花ものがたり ―竹の章―
【6】



 七月末、竹団の赤坂小劇場公演とツアー公演が千秋楽を迎え、劇団員には一週間の休みが与えられた。
 その休暇に、竹団準トップ・金子つばさは、同じ竹団の後輩であるトップ娘役の久米島紗智を連れて、世界でも最高級のサービスを提供すると名高いリゾートへやって来た。
 評判にたがわず、まずは伝統の音楽と美しい南国の花輪で歓迎され、鳥の声の聞こえるロビーでフルーツとシャンパンでもてなされ、久米島はすっかり夢心地になってしまったようだ。

「うわあ、新婚旅行みたい……」
「やめなよその例え。お嫁に行けなくなっちゃうよ」

 実は戸澤の身代わりに久米島を誘ったのだが、その事情はまだ話していない。久米島は察しているようだけれども気づかないふりをしてくれている。喋って動くバレエ人形のような可愛らしい久米島が、南国の風物にいちいち感動したり好奇心を募らせたりしているのを眺めているだけでも、金子の心は癒された。
 しかし、二人の為に用意されたコテージに案内されると、さすがに切なさが胸に込み上げた。戸澤はこれを見てどんなふうに喜んだだろうか、と。
 風の吹き抜けるエキゾチックな広いリビングルームには、伝統模様の織物でカバーリングされた大きな寝椅子がゆったりと置いてある。ガラステーブルの上には盛りだくさんのフルーツと蘭の花。何よりも縁の外に見える青く澄んだプールが美しい。寝室は衝立で仕切られていて、雪のように真っ白なシーツで覆われた、ふんわりと丸いキングサイズのベッドが横たわっていた。

「わあ、ベッドが丸い。つばささん、これ『インド人の恋』やれますよね」

 ベッドを指さしながら振り返った久米島の笑顔は無邪気そのものだ。
 久米島はデニムのショートパンツにタンクトップ、金子はマキシ丈のぼかし染めのワンピース姿で、二人とも髪は自然に流している。せっかくの海外旅行だから、ファンの夢を壊さないようにという制約がはたらく日本国内では絶対にできないスタイルをしているのだ。
 海外に来たことで金子の気持ちは少し解放的になっていた。

「じゃあ、やる? 紗智がセリフ覚えてるなら」
「もちろん覚えてますよ。初舞台のときの公演ですもん」

 リビングに置いてあったブランケットを持ち出して、サリーのように久米島の体に巻きつけ、芝居の一場面の再現をして遊ぶ。
 こんな養成所の生徒のようなことを準トップとトップ娘役がやっていると知ったら、竹団の皆はどう思うだろう……あまりに笑いすぎて二人でベッドに倒れ込みながら、虚しさを感じないようにわざと愉快なことだけ考えた。
 リゾートに到着したのはすでに夕方で、長旅で疲れていた二人は、軽い夕食をとったあと、明日に備えて早めにベッドに入ることにした。

「こんなぜいたくな旅行、したことないです」

 真っ白いシーツに身を埋めて溜息まじりにつぶやいた久米島に、金子は苦笑した。

「そりゃそうだよ。ここ、予約とるの大変だったもん」

 リゾート感あふれる大きな丸いベッドは、女二人が横になったくらいではまったく狭さを感じない。サイドテーブルの豪華な切り花、羽のように薄い天蓋、そして、漂うイランイランの香り。まさしくこのスイートは、新婚旅行カップルのために誂えられたものなのだ。

「愛さんと別れちゃったんですか?」
「……それ聞く?」

 久米島は寝がえりを打って黒いつぶらな瞳で金子のほうを見つめてくる。月のない夜だが、窓の外のプールサイドにゆらめく松明の明かりがほのかに伝わり、真剣な表情が見えた。

「今夜は二人だけなんですから、何でも聞きますよ」
「慰めてくれる気なんだ」
「百年早い、ですか?」
「二百年」

 金子の答えに久米島は、もう、と小さく笑った。
 稽古場や舞台では戸澤との間に気まずい空気を出さないように注意している。もともと戸澤の態度はどんなときも淡泊なので、普通の団員には変化がわからないだろう。だが、久米島はおかしいと気づいたのだ。

「紗智に心配かけちゃってるよね」
「いえ。……大丈夫ですか?」

 否定したくせに、久米島はすぐに聞いてきた。後輩の娘役に大丈夫かと言われてしまうほど明らかに弱ってしまっている自分が情けないが、こんな日本から六千キロも離れた外国の島まで来て見栄を張ってもしかたがない。

「もう私、疲れちゃった」
「…………」

 久米島は気遣わしげに可愛らしい眉を寄せた。
 あの夜、ドライブの最中に寮に帰ると言い出した戸澤を途中で降ろしたあと、金子は粟島のマンションに行って何も言わずに一晩中泣いた。粟島にはただ放っておかれただけだったが、それでも誰かがいてくれたことで少しは慰められた。
 別れるのが面倒だから付き合っている。
 付き合うのも別れるのも面倒ならば現状維持。
 それが戸澤の考え方だということがわかってしまった。ずっと現実から目を逸らしていたが、戸澤は金子に対して積極的な気持ちを持ったことなど一度もなかったのだ。思いを告げることも体に触れることも戸澤のほうからということがまったくなかった。
 仕事もそうだ。戸澤はいつも与えられたものを言われた通りにこなすだけで、自分からこういうふうに演じたいと主張したり、新しい仕事を掴みに行ったりすることがない。トップはすべてを与えられているのでそれでも問題なくやっていけるというだけだ。
 そんな戸澤に愛想を尽かすことが自分にはなぜできないのだろう。いくら考えても金子にはわからなかった。ただ思い出すのは、ひとつのダンス場面を一心不乱に稽古している戸澤の姿だ。
 戸澤はダンスの名手と言われているが決して器用なわけではない。振りをとことん自分のものにするまでひたすら稽古を重ね、いつの間にか誰にも真似のできない境地に達している。
 自分から前に出ることはないが、任されたことには着実に期待以上の成果を返す―――そんな戸澤の舞台への姿勢に、金子は憧れたのだ。

「最初から片思いだったの。わかってたけど、愛さんは自分から断ったりしない人だから、それに甘えてた」
「私には、お二人は思い合っているように見えますけど……」
「ありがと。まあ、愛さんも私のことが積極的に嫌いっていうわけじゃないとは思うんだけどね」
「もちろんですよ。つばささんのことが嫌いな人なんていません」

 うっすらと涙が浮かぶほど力を込めて言ってくれる可愛らしい後輩の目尻を、金子は笑いながら指で拭った。

「紗智はいい子だね」
「つばささんのほうが、ずっといい方です……すみません、私が泣いたりして」

 久米島は恥ずかしそうにうつぶせて顔を隠した。金子は、真っ白いシーツに広がる洗いっ放しの蜂蜜色の髪をそっと撫でた。

「ごめんね、こんなとこまで連れてきちゃって。本当は愛さん誘うつもりだったんだけど、夏休みに海外旅行しませんかって言ったら断られちゃったんだ。パスポートを鹿児島の実家に置いてきたから送ってもらうのが面倒だって」
「えっ、去年の年末にアメリカツアーに行かれてたじゃないですか」
「その後にお休みがあったでしょ? 羽田から直接実家に帰ってたんだって」

 本当はパスポートのことだけが理由ではない。戸澤は夏休みには毎日自宅でごろごろしてレンタルビデオ三昧で過ごす予定だったらしく、そしてそれを心から楽しみにしていたようだった。つまり、金子は、戸澤がしたいと思っていることを知ろうとせずに、新婚旅行のような旅行を自分一人で勝手に計画して盛り上がっていただけだったのだ。

「そうだったんですか……。愛さん、面倒くさがりやさんですもんね」
「もともと旅行とかあんまり好きじゃない人なんだよね。ここ予約したときにはそこまでわかってなくて先走っちゃたんだ。恥ずかしい」

 金子がわざと軽く笑い飛ばすと、久米島はシーツの上で頭を振った。シャンプーの甘いココナッツの香りが広がる。

「女性ならこんな素敵なところに来たくない人なんているわけないと思います、私も」
「だよね!」

 大げさに同意すると久米島はくすっと笑ってくれた。世間一般の女性とはだいぶ感覚の違う恋人を相手にしている金子にとって、久米島の優しい言葉は素直に嬉しくて、迷惑かもしれないと思いながらもついいろいろと打ち明けてしまう。

「しかもね、愛さんが寮を出て一人暮らしすることにしたって聞いてケンカしちゃったの。私は前から愛さんにうちに来てほしいって言ってたのに全然考えてくれてなかったみたいで……。それで、もうリゾート予約してあるなんてますます言えなくなっちゃった」

