花ものがたり ―竹の章―
【5】




「ただいま」
「帰ってこなくていいのに」

 一週間ぶりにおそるおそる寮の自室に戻った戸澤だったが、予想に反して宇津見は怒ってもいなかったし心配してもいなかった。戸澤がどこにいたのかもわかっているようだ。

「なんでそんなこと言うの? 相変わらず冷たいんだからもう」

 シートパックを顔に張り付けたままベッドの上でストレッチをしている宇津見を横目に、戸澤はさっそく自分のベッドへもぐりこむ。明日からまた始まる疾風怒濤の稽古に備えて早く寝るのも仕事のうちなのだ。それに、金子の機嫌を損ねたことでひどく疲れてしまった。

「さっき、つばさに泣かれちゃってさ」
「また? お前が悪い」
「ちょっと、まだ理由とか何も言ってないじゃん」

 拗ねて寝返りをうち、腹這いになって文句を言う。

「どうせ寮に帰るなって言われたんでしょ」
「なんでわかるの?」

 びっくりする戸澤を横目に、宇津見は大きな溜息をつきながらシートパックをはがした。

「恋人に泣いて引き留められたのにどうして帰ってくるかな……」
「だって」
「愛ってさ、まだ誰も好きになったことないでしょ」
「そんなことないよ。つばさのこと好きだし、意外と恋多き女だよ」

 今まで付き合った人数は中学時代から数えて両手の指にはゆうに余る。生まれ育った鹿児島の山岳地域では恋愛以外に若者の娯楽はなかったし、花水木歌劇団に入ってからは初めて女に告白され、戸惑いながらもそういうものかと受け入れてきた。見た目と性格の割にはモテる、という自覚がある。

「そういうことじゃない」

 宇津見は戸澤の寝ているベッドに腰を下ろした。

「愛は自分を守りすぎなんだよ。オーディション受けないのもやる気ないふりしてるのも、自分の本気が通用しないと思いたくないからでしょ。悔しくて泣いてる姿も嬉しくて泣いてる姿も見たことない。みっともないところは誰にも見せない。恋愛だって同じ。自分がどうなってもいいと思うほど相手に惚れたことないじゃない」

 宇津見の言うことは正しかったが、その生き方は戸澤があえて選んできたものだった。同室になったくそ真面目な優等生のライバルにはなりたくなかった。同期の矢面に立って傷つき泣いている彼女を、いつもおおらかに受け止める存在でいたかった。自分の人生にそれ以上のものは望んでいなかったのだ。

「そんなことしたら、私じゃなくなる」
「そうね。いつもひょうひょうとしてるのが愛のいいところだもんね。そんな愛を見て落ち着くときもある。ま、腹立つときもあるけど」

 宇津見は戸澤のベッドに移ってきてごろりと寝ころんだ。体温をほのかに感じる距離が心地いい。宇津見が愛用しているハーブ系のシャンプーの香りが戸澤の心を落ち着かせた。やっぱりここが自分の帰ってくる場所なのだという気がする。この関係がなくなることなど考えられなかった。

「ねえ純。私たち、付き合おうか」

 なんだかとてもいい解決法のような気がしてそう言うと、宇津見は起き上がって自分のベッドへ戻ってしまった。

「馬鹿。お前はどこまで楽な方へ逃げる気だ」
「ちゃんと傷つく覚悟できたから言ったのに……」

 自分から告白のようなことをしたのは正真正銘生まれて初めてだったのだが、それは考慮してもらえなかったようだ。

「愛。明日言おうと思ってたんだけど、私、来月結婚するんだ」
「え?」

 あまりにも突然の報告に、さすがの戸澤も思わず起き上がって宇津見をまじまじと見つめた。
 ずっと同じ部屋に住んでいながらそんな事態になっていることにまったく気が付かなかったとは、いくら鈍感でも親友としてまずいのではないだろうか。

「本当なの?」
「うん。劇団の誰にも絶対知られたくなかったから隠してたの、ごめんね。知られると大騒ぎになるし、記者会見も開かないといけないし、披露宴とかも大々的にしなきゃならなくなるからさ。こっそり籍だけ入れて、仕事に影響ないようにしたかったんだ」
「そんなのって、無理じゃない? 任期後にすればいいのに」

 劇団員に既婚者は数名いるが、トップスターで任期の間に結婚した人など聞いたことがない。それにもし妊娠でもすれば、たいていは退職するか事務職へ異動することになる。子供がいては到底こなせない長時間の肉体労働な上、一年に数か月は旅公演で家を空けなければならないからだ。

「ずっとそう思ってたんだけど、タイミング逃したくなくて。彼が家にいてサポートしてくれたら私は仕事に集中できる。結婚前提に付き合いだしてからストレスが前よりかなり減ったんだ。それで気づいた。私、ずっと不安だったんだって……」

 そうかもしれない、と戸澤は思った。
 宇津見はある意味では戸澤よりずっと普通の人なのだ。実力もあり華もある美人だが、本当は芸能人になるような自己主張の激しさや、何を言われても平気でいられるようなしぶとさは持っていない。それなのに若い頃から抜擢され続け、自分よりキャリアも実力も上の準トップに気を遣いながら、劇団の代表である松団トップをこなしている。

「失敗しても、折れても、逃げても、年取って綺麗じゃなくなっても、この人は私が私だったらそれだけでいいんだって思うとほっとする。もうこの先ひとりにならなくて済む、って」

 宇津見は照れているらしく低い声で淡々と言いながら部屋の明かりを消した。

「私だって純がどんな純でも好きだよ」

 そこは一応主張しておいたが、宇津見は、

「うん、そうね」

と軽く相槌を打っただけだった。
 結婚―――。
 その正義感と安心感に比べれば、養成所時代からの絆も一緒に過ごした日々の重みも、さらりと流せるものになってしまうのか。
 戸澤は宇津見のベッドに勢いよく飛び乗った。古いシングルベッドが悲鳴を上げるのにもかまわず、寝ている宇津見の掛布団の上から全体重をかけ、思いっきりぼこぼこと叩く。

「ちょっと! 何すんの馬鹿! やめろって!」
「馬鹿じゃない! 馬鹿は純だよ。私はずっと……ずっと……」

 戸澤は布団ごと宇津見を抱きすくめて足技をかけた。
 好きなどという言葉では言い表せないくらい、長い間宇津見は戸澤の一部だった。けれどもう自分の役割は終わったのだと知れば、抱きしめる以外に言葉がない。

「知ってるよ。愛はいい子」

 宇津見は戸澤の頭を抱いて短い髪を撫でてくれた。

「私たち二人とも、ここに居る限り先へ進めないって、もうずっと前からわかってたじゃない。私は愛にも自由になってほしいんだ」

 戸澤には、宇津見の気持ちがわかりすぎて拒否などできなかった。ただ胸が痛いだけだ。

「というわけで私は五月いっぱいで寮出るから、愛も出なよ」
「えー、面倒くさいよ……」
「二人とも出て行けば一部屋空くでしょ。来年度になったらまた新人が入ってくるんだから、そろそろ譲らないと」

 十四年間も占拠していたくせに、宇津見はいまさら聞こえの良いことを言った。
 鹿児島から上京して以来住み慣れた寮を出る。いざ現実になると、戸澤はどうしたらいいのかわからなかった。どのあたりに部屋を借りたら良いのかさえわからない。その前に、どうやって住まいを探せばいいのかも、いくらの家賃なら払えるのかも見当すらつかなかった。竹団のトップという立場を考えればそれなりのグレードのセキュリティの整ったマンションを選ばなければならないだろうし、周りの環境も重要だ。
 それに食事はすべて食堂ですませていたので料理もまったくできない。部屋の掃除やインテリアや収納、日用品の買い物も宇津見におまかせだった。気づくのが遅すぎたが、寮での暮らしに必要なことはすべて宇津見がやってくれていたのだ。

「私、つばさのところに戻ったほうがいいのかな」
「それは自分で決めること。ほら、あっちのベッドに帰って」

 宇津見は戸澤に背を向けて寝てしまった。
 金子の家に居候すれば、通勤のときもベンツに乗せてくれるし、食事の支度や掃除洗濯も全部金子がやってくれるだろうから、今までどおりに楽をしていられることは間違いない。
 しかし、それでいいのだろうか。
 戸澤は初めて、楽をするという選択に疑問を感じていた。

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