花ものがたり ―竹の章―
【2】



 トップの辞令を受けた翌日、戸澤は夜遅くまで稽古場に居残っていた。
 いったいこれからどうやって新しい竹団を作っていけばいいのか―――その難問にとらわれていたせいで、皆がお疲れ様でしたと帰っていくのにも気が付かなかったのだ。

「失礼します。愛さん、今お話ししてもいいですか?」

 後輩にそう声をかけられるまで、戸澤は床の上で足を百八十度に広げたままべったりとうつ伏せていた。そのまま首だけ上げて、近づいてきた若い男役を見上げる。

「……つばさちゃん? どしたの」

 彼女は金子つばさ(かねこ つばさ)という戸澤の一年後輩の男役だった。戸澤とは正反対の、快活で積極的な性格で、頭の回転が速く、養成所に入ったときから同期生の代表をつとめ人望も厚い。よく動く表情と跳ねがちな癖毛、そして手足の長い筋肉質な体が、少年のような雰囲気を醸し出している。

「愛さん、私、来月から竹団の準トップを務めさせていただくことになりました」
「ああ、つばさちゃんが準トップなんだ。よかったぁ……」

 戸澤は心の底からほっとした。
 花水木歌劇団ではトップと準トップの人事は総務部が決め、娘役トップの人事は実質的にはトップが決めて総務部が追認するというのが慣例になっている。歌劇団の運営側としても、人の上に立った経験のない戸澤をトップに抜擢するにあたって団の中でのバランスを考えたのだろう。金子つばさ以上にオンもオフもしっかりしていて団員に慕われている男役は花水木歌劇団にはいない。これで戸澤のリーダーシップが多少足りなくてもなんとかなりそうだ。

「まだまだ半人前ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 背筋を伸ばしたまま深々とお辞儀をする金子を、戸澤は床の上から手招きした。

「ねえねえつばさちゃん。トップ交代しない?」
「……は?」

 真面目にしゃがみこんできた金子は不意打ちをくらって大きな茶色い目をぱちぱちさせている。

「どう考えても私よりつばさちゃんのほうがトップにふさわしいと思うんだよねえ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」

 ぶるぶると頭を振る金子の髪の毛先が戸澤の頬に触れて、汗とシャンプーの香りがした。

「なんで? 誰が見てもそうだよ。つばさちゃんはどんな役でも安心して任せられるし、お稽古場でもみんなをまとめてるし」

 戸澤が思ったままを言うと、金子は、恥ずかしそうな表情で稽古場の床に正座して膝の上で拳を握りしめた。

「そんなことないんです。私、養成所に入ったときからいつも優等生って言われていましたけど、本当は、失敗が怖くて小器用になってるだけなんです。いつも周りの顔色伺っていい子ぶって、そんな自分がすごく嫌で……。私、愛さんの気負わない自然体なところとか、舞台へのストイックさとか、ずっと昔から憧れていました。もちろんダンスもめちゃくちゃ凄いですし。愛さんみたいな方の下で勉強できたらもしかしたら私も変われるかもしれないってずっと思っていて。でも、愛さんは出世なんて全然興味ないっていう感じで、もちろんそこが魅力なんですけど、愛さんの率いる竹団を見ることはできないのかなって諦めていたら、今回愛さんがトップになられるって聞いて、しかも私が準トップをやらせていただけることになって……もう、鳥肌が立つくらい感動したんです。……あの、愛さん、大丈夫ですか?」

 戸澤は金子の長い独白を半分くらいしか聞いていなかった。百八十度の開脚姿勢で床に伏せたまま、うとうとと眠りこけていたのだ。

「あ、ああ……そうなんだ」
「はい。だから、愛さんがトップになられるの、いちばん喜んでいるのはきっと私です」
「そうか……」

 戸澤は深い溜息をついた。これで金子にトップを代わってもらうという選択肢もなくなってしまった。そろそろ覚悟を決めるしかないのだろう。

「それから愛さん……もう一つだけ、いいですか?」

 眠い目で見上げた金子の顔からは、戸澤がいいと言おうが言うまいがこの思いをぶちまけてやるぞという気迫が発せられていた。こういう表情には過去に何度か見覚えがある。養成所時代からお洒落もしないで極力目立たないように過ごしてきたにも関わらず、戸澤に告白してくる素っ頓狂な団員が数人いたのだ。戸澤はようやく床の上に起き上がってあぐらをかいた。

「なあに」
「私、愛さんのことが好きです」

 張りのある声で宣言し、金子は澄んだ茶色い瞳でじっと戸澤を見つめてくる。
 戸澤は金子の目を見つめ返しながら、続く言葉を待った。だが、数十秒もの間、相手はただ息を詰めているだけだ。

「……だから?」

 そう聞き返すと、金子ははっとした顔になった。数年前、告白してきたある娘役に戸澤がこれを言ったら泣き出してしまったのだが、金子はそこまで弱くはないようだ。

「私と付き合ってください。いえ、私の恋人になってください。お願いします」

 金子はまったく逃げ場のない言い方をする。滑舌良くきっぱりと爽やかに。
 なぜこんな優秀な団員が自分に告白しているのだろう。戸澤には自分を好きだと言ってくる人の気持ちがまったくわからなかった。美人でもなく、可愛くもなく、性格が良いわけでもない。付き合って得なことなど何一つないのは自分でもよく知っている。
 それなのに、相手は頭の中で勝手に戸澤を理想的な人間として描いているのだ。
 戸澤はラクダのようなのんびりとしたまばたきを数回して、低い声で唸った。

「……嫌だって言ったら?」
「嫌なら仕方がないです。でも、私、簡単には諦められません。ご迷惑はかけませんから、ずっと好きでいてもいいですか?」

 金子は泣きそうな顔で戸澤の前に両手をついている。

「じゃあ、いいよ。そっちのほうが面倒くさそう」
「えっ?」
「つばさちゃんと付き合ってもいいよ」

 そう言った直後、戸澤はもう金子のことなど見ていなかった。稽古場の窓の外の廊下に、ひとりの娘役を見つけたからだ。





 まだ呆然としている金子を稽古場に残し、戸澤は廊下を通り過ぎていった娘役の影を追いかけた。一瞬見失い、暗い廊下に立ち止まりかけたが、突き当りの角を曲がった先のロッカールームに電気がついているのに気付く。戸澤は急いでロッカールームを覗いた。

「さっちゃん、いる?」
「はい」

 とっさに首だけ振り返った娘役の背中が真っ白なのを見て、戸澤は少しどぎまぎした。胸の小さい娘役はレオタードの中にパッドをつけているだけなので、脱ぐと上半身は裸になってしまうのだ。毎日見慣れた光景ではあるが一対一は気まずい。

「ごめん、あとでいいよ」
「すみません、すぐ着替えます。愛さん、こんなに遅くまでお稽古ですか? 珍しいですね」

 久米島紗智(くめじま さち)はお団子をほどいてポニーテールにし、タオルで体を拭き、ピンクのギンガムチェック柄の下着をつけた。シュッとひと吹きされた制汗剤の甘いフローラルの香りが辺りに漂う。
 戸澤はロッカールームの扉の内側に寄り掛かったまま久米島をじっと観察した。小柄で細身、骨に付いているのはほとんど筋肉だけだ。首が長くて姿勢が良く、頭が小さい。バレエダンサーの典型的な体つきをしている。
 久米島はみるみるうちにシフォンのブラウスとジャケットとショートパンツを身に着け、靴下と靴を履いて、脱いだものを詰めたバッグを抱えて戸澤の横へ飛んできた。このスピードは戸澤には到底真似ができない。キャリアの浅い娘役だけが持っている独特の素早さだ。

「あの、何でしょうか」
「うん……、ちょっと言いにくいんだけど」

 戸澤は柄にもなく照れた。久米島はその様子を勘違いしたようだ。

「食堂の割引券ですか? 私、この間ももらっちゃったのでちょうど余ってますよ」
「ちがうちがう」

 慌てて手を振った。顔を見てぱっと連想されるのが食堂の割引券のことだなんて、情けないにもほどがあるが、それが戸澤と久米島との今までの関係性なのだから仕方がない。朝昼晩プラス夜食で一日四回食堂を利用する戸澤は、一日一回しか利用しない久米島から割引券をしょっちゅう譲ってもらっていたのだ。久米島は、戸澤が普段言葉を交わすことのある数少ない後輩娘役のひとりだった。

「月刊はなみずき読んだんだけど」
「あ……」

 久米島は目を伏せて可愛らしくはにかんだ。

「あれってほんと? 私とデュエットダンス踊りたいって」
「はい、もう……恥ずかしいです。愛さんははなみずきを読まない方だって聞いたから書いたのに……」
「読んでるよ、劇団員なら読むのが基本でしょ」

 そんなことを言って、いつもは本当にまったく読まないのだ。たまに自分の書かされた原稿が載っていてもちらっとも見ない。宇津見に投げつけられて初めて、本気で記事に目を通したのだった。
 そこに載っていたのは、各団の若手のホープと言われている娘役たちのグラビア特集だった。その中の一ページに、稽古場のバーの前でレオタード姿で微笑む久米島の写真と、『大好きなダンスをもっとお稽古して、いつか戸澤愛さんのような素敵な男役さんとデュエットダンスを踊ることが私の夢です』というコメントが紹介されていたが、戸澤はもちろん久米島がそんなことを考えているとは知らなかった。

「ほんとに私とデュエット踊りたいの?」
「はい、嘘なんて書くわけありません」
「どうして私なの?」
「あの……、すみません!」

 久米島が急に勢いよく頭を下げたので、戸澤は安心させようと首をふった。

「ううん」
「本当にすみません、勝手に愛さんのお名前出したりして……そんなに親しくさせて頂いてるわけでもないのに図々しく」

 戸澤は突然ちょっと面倒くさくなった。なぜそんなに久米島が気を遣うのかわからない。
 月刊はなみずきをまったく読まない戸澤は、その娘役特集が年に一度の大人気企画であることを知らなかった。そこで久米島の『憧れの男役』として名前を挙げられたために、ファンの間での戸澤の知名度とポジションは自然と押し上げられてしまったのだ。
 それに、その号には付録として戸澤のニューヨーク公演の舞台写真をポスターにしたものが付いていた。自分などその他大勢のひとりにすぎないと思っているうちに、戸澤は竹団随一の実力派スターとして世間に認知されるようになっていたのである。戸澤をトップにするための布石は、本人のあずかり知らぬ間に着々と打ち敷かれていたのだ。

「そんなの別に気にしてないよ。それより、どうして私と踊りたいって思ってくれたのか、聞きたいんだ」

 久米島の頬が赤くなった。

「愛さんのダンスが好きなんです。入団した時から、気が付いたらずっと愛さんばっかりを目が追いかけていました。お稽古場でも舞台でも……」
「なんだか今日はいっぱい告白されるなあ」

 先程の金子に引き続いて久米島も戸澤の隠れファンだったらしい。

「すみません、私なんかにこんなこと言われてもご迷惑ですよね……」
「別に迷惑なんかじゃないよ。それより、私とデュエットしたいっていうのが本当なら、相手役になってくれない?」
「えっ?」
「私、トップになるの。だからさっちゃんが娘役トップになってほしいの。ほら、私管理職だから娘役トップ指名しないといけないんだよね」
「え……っ、と……、おめでとうございます! でも、私なんかでいいんですか? 背だって小さいし、まだまだ経験不足だし……」
「選べるもんじゃないんだよ。決まったことだから」

 戸澤は得意げににっこりと微笑んだ。迷いが消えさえすれば、管理職気分もなかなかいいものだ。

「わかりました。私で良ければ、謹んでお引き受けいたします」

 深々とお辞儀をした久米島のポニーテールの頭をぽんぽんと撫でながら、戸澤は気が軽くなるのを感じた。重責を担っているのはトップだけではない。それに、どんな立場であれ、舞台の上で求められる役割を果たすことが自分の仕事なのだ。それは今までとまったく変わりない。シンプルに目の前のことだけを見つめて余計なことは考えないようにすれば、とりあえず準トップは強い味方になってくれそうだし、娘役トップも期限内に決まったのだから、パーフェクトな出だしと言える。
 安心したとたんに戸澤は空腹を感じはじめた。

「そうだ、さっき食堂の割引券残ってるって言ったよね? わけてくれない?」
「はい」

 久米島は我に返ったようにバッグから財布を取り出して、すぐに割引券を差し出した。

「ありがと」

 もらった小さな券の束をポケットに入れながら、戸澤はもう一つ伝えておくべきことがあるのを思い出した。

「あ、それと、私、準トップの金子つばさちゃんと恋人どうしだから、さっちゃんとは付き合えないからごめんね」

 久米島は睫毛の長い目をぱちぱちさせながら水鳥のように首を伸ばした。

「いつからですか?」
「さっき。じゃ、おやすみ。気を付けてお帰り」

 きょとんとしたままお辞儀だけは綺麗に返す久米島を残し、戸澤は上機嫌で食堂へ向かった。さっそく割引券を利用してお得に餃子大盛りセットを食べ、満腹になると、その夜は一日ぶりにぐっすりと眠ることができたのだった。



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