 自分の手を枕にコテージの高い天井を見上げると、知らず知らずのうちに大きな溜息が出てきた。

「なんかもう、愛さんのこと好きすぎて自分の気持ち押し付けてばっかりなんだよね、私」

 一度好きになって側にいることを許されたら、もう気持ちがあふれて止められない。引いたほうが良いとわかっていても、互いに束縛し合わないほどほどの付き合いなどというものは金子にはできなかった。

「いつか本気で好きになってくれたらいいなって思って付き合ってたけど、愛さんを悩ませるのは嫌なんだ。ただでさえ仕事のことで大変なのに私生活までわずらわせるなんてパートナー失格じゃない? きっと、私の方から卒業しなきゃいけないんだよ。あの人、自分からは何もしないもん、告白も別れ話も」
「そんな……。愛さんはちゃんと好きだと思います、つばささんのこと」

 久米島は伏せていた目を上げた。

「私が愛さんからトップ娘役のお話を頂いたとき、愛さんこうおっしゃったんです。つばさちゃんと恋人どうしだからさっちゃんとは付き合えないからごめんね、って」
「え? まさか、紗智、愛さんのこと好きだったの?」

 金子が驚いて思わず身を乗り出すと、久米島は慌てたようにシーツを握りしめて首を振った。

「そんなんじゃないんです、すごいダンサーさんだなと思って憧れていたというか……。でも、そうですね、もしかしたら好きになりかけてたのかもしれません。愛さん勘がいいから、好きになっちゃいけないよっておっしゃってくださったのかも」

 久米島は言葉を切って息を吸い、まっすぐに金子の瞳を見つめてきた。

「だから愛さんの中にはちゃんとつばささんの場所があるんだと思います。つばささんの気持ちとは少し違うかもしれませんけど」
「……紗智……」
「愛さんに好かれてないから別れようなんて考えないでください、つばささん」

 この話を聞くまで、金子は心のどこかで久米島をうらやんでいた。なぜなら久米島は戸澤がみずから選んで相手役に指名した唯一の人間だからである。稽古場で戸澤に告白したあの夜、返事をするかしないかのうちに久米島を追いかけて稽古場を出て行ったことも胸にひっかかっていた。
 だから戸澤が久米島にそんなことを言っていたとは意外だった。戸澤は戸澤なりに初めから金子との関係を大事に思ってくれていたようだ。
 金子はリゾートに来て初めて心から自然に微笑みが浮かぶのを感じた。

「ありがとう。優しいね。紗智を誘ってよかった」
「こちらこそありがとうございま……」

 言い終わらないうちに久米島は可愛らしいあくびをした。

「すみません……」
「ごめんね、遅くまでしゃべっちゃって。疲れたね。おやすみ」
「おやすみなさい」

 眠りについた久米島のすべすべとした頬をそっと撫でながら、金子はもう一度ごめんねと呟いた。この子こそ、若くして戸澤のような特殊なトップスターの相手役になり苦労しているにちがいないのに、金子の愚痴まで聞かされ、トップと準トップを仲違いさせまいと一生懸命に説得してくれたのだ。
 熱帯の長い夜、大きなベッドの中で金子は静かに心を決めた。
 戸澤を支えるにはどうすればいいのか、それだけを考えなくてはならない。愛し返されることを望んではいけない、と。





「おはよー、おはよー、おはよー」

 すれ違う劇団員たちにあまりにも次々と挨拶されるので、戸澤はおはようを機械的に繰り返しながら楽屋の廊下を歩いた。
 竹団の団員に与えられた一週間の夏休みの四日目。
 埼玉県にある芸術劇場では松団の地方公演『ミュゼ・ド・パリ』と『蝉しぐれ』の二本立てが幕を開けていた。戸澤が向かっているのはその楽屋にあるトップ専用の個室だ。
 花水木歌劇団のトップスターには個室が与えられている。それは、皇室関係の女性、いわゆる宮さまと言われる方々が観劇した際には終演後にトップの楽屋を訪れるという昔からのしきたりがあるからだ。つまり、トップ用というより皇室用の部屋なのである。
 松団のトップ・宇津見純は楽屋の扉を全開にしていた。だから、戸澤はノックせずに口で言った。

「とんとん。愛です」
「ああ、来てたの」

 宇津見はすでに衣装を脱いで楽屋着の浴衣姿になり、襟をはだけて化粧を落としているところだった。戸澤を振り返りもせず自分のことに集中している。

「どうだった?」
「よかったよ」
「いつもそれだけだよね、愛の感想」

 そう言われても、他人の感想を敏感に気にする宇津見にそれ以外の言葉が言えるわけがない。
 オイルでドロドロになった舞台化粧を拭き取ると、いつもの宇津見の素顔が現れた。離れて暮らし始めてから二か月ぶりに見る宇津見のすっぴんだ。
 ぼんやりと戸口に立ったまま懐かしいような切ないような気持ちに浸っていると、突然後ろから背中をばしっと叩かれた。

「久しぶり、戸澤。相変わらず邪魔な大きさやなあ」
「才原さん……」

 戸澤の横をすり抜けてずかずかと楽屋に入り、椅子に座って足を組むのは、松団準トップの才原霞(さいばら かすみ)だった。歌劇団屈指の日本舞踊の踊り手であり、ファンから悪魔の目と言われる吸い込まれそうな黒い瞳の持ち主でもある。宇津見や戸澤よりも二年先輩で、五年も前から松団の準トップをつとめていた。つまり、宇津見はこの才原を追い越してトップに就任したのだ。

「そんなところに立ってんと、座ったら?」

 才原は部屋の主である宇津見の代わりに戸澤に椅子をすすめた。そしてペットボトルのお茶を紙コップに入れてくれる。

「ありがとうございます」

 先輩なのにちゃんとトップの補佐的な仕事をやっているのだなと感心したとたん、お茶にむせそうなことを言われた。

「宇津見と別れたんやて?」

 戸澤の顔をさぐるように直視する黒い瞳がきらりと光る。
 宇津見は六月に結婚したことを松団の団員たちに隠し通しているらしく、戸澤もきつく口止めされていた。だが才原は勘が鋭いのできっと宇津見と戸澤が突然寮を出た理由を怪しんでいるのだろう。戸澤は緊張していることを悟られないようにわざとのんびりと答えた。

「別にもともと付き合ってないですよう」
「そうなん? 宇津見と戸澤が仲良すぎてアヤシイいうんは昔から劇団の常識やで」
「あー、なるほど」

 戸澤が他人事のように頷くと、宇津見がたまりかねたように口を出した。

「愛は何でもすぐ信じるんですから、出まかせ言わないでくださいよ」

 才原はにやにやとしている。

「ええやん、人を信じられるのは大事な才能や」
「わあ、才原さんにほめてもらえて嬉しいです、けど、それって騙されやすいってことじゃ……」
「馬鹿ってことだよ」

 宇津見の言葉は二か月ぶりでも容赦ない。才原は面白そうに声を上げて笑った。

「やっぱり仲ええやん。もしかして会うの久しぶりなんと違う? よし、気を利かせてダメ出しタイムは後にしといたるわ。その代わり三十分はみといてな」

 宇津見は疲れ切った無表情のまま会釈し、才原はひらりと手を振って、

「邪魔したな。ごゆっくり」

と楽屋を出ていった。出て行くときに扉を閉めて行ったのは、後輩二人に気を遣ってくれたのだろう。宇津見は才原の存在がストレスの源だといつも愚痴をこぼしていたが、本当は良い人なのではないかと戸澤は思った。
 しかし、才原がいなくなると、宇津見は魂まで吐き出してしまいそうな巨大な溜息をひとつついて戸澤に文句を言った。

「あんたのせいで十五分のダメ出しが倍になっただろうが」
「え?」
「毎公演、終演後に、あの人私にきっちり十五分間ダメ出しするの。二回公演の日でもだよ。しかも毎回違う内容で全部がめちゃくちゃ的確で、それを必死にメモとって次の公演までに直さないとまたボロクソに言われるんだから。自分も舞台に出てるのによくそんなことできると思わない? 人間じゃないよあの人」

 鏡に映る顔が疲れ切っている。それだけ常に準トップの厳しいチェックにさらされていたら、たとえ舞台をさらに良くしたいという仕事熱心さからきているとわかっていても、大変なプレッシャーだろう。

「怖い先生だねぇ」
「今日は愛が来て考える時間与えたからダメ出し三十分に延びたんだよ」
「ごめんごめん」

 宇津見は鏡とにらめっこの作業を終えると、耳の後ろにまだ白粉を残したまま、くるりと椅子を回して戸澤のほうを向いた。

「で、どうした?」

 さすがは宇津見だ。いつもどおりに見せようとしていたが、戸澤はこのところ元気が出ず、普段以上にぼうっとしがちだった。

「別に、夏休みだから観に来ただけ。差し入れあるかなぁって」
「普通持ってくるもんだろ……。はい、大福」
「わあい」

 紙コップのお茶と大福を両手に持っておやつを満喫していると、宇津見はぼそりと指摘した。

「愛、痩せたんじゃない?」
「ああ、うん……五キロくらい」
「五キロも? 一人暮らしでご飯が貧しくなったから?」
「ううん、今までと同じで三食全部食堂で食べてるからそうでもないよ。でも、最近食欲がないっていうか、食べたい物が思いつかなくて、そんなにお腹も空いてないしまあいいかって食べなかったりするんだ。暑さのせいかなあ」

 口うるさい宇津見もおらず、健康に気を遣ってくれる金子も海外旅行へ行ってしまって、大好きなケンタッキーを誰にも文句を言われずにお腹いっぱい食べられると思った戸澤だったが、そんな夢のような計画さえまったく実行する気が起こらないのだった。
 宇津見は立ち上がって戸澤の額に手を当てた。化粧品の匂いのする冷たい掌が気持ちいい。

「マジで大丈夫? 愛が食欲ないなんて相当おかしいよ。病院行ったほうがいいんじゃない? 金子に相談してる? ……っていうか今日一緒に来なかったの?」
「いないの。今、旅行行ってて」
「旅行? ひとりで?」
「ううん、さっちゃんと」

 宇津見はぎょっとしたような顔で戸澤を見た。

「……よくそんなの許したな」
「許すとかって話じゃないじゃん。私が断っちゃったの。旅行行くの面倒くさいって」
「え?」
「パスポートを鹿児島の実家に置いたままだし、夏はお家でごろごろしたいし、って」
「それ金子に言ったの? 最低だなあ」

 宇津見はあきれ返ったように言いながら鏡の前の椅子に戻ってどかりと座った。

「可哀想に。愛と行きたかったんだろ」
「そうかなのなあ。なんか私が一人暮らし始めたことでも怒ってたみたいだし、結局さっちゃんと一緒に行けてよかったんじゃない? 二人、仲良しさんだもん」

 竹団随一のしっかり者の二人は、いつもタッグを組んで戸澤の面倒を見てくれている。たまには戸澤抜きの旅行でのんびり羽を伸ばして楽しんでくればいい。
 そんな気持ちでいたつもりだったが、今になって、面倒くさがらずに一緒に行ったほうがよかったかもしれないと思い始めていた。年に一度しかない連休にただひとりで家にいるだけで何もしていない自分が、とてもつまらない人のように思えてきたのだ。

「そうか。じゃあ今年の夏休みは一人きりで、寂しくてこんなところまで来たわけね」
「寂しい?」

 戸澤は首を傾げた。そう言われれば、この疲労感とやる気のなさは、俗に言う寂しさというものなのかもしれない。
 金子が旅行に出かけてからもう四日目だが、電話もメールも一度もないのだ。

「そっか、そうだったんだ……」

 気がつくと宇津見が化粧前にガックリと崩れていた。

「今まで自覚なかったわけ? ほんと馬鹿」

 起き上がった宇津見は、部屋の隅に積み重ねてある中元の贈答品の箱のなかからひとつを取り、戸澤の目の前に置いた。中身は缶詰の詰め合わせのようだ。

「これ持って帰りな。食事だけはしっかり取らないと、夏バテするよ」
「わあ、ありがと。暑いから出掛けたくないし、でも食べないわけにいかないし、それが悩みどころなんだよねえ。つばさに付いて行ってたら良かったかなぁと思うよ」
「今さら遅い。恋人が相手役と二人で旅行に行ったなんて、それどう考えても当てつけだろ。今ごろ浮気されてんじゃないの」
「純!」

 思いもかけない宇津見の言葉に、戸澤の心の中は突然かき曇った。
 金子は自分に惚れているのが当然だと思っている戸澤は、金子が浮気する可能性など夢にも考えたことがなかった。もちろん久米島のことも、自分を一番に考えてくれる相手役だと信じている。あの二人に限ってそんな裏切りは決してしないはずだ。
 だが、もしも金子を失ったらという恐怖感は、一度浮かんだが最後、戸澤の胃を掴んで離れなくなってしまった。こんな嫌な苦しさは戸澤には初めてだ。
 人にも物にも執着せず、見返りも求めない。そうやって贔屓と嫉妬をかいくぐり、なるべく傷つかないように生きてきたはずなのに。

「ねえ純、私、捨てられるのかなあ……」
「そうかもね」

 宇津見に呆れられ、戸澤は、一刻も早く金子に会いたくてたまらなくなった。

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