余計なこと言わないでよ、未央」

 悪事がばれたとわかると手のひらを返すように保身に走る女たちを横目に、未央と呼ばれているその先輩は、ベッドの上で裸で震えている井之口の方へまっすぐ近づいてきた。

「ごめんね。大丈夫? 早く服着なさい」
「勝手なことすんなよ」

 意地の悪そうな釣り目の男役見習いが声を荒げると、未央と呼ばれているその美しい先輩は強烈な目力で彼女らを睨み付けた。

「あんたたち、こんなことしてこのままで済むと思ってるの? 私見過ごしたりしないからね。学年主任にも言うし養成課長にも報告するから」

 そのきっぱりとしたよどみない口調と響きの良いアルトの声質は、まさに井之口が憧れた男役そのものだった。追い込まれた三人組は急に口をつぐみ顔から表情を消すと、まったく関係のないテレビ番組の話をしながら連れ立ってどこかへ行ってしまった。都合の悪いことは全部なかったことにする主義らしい。
 三人が行ってしまっても、井之口はベッドの上にへたり込んだまま動けなかった。

「あなた、学年総代の子?」

 井之口が頷くと、助けてくれた先輩は、散らばった井之口の制服を拾って皺を丁寧に伸ばしながら言った。

「心配しなくていいよ。あの子たちどうせ劇団には入れないから」
「え……?」
「試験でほとんど赤点なの。特に英語。試験の成績が基準点クリアしてないと劇団員にはなれないからね。そのことわかってるから成績の良いあなたに嫉妬したんだよ。それに、一年の時から素行も悪かったから、今日のことでたぶんクビは決定だろうし」

 美人の先輩はボタンの取れたブラウスを井之口の肩に着せかけてくれた。

「寒いでしょ、早く着なさい。……もしかして、何かされちゃった?」

 気遣うようにそっと覗き込まれたその眼差しの優しさに、井之口は、もう我慢ができなかった。
 会ったばかりの名前も知らない二年生の腕にすがり付いてわっと泣き出してしまったのだ。
 夢を叶えたと思ったとたんに地獄へ突き落され、そこへ救いの神が現れて―――ほんの数分の間に何年分も生きた気がする。井之口にはまだ知るよしもなかったが、それが花水木歌劇団養成所という場所だった。二年間で子供を大人に育て、私人を公人に育て、素人を玄人に育てる。そのために生徒は二十四時間この建物の中で凝縮された毎日を過ごすのだ。

「よしよし、もう大丈夫。怖かったね……」

 強く優しく美しい先輩は、なかなか泣き止むことのできない井之口の背中をいつまでもさすってくれた。
 これが、井之口夕子と磯田未央(いそだ みお)との最初の出会いだった。

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