花ものがたり ―竹の章―
【4】



 おそるおそる触れてきた手にいきなりきつく患部を握られ、戸澤は悲鳴を飲み込んだ。

「………っ!」
「あっすみません、痛みますか?」
「もう、つばさ、乱暴なんだよ……」

 金子の手を払いのけ、戸澤は腫れている左の足首に自分で肌色のテープを巻き始めた。金子は追い払われた猫のようにしょんぼりとソファの上で膝を抱えてこちらを見つめている。
 普段は不器用の見本のような戸澤だが、テーピングだけは手慣れていて、三分もかからずに関節をしっかりと固定した。

「これでよし。寝よう」
「寝ようって、まだ八時ですよ?」

 びっくりしたような金子の声がすぐ耳元に降りてくる。金子は戸澤の腕を抱いてソファに座るのを助けてくれた。
 こんなに優しくしてくれる恋人は戸澤にとって初めてだった。一週間前、部屋に遊びに来ないかと誘われて、行ってみると美味しい食事を作って食べさせてくれ、パジャマから下着まですべて用意してあった。ベッドも足がはみ出すことのないキングサイズだ。何くれとなく世話を焼く金子はまるでお嫁さんのようで、あまりの快適さにずるずると今日まで泊まり続けている。

「まだ八時だけど疲れたんだもん。明日稽古行きたくない。休みたい。足痛いよう」

 絶対に誰にも言えない愚痴が、金子の前では次から次へと出てきた。
 トップに就任して以降、稽古場での仕事量が急増し、休日の夜はいつも気分が落ち込んだ。だが寮の部屋にいるときに愚痴をこぼすと、たとえ独り言のつもりでも宇津見に聞かれて怒られてしまう。自分に厳しく他人にも厳しい宇津見は、どんなに大変なときも泣き言などいっさい言わない性格だからだ。

「痛いの痛いの、飛んで行けー。はい、これで明日には少し良くなってますよ」

 金子は優しく足首を撫でてくれる。
 戸澤は人より大きな体で力をセーブすることなく思いっきり踊る上に、多少無理な動きでも一番美しく見える形を無意識に求めてしまう。さらに、もともと自分の体のメンテナンスに気を遣うような性格ではないこともあり、昔から怪我が多かった。
 公演中に無理を重ねて容態を悪くし、翌月は治しながら稽古する――その繰り返しである。あまりにも日常になっているので、周囲も戸澤が本調子でないということにはなかなか気付かない。出番が少なかった頃にはそれでもよかったが、トップとして多くの場面の芯を務めるようになると、稽古の量も段違いに増えて痛みをやり過ごせなくなってしまった。
 戸澤は背中を丸めて金子の胸に頭を摺り寄せた。金子の体は柔らかくて、ほっとする匂いがする。そして、大きくて重たい戸澤の体もしっかりと受け止めてくれる。

「そのおまじない、子供のときから効いたためしがないんだけど……。ごめんね、つばさ、こんなのがトップで」
「何言ってるんですか、愛さんは最高のトップさんですよ。みんな愛さんのこと慕ってるじゃないですか」
「ほんとは心の中でばかにしてるんじゃないの。何もできないって」
「そんなこと絶対ないです! 愛さんは私たちの誇りです。花水木歌劇団でいちばん格好いい男役スターさんです」
「いちばんなんかじゃない……つばさは私のこと好きだから贔屓目で見てるんだよ」
「もちろん私は愛さんが好きですけど、私だけじゃなくてみんなそうですよ」

 金子は戸澤のベリーショートの髪をくすぐるように撫でながら一生懸命元気づけてくれる。だが、金子は良い子すぎて何を言われてもかえって信じられないのだった。
 トップになってから、突然竹団の団員五十名の最前列の真ん中に立たされ、劇団内部からも日本全国のファンからも戸澤の一挙一動に熱い視線が集中するようになった。そんな状況でも戸澤は今まで通りのマイペースを貫こうとしていたが、それは容易なことではない。

「そんなの信じられない」

 ぎゅっとつぶった瞼に竹団の団員たちの顔が浮かんだ。稽古場では皆楽しげに隣の団員とおしゃべりをしていて、戸澤のことや竹団の行く末などまったく心配していないようだった。自分だってトップになる前はいつもぼんやりとセンターの後姿を眺めているだけだったのだから彼女たちと同じだが、急にひとりぼっちで放り出されたような気分になる。団のなかの誰にも、戸澤の気持ちはわからない。

「ずるいよみんな……全部私に押し付けてさ……私にトップなんかできるわけないのに。もう花水木やめたい。鹿児島に帰りたい」

 柔らかな胸を相手にもごもご愚痴ると、頭をいじっていた金子の手が止まった。

「愛さん、ドライブ行きましょう」
「えっ、今から? 嫌だよ、面倒くさい」

 もう入浴を済ませて部屋着でくつろいでいるところなのだ。今日はこのまま金子を抱きしめて眠りについてしまいたかった。

「オフもずっと家にいるだけじゃリフレッシュできないじゃないですか。私だってたまには愛さんとデートしたいんです」

 一日中家に閉じこもりベッドとソファからほとんど動かないのは、足に負担をかけないためでもあり、過酷な肉体労働の合間に体力を回復させるためでもある。ショッピングはサイズの問題でもっぱら海外通販を利用しているし、ヘアサロンやマッサージも劇団本部内の施設を利用して出勤時に済ませているので、休みの日にわざわざ出かけることはない。

「いつも一緒にいるんだからデートなんてしなくてもいいじゃん。今さら着替えたくないし」
「一緒にお出かけして一緒にいろんなもの見たいんです。パジャマのままでいいですから!」

 普段は素直に言うことを聞く金子が珍しく粘るので、戸澤は溜息まじりに頷いた。

「いいよ。どこ行くの?」



 それから三十分後―――。

「すごい……」

 戸澤は初めて見る東京湾岸の夜景に目をみひらいていた。
 月曜の夜の首都高速道路は空いていて、金子の運転する白のベンツは工場地帯のきらめく明かりの中を滑らかに走っていく。

「ショウの曲かけて」
「いいですよ」

 金子の左手がMDをマシンに押し込んだ。稽古熱心な金子は、ショウで使われている曲の原曲を集めて自分でMDに編集し車の中に常備しているのだ。原曲を聞くことで、曲の本来持っている世界観を短いシーンの中でも表現できるのだという。その話を聞いたときはマメだなあと思っただけだったが、実際にMDを聞いてみるとなるほどと感じることもあった。
 黒人女性ボーカルの力強いシャウトが、強いビートに乗って暗い車内に鳴り響く。
 車のスピード感や体に伝わるわずかな揺れが音楽と相まって、ドライブの興奮をさらに高めた。都心に向かって戻り始めると、さらに華やかな光の粒が限りなく遠くまで広がっていく。
 この曲は、金子演じる純朴な青年が、ふと迷い込んだニューヨークのクラブで、戸澤演じる『夜の女王』という魔性の女に翻弄される……という場面の曲だった。夜のドライブというシチュエーションで聞いてみると新しいイメージがどんどん湧きあがってきて、早く稽古場で具体化したいという思いに駆られた。

「……早く稽古したいな」

 金子は前の車のテールランプを浴びながら嬉しそうに微笑んだ。

「良かった、私もです。今ここで、ちょっとだけやりませんか?」
「え、車なのに? ああ、あれか。つばさってば……」

 ダンスシーンのクライマックスで、夜の女王が青年の魂を虜にするキスをする。高速を降りて赤信号で止まったとき、計ったように音楽は最高潮に達し、金子の表情が鮮やかに青年に変わった。それを見て戸澤も自然と彼を狙う夜の女王になる。
 二人は完璧なタイミングで唇を合わせ、短い赤信号の間に嵌れるだけ深みに嵌っていった。





 そういえば、と中央区に差し掛かった車の中で戸澤はふと思い出した。
 金子の住まいに転がり込んでからもう一週間も寮に帰っていない。そろそろ着替えも底をついてきたし、何よりも同室の宇津見が心配しているだろう。養成所時代のように厳しくはないが、一応寮の規則としては外泊するときは届け出なければならないのだ。

「ねえ、このまま寮まで送ってくれない?」
「えっ」
「そろそろ帰らないとまずいんだ。純に怒られるし」

 返事がないので不思議に思って運転席の横顔を見ると、金子は唇を噛みしめてフロントガラスを見つめている。

「つばさ、本部行ってよ」
「いやです」

 金子の顔が急に泣きそうに歪むのを見て、戸澤はハンドルを握らせておくのが心配になった。

「そんなこと言ったって、私、寮生なんだもん。帰らなきゃ」
「帰らないでください」

 金子の口調はいつになく激しかった。寮に帰ると言っただけでこんなに怒らせるとは想像もしていなかったので、戸澤は困惑した。

「どうしたの、つばさ。回り道したくなかったらここで降ろしてくれてもいいよ」

 突然金子は路肩にベンツを停めサイドブレーキを引くと、助手席の戸澤に抱き着いてきた。

「いやです、行かないでください。宇津見さんのところに帰ってほしくないんです。寮、出てくれませんか? うちにずっと住んでいいですから……私がずっとお世話しますから」
「つばさ、そんなことできないよ。つばさだって準トップなんだから私の世話なんてしてる場合じゃないでしょ」
「でも宇津見さんはトップさんなのに愛さんのお世話してらっしゃるじゃないですか」
「してないよ」
「してます!」

 胸の中の金子がついに泣き出したので戸澤は困っておろおろと背中をさすった。こんなところで車を止められたらにっちもさっちもいかない。戸澤は運転ができないのだ。

「いやだ、愛さん、行かないで」

 しゃくりあげる金子を途方に暮れて見下ろしながら、戸澤は長い溜息をついた。なぜだか金子は宇津見に対抗意識を持っているようだ。どうして女というものは恋人のすべてを自分のものにしなければ気が済まないのだろう。人には人の生活があるというのに、それまでも明け渡さなければならないのか。
 金子が嫌いなわけではない。確かに告白された当初は金子を恋人にしておけば何かと好都合だという程度の気持ちだったが、それももともと彼女の人柄を信頼し好もしく思っていたからこそだ。今までひとりの相手とこんなに長く続いたことはないし、宇津見にも言わずに一週間も無断外泊したのも初めてだ。
 お互いに好きでこれからも付き合っていきたいと思っているのに、金子が泣くほどつらくなってしまう理由が戸澤にはわからなかった。

「つばさ、なんで泣くの? 私この忙しいのに引っ越しなんてしたくないし、寮にいれば通勤しなくていいから楽なんだもん。ご飯だって食堂で食べれば片付けもしなくていいんだよ?」

 金子は戸澤の胸から起き上がって俯いたまま言った。

「そんなに寮がいいなら帰ればいいじゃないですか」
「うん、そうするね」

 今着ている服は部屋着のスウェットの上下だが、別にこの格好でタクシーに乗ってもかまいはしない。幸い財布だけはポケットに入っている。戸澤がシートベルトを外し車から降りようとすると、金子に腕を掴まれた。

「愛さんは私が好きなんですか?」
「もちろん」
「断ると面倒だから付き合ってるのかと思いました」
「ん……それもあるけど」

 気づいたときには戸澤は夜の街のコンビニの前に放り出され、金子の白いベンツは走り去っていた。

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