【3】 花水木歌劇団の寮では、先輩の部屋に入るときの作法が厳密に決まっている。 その作法は、たとえ恋人との逢瀬であっても破ってはならない。 竹団の準トップ男役に任命されたばかりの金子つばさは、養成所時代に叩き込まれた作法どおりに戸澤の部屋の扉の前に立ち、興奮と緊張のせいで爪先立ちになりながら声をかけた。 「六○二号室の方、いらっしゃいますか。竹団の金子つばさです」 『はーいどうぞー』 いつもどおりの間延びした声が聞こえてきたのに思わず笑みを浮かべ、 「失礼いたします」 と扉を開けると、戸澤は薄暗い照明の下で二つ並んだベッドのひとつに長身を横たえていた。 六○二号室は金子が十代の頃に二年間を過ごした他の部屋とまったく同じつくりだったが、ところどころに置かれた観葉植物や、床に届くほどたっぷりとした薄布のカーテン、ほのかに漂うルームフレグランスのせいで、単なる寮の一部屋とは思えない大人っぽい雰囲気が漂っている。 戸澤は少し前の誕生日に金子がプレゼントした柔らかそうなシルクのロングシャツを着て、グラスに入った琥珀色の冷たい飲み物を飲んでいた。もう時刻は真夜中に近いが、この時間に部屋で待ち合わせようと言ったのは戸澤だ。今夜は二人が付き合い始めてから初めてのいわゆるお泊りデートなのである。 「えっと、いらっしゃい。なんか緊張してる?」 稽古場で見る集中した表情とは違うとろけるような微笑みと、手招きにも見えるだらりとした手の振り方に、金子の心臓はどくんどくんと高鳴り始めた。戸澤は存在自体がたまらなくセクシーなのだ。ノーメイクで言動も無造作なのに、彼女のすべてが金子の瞳も心も奪ってしまう。 普通、男役というものは、外見や立ち居ふるまいを少しでも格好よく見せるためにありとあらゆる努力をするものだ。だが戸澤はそんな努力を一切せず、自然体でただそこにいるだけで独特の中性的な雰囲気を醸し出していた。 ベリーショートの似合う美しい頭の形、浅黒くなめらかな肌、描く必要のない天然の眉、細い筆で描いたようなアジア人らしい顔立ち、そして長い長い手足。もしも運命のいたずらで花水木歌劇団の男役になっていなかったら、ヨーロッパでファッションモデルでもやっていただろうと思わせるような外見である。 「正直言うと少し緊張してます。もう寝ていらっしゃったんですか?」 「うん。お風呂入ったら眠くなっちゃって」 戸澤が大あくびをしたので金子は焦った。戸澤は自然体すぎて食欲と睡眠欲が何よりも勝ってしまうときが多いのだ。 「寝ないでくださいね、せっかく約束したのに。あの、私も、お風呂をお借りしていいですか?」 「え、いいけど……」 金子は逸る気持ちにまかせて部屋の奥のバスルームに飛び込み、次の瞬間、そこから飛び出した。 バスルームの中には先客がいたのだ。しかも、全裸で。 『ちょっと! 今の、どこの変態?』 ドアの向こうから怒号が聞こえ、金子は先ほど目にした裸体を思い出し、血の気が引いた。細身だが女らしいスタイルと劇団員には珍しい黒髪は、この部屋のもうひとりの住人である宇津見純その人に違いない。戸澤とデートの約束をしたとき、同室の彼女は当然よそへ泊るのだろうと思い込んでいたが、なんと、そうではなかったのだ。 「宇津見さんがいらっしゃるって、どうして……」 「だからさ、今お風呂使ってるよって言おうとしたんだよ」 そういう問題ではない。恋人を泊める前提で部屋に呼んでおきながら、いったいどういうつもりなのだろうか。 しかも、同居人の宇津見は生真面目で神経質な性格の持ち主として有名なのだ。金子が養成所に入りたての頃、一学年上の上級生たちの中で最も口やかましかったのが彼女だった。 よりによって宇津見のいるバスルームを覗いてしまうなんて。 金子は泣きそうになって戸澤に詰め寄った。 「なんで宇津見さんがいらっしゃるんですか? 今日、私が来るって……」 「自分の部屋にいて何が悪い!」 鋭い声に思わずびくりと振り向くと、ジャージ姿の宇津見が仁王立ちになっていた。 「愛も愛だけど金子も金子だまったく。先輩の部屋に来るときは許可ぐらい取ったら? 何年劇団員やってんの」 「すみません! 愛さんが話してくださっているとばかり……」 金子は必死で頭を下げたが宇津見は許してくれなかった。 「言い訳しない。あんたが悪い。今日は帰って」 「宇津見さん……申し訳ありませんでした……」 夜の稽古場で戸澤に告白し、いかにも面倒くさそうにOKされてから、金子はずっと自信がなかった。話しかけるのも食事に誘うのもキスするのもいつも金子からで、戸澤は気が向かないときは返事すらしてくれないこともある。トップと準トップだから仕事上の関係が気まずくならないように仕方なく付き合ってくれているだけなのかもしれないけれど、もしそうだとしても、情熱と真心の力でいつか必ず惚れさせてみせる、と金子は心の奥で誓っていた。 それが、今夜は初めて戸澤のほうから誘ってくれたのだ。部屋に来て泊まって行ってもいいと。 その天にも昇る嬉しさが、一瞬にして地獄に変わる。 「昼間稽古場で気遣って大変なのに寮の部屋にまでごたごた持ち込まないで、お願いだから。愛も出かけるのが億劫だからって勝手に部屋で会う約束しない」 「はあい。つばさちゃんごめんね。純が怒っちゃったからまた今度にしよう。……はい純、麦茶」 ベッドから起き上がって宇津見のために麦茶をいれる戸澤の姿を横目に、金子は涙をこらえながら部屋の扉へ向かった。 しかし、出て行く前に確かめておきたいことがある。 「愛さん、宇津見さん、失礼しました。……あの、ひとつだけお聞きしてもいいですか?」 金子は必死で視線を上げて戸澤の顔を見つめた。 「愛さんは、今日私が来るって宇津見さんに話すのを忘れていたんですか? それとも、私と約束したこと自体、忘れていらっしゃったんですか?」 戸澤は短く刈り上げた耳の後ろを片手でのろのろと掻いた。 「どっちも」 その返事を聞くや否や、金子はゆがんだ顔を見られないように俯いたまま、できるだけ素早く作法通りに部屋を出た。 「ねえ甲子、愛さんと宇津見さんって付き合ってるのかなあ」 「は?」 深夜一時過ぎのこんな時間に自宅へ呼び出せるような友達は、バイク乗りの粟島甲子(あわしまこうこ)しかいない。 粟島は金子と同期の男役で、養成所時代の寮生活では同室だった。二人とも入団と同時に竹団に配属され、最大のライバルとしてお互い競争意識をむき出しにしていたが、粟島が七年目に松団へ異動になってからは、微妙な距離が空いたおかげでかえっていちばん気の置けない相手になっている。 「だってなんかいいムードだったんだもん。部屋にいい匂いがしてて薄暗くて」 「やらしいな相変わらず」 関西のイントネーションでそんなことを言う粟島は、どこからどう見ても少女マンガから抜け出してきた憧れの君にしか見えないという、女性としては特異な容姿の持ち主である。金子の家のリビングの黒いラグの上であぐらをかき煙草を吸っている姿は、誰も見ていないのだからそんなに格好つけなくてもいいのにと言いたくなるほどだ。 「だって十四年も同じ部屋に住んでるんだよ? 何もないほうがおかしくない?」 「つばさと私だって二年も同じ部屋に住んでたやん。普通何十年住んでても何もないって」 「でも、宇津見さんの体……ヴィーナスみたいだった」 粟島はコーヒーを口に運びかけていた手を震わせた。ポーカーフェイスのままで笑っているのだ。 「……まあ、確かに」 「寝たの?」 「おい。同じ団なんやから風呂ぐらい入るわ」 「そっか……」 くそがつくほど真面目で神経質な宇津見が、粟島のような遊び人にひっかかるわけがない。でも一瞬そうであればいいと願うくらい、金子は疑心暗鬼に陥っていた。 そもそもトップ男役が寮で生活しているという例は今まで聞いたことがない。金子と粟島は入団と同時に一人暮らしを始めたし、どんな団員も七、八年のキャリアを積んだ後には寮を出て後輩に部屋を譲るのが普通だ。入団してから今までずっと同じ部屋に二人で住み続けているというのは、よほど気が合うからとしか思えない。 考えれば考えるほど戸澤と宇津見の関係は尋常でないように思えて、金子の気持ちは沈んだ。 粟島は切れ味の鋭い流し目で金子の意気消沈した姿を見やり、仕方がないと言わんばかりに溜息交じりの情報をくれた。 「宇津見さん、他に好きな人おるみたいやで」 金子は一気にどん底から水面まで浮かび上がった。 「本当? 誰?」 「誰かは知らんけど、見合いしたらしい。あと一年で任期満了やし」 金子は驚いたが、真面目で計画的な宇津見ならそれもあり得ることだった。 「その人と付き合ってるの?」 「たぶんな」 「結婚するの?」 「さあ。私が知ってるわけないやん」 粟島は噂話が嫌いで、他人のプライバシーは知っていても決して口にしない。金子のためにここまで話してくれただけでも珍しいことだ。 「本当は知ってるんでしょ? まあいいけど。甲子って昔からそうだよね」 粟島はコーヒーをテーブルに置いて煙草をもみ消した。 「もう帰る」 「待ってよ、遅いから泊まっていけばいいのに」 「彼女持ちなんやろ。ややこしいわ」 「愛さんは私に嫉妬とかしてくれないから大丈夫。ねえ、帰らないで。愛さんと宇津見さんとは何でもないって証拠聞かせてよ」 金子はすがる思いで粟島を見たが、呆れたように目を細められてしまった。 「愛さん愛さんて……あんな人どこがええの? ただの木偶やん」 「めっちゃかっこいい」 「あ、そ」 戸澤が粟島の好みのタイプでなくて本当に良かったと金子は思った。実のところ、戸澤は一部の団員にはとても人気があるのだ。戸澤にアタックして玉砕したとか、付き合ったけれど一週間も持たなかったとか、その手の噂はいくつもある。 だから金子は十分にリサーチし、戸澤を狙っていることをそれとなく周囲に漏らして外堀を埋めた後、それ相応の覚悟を持って告白したのだが、意外にあっさり恋人になれてしまった。 それに交際は一か月の間順調に続いている。メールアドレスも交換したし、タイミングよく戸澤の誕生日があったのでお祝いにかこつけて二人だけで食事デートもできた。そしてもっと近づこうとした矢先に、情けないあの事件が起こってしまったのだ。 「愛さん、わざと宇津見さんにいてもらって私のほうから別れるように仕向けたのかな」 「あの人にそんな器用なことできると思う?」 「だよね……でも、底知れないところがあるんだよ。何も考えてないように見えて本当は全部計算なのかも、ってたまに思うんだ」 「私は何も考えてないほうに百万円」 粟島は戸澤以上に露骨に面倒くさそうな顔をした。 「とにかくもう帰るわ。家に人待たせてんねん」 「そうなの?」 この時間に自宅で帰りを待っている誰かがいるらしい。粟島も薄情なことをするものだ。貴重なデートの最中に恋人が友人宅に呼び出されて出かけるなど、金子なら耐えられないだろう。 「言ってくれれば無理に誘ったりしなかったのに……」 「泣いて電話してきてんのに言えるわけないやろ」 こういうところが粟島は妙に義理堅いのだ。 「ありがとう。気をつけて」 粟島が帰ったあとの居間には煙草の吸殻とマグカップだけが残っている。金子はそれらの痕跡を片付けながら、改めて戸澤と宇津見のことを考えた。 自分自身を振り返ってみても、同期との関係というのはだいたいこんなものだ。恋人が泊まりに来ていようが同期の身に何かあれば飛んで行く。自分と粟島でさえそうなのに、十四年間一緒に住んでいる二人の間に簡単に入り込めるはずがない。 次の一歩は、まず戸澤を宇津見と別居させることだ。どうしてもそうしなくてはいけない。 その夜、ベッドの中で金子は何度もその結論を繰り返しながら、いっこうに送られてこない戸澤からの詫びのメールを待ちくたびれて泣き寝入りしたのだった。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |