【7】 その翌々日。 早朝六時、羽田空港の国際線ターミナルの到着ロビーに戸澤は来ていた。 「えっと、全日空の、なんとか便だから……」 金子と久米島の乗った飛行機の時間をわざわざ調べて空港まで迎えに来たのだ。休暇中はだらだらしすぎて生活リズムが昼夜逆転になってしまったので早起きはつらかったが、帰って来るのを待ってなどいられない。早く二人の顔を見て安心したくてたまらなかった。 到着時刻を過ぎてしばらくたっても二人は現れず、待ちくたびれて、もしかしたらよそ見をしているときにすれ違ってしまったのかもしれないと思い始めたころに、自動ドアからすらりとした二人組が出てきた。 ふわふわとした薄茶色の髪の背の高いジーンズの妖精と、蜂蜜色の髪をポニーテールにした小柄なミニワンピース姿の妖精が、それぞれ大きなスーツケースを転がして楽しげにしゃべりながら歩いてくる。 戸澤は一瞬声を掛けるのをためらった。まるで絵のような二人だったからだ。 その一瞬の間に、金子が戸澤に気づいた。 「愛さん……。どうしてここに?」 金子は驚いてその場に立ち尽くしている。 「うん。来ちゃった」 少し日焼けした金子の顔を見て戸澤は言葉につまった。会いたかった、という一言がすらっと口から出てこない。もたもたしていると久米島の明るい声に救われた。 「愛さん、ただいま帰りました!」 「おかえり。さっちゃん、楽しかった?」 「はい、とっても」 久米島は嬉しそうなとびきりの笑顔で元気に頷いた。 「つばささんをお借りしちゃってすみません」 「ううん、気にしないで」 とりあえず二人に後ろめたそうな感じがないことにほっとして、戸澤は落ち着いた。浮気旅行というわけではないようだ。 「愛さんが迎えに来てくださってるなんてびっくりしました。つばささんに早く会いたかったんでしょう?」 久米島がにこにこと首を傾げて見上げてくる。 「うん、まあ……」 柄にもなく照れていると、ずっと黙っていたつばさが口を開いた。 「愛さん。私、愛さんと別れてもいいです」 「え……」 まさかこのタイミングで言われると思わなかった言葉に、戸澤は凍り付いた。 昨夜暑さにうなされて見た悪夢の中の台詞にそっくりだ。夢の中で金子は持ち前の輝くような笑顔を全開にして言っていた。『私、紗智と恋人どうしだから愛さんとは付き合えません。ごめんなさい』と。 だがこれは現実で、目の前には真剣な表情をした金子がいる。 「私は好きになったらその人の全部が欲しくなって迷惑とか考えられなくなっちゃうし、それにやっぱり好きな相手にも同じくらい自分のこと求めて欲しいって思ってしまうんです、どうしても。だから、もし愛さんがそういう関係が面倒なら……」 「つばさ!」 「……別れてください。私の恋人じゃないんだと思えば、愛さんの気持ちは諦められます。自分の気持ちは変わらないですけど」 きっぱりと戸澤を見つめるその瞳は忠犬のように一途で傷ついていた。旅行中、金子も寂しかったのだ。そんなことも想像できず、二人に置いて行かれたと思っていたことが申し訳なくて恥ずかしくて、とにかく謝りたくて仕方がない。 「ごめん、つばさ、本当にごめん。私、寂しかった。つばさに会いたかった。だから迎えに来た」 途切れ途切れになってしまったが、言いたかった言葉がやっと出た。 そして持ってきた小さな紙袋を金子に差し出す。 「誕生日おめでとう。おとといだったよね。ほんとにごめんね」 「覚えててくださったんですか? 絶対忘れてると思ってました」 金子の言うのも無理はない。この夏休みの旅行の本当の目的は、金子の誕生日を二人でロマンチックなリゾートで過ごしたいというものだったのだ。それを無視して面倒くさいと言い放った相手がプレゼントを用意していたのだから驚くのも当然だ。 「愛さん、もしかしてこれ、手作りですか?」 金子は紙袋から白地にオレンジの植物柄が入ったネクタイを出して大きな目を零れ落ちそうなほど見開いている。ラッピングを整えるまでの気は回らなかったが、正真正銘そのネクタイは戸澤の手作りだった。 「うん、初めて作ったから汚いんだけど……。同期の娘役に教えてもらったんだ」 久米島も金子の手元を覗き込んで歓声を上げた。 「わあ、シルクだ。これスカーフの柄ですよね。とってもお洒落です。こんなのが作れるなんて、愛さんすごい」 「そんなことないよ、まっすぐ縫っただけだし。なみ縫いって言うんだっけ」 ネクタイを握りしめたままの金子の反応を気にして様子をうかがうと、戸澤が今まで見たこともないような呆けた表情をしていた。頭も良く性格も明るい金子は、たまに戸澤の前で泣くとき以外はきりっとした真剣な顔か満面の笑顔しか見せることがないのだ。 「つばさ、どうしたの?」 金子はスーツケースを放置して人目もはばからず両腕を戸澤の首に投げかけてきた。 「こんなこと、されたら、期待しちゃうじゃないですか……」 耳元でささやく震える声も、首に触れるふわっとした髪のくすぐったさも、グリーン系のオードトワレの香りも、すべてが懐かしくて愛しい。 「愛さん、私のこと、好きなのかもしれないって……」 戸澤は、金子の体をゆっくりと味わうように抱きしめた。あたたかく息づいている愛しいこの体を、もう二度と遠くへやりたくない。 「好きだよ。今までちゃんと言わなくてごめん。つばさがいない間、寂しくてご飯もあんまり食べられなかったんだ。一緒に行けばよかったって思った」 金子は戸澤の首にかじりついたまま腕の中で震えているだけだ。すぐ隣で久米島が目のやり場に困ったように下を向いて笑っている。 伝えられることはすべて、ためらわず即座に伝えてしまわないといけないのだ、と戸澤は思った。いつかという時などどこにも存在しない。黙っていたら楽だから、傷つかないから、考えなくていいから……そんな気持ちが二人の関係をさらに遠く面倒なものにしてしまうのだ。 戸澤は金子が落ち着くように背中を撫でながらずっと前に言うべきだったことを言った。 「あのね、一人暮らし始めたのはね、つばさにいつも何かしてもらってるだけの私じゃダメだと思ったからだよ。お料理勉強してつばさに朝ごはんぐらい作ってあげられるようになって、車の免許もとって、お裁縫も練習して、ちゃんと自分のことできるようになって、それからじゃないと一緒に暮らしちゃいけないって思ったんだ。そうじゃないと、つばさがいなかったら何もできない人のままだから」 金子は首を振って顔を上げ、濡れた瞳でとびきりの笑顔を見せた。 「何もできなくてもいいんですよ……もう、愛さんってば……」 さすがに久米島や周囲の目が気になったのか、金子は照れたように鼻をこすりながら戸澤から離れてスーツケースを持ち、深く一礼した。 「ありがとうございます。プレゼントも、お迎えも。あらためて惚れ直しました」 「そんな照れること言わないでよ、こんなとこで」 どこにいても目立ってしまう自分の体の大きさと中性的な外見が急に気になって、戸澤は今さらのようにあたふたした。 そんな気恥ずかしい雰囲気の二人の間に久米島がぴょんと身軽に飛び込む。 「私も今回の旅行で愛さんとつばささんのこともっともっと好きになっちゃいました!」 「ありがと、私もさっちゃん大好き」 「紗智、ほんとにいろいろありがとうね」 心配事が片付いたとたん、戸澤は突然空腹を感じ始めた。そういえば最近食欲がなかったせいでろくな食事をしていない。 「なんか、お腹空いちゃった。ご飯食べない?」 三人は大きな荷物を引きずって羽田空港の食堂へ行き、夏休みの思い出をいっぺんに作ろうとするかのように、思う存分食べて飲んで笑った。 戸澤が金子と一緒に暮らし始めたのは、それから半年ほど過ぎた頃のことである。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |