花ものがたり ―竹の章―
【1】



 その朝のニューヨークタイムズ紙に、はるばる日本からやって来た花水木歌劇団アメリカ東海岸ツアーの劇評が載ったのを、ツアーに参加している劇団員の戸澤愛(とざわ あい)はまったく知らなかった。
 戸澤には新聞を読む習慣がない。だから、わざわざ外国に来てまでスタンドへ行って新聞を買うなんて思いつきもしなかった。鹿児島育ちの戸澤には十二月のニューヨークの朝は寒すぎる。
 それにこのツアー公演では戸澤はアンサンブルのひとりにすぎない。客の入りに関する責任もなく、舞台がどのように評価されようとどうでもよかった。

「愛! 新聞見た?」
「……え?」

 興奮した同期の娘役に飛びつかれ、戸澤はいつものように一拍遅れて聞き返す。

「愛のこと書いてあるよ。写真も。ほらほら」

 目の前につきつけられた英字の新聞には切手ほどの大きさの白黒写真があり、そこに写っていたのは、ショウの一場面でタキシードを着て踊っている戸澤だった。

「なんでだろ……」

 このツアーで主演をつとめるのは、戸澤の所属する竹団の男役トップ亀井美波と、娘役トップ宮本繭だ。新聞に載せるなら二人のデュエットダンスの写真を使うのが普通だろう。それが、特に役名もない戸澤のほんの一瞬のソロの写真が使われている。

「このダンサーがすごいって。女の人でこんなふうに踊れるダンサーはブロードウェイにもいないって、すっごく褒められてるよ!」

 同期の娘役は声を弾ませて新聞記事を指差した。戸澤は朝食のトーストをがぶりと口に押し込みながら、ゆっくりと事態を把握する。

「……大変だねぇ……」

 トップさんたちの面目が丸つぶれじゃないか、と、花水木歌劇団生活も十二年目の戸澤は反射的に憂鬱な気分になった。
 戸澤は劇団内の女同士の激しい競争意識や足の引っ張り合いが大の苦手だった。養成所に入学したときから、そんな面倒な関係に巻き込まれないよう、百七十八センチの大きな体を透明人間のようにして存在を消してきたのに、この記事ひとつでその努力が泡と消えてしまう。ニューヨークタイムズ紙も余計なことをしてくれたものだ。

「何他人事みたいなこと言ってるの。ニューヨークの評論家に認められるなんてすごいじゃん!」
「……うん……」
「今度からもっとソロもらえるかもね」
「……うん……」

 戸澤は生返事を返すだけで、黙々とトーストを四枚食べ、ミルクを二杯飲んだ。
 これはヤバい、と劇団員としての本能がささやいている。
 役などもらえなくていいから、トップや他の劇団員たちに妬まれず定年までひっそりと暮らしていけますように……。
 そんな戸澤の願いをよそに、事態はまったく違う方向へと急展開していった。
 なんと、その他大勢のひとりだった戸澤が、亀井の次の竹団トップスターに内定したのである。ニューヨーク公演からたった三か月後の出来事だった。




「あの……それって、辞退とかはできるんですか?」

 おずおずと尋ねた戸澤に、バーコードヘアの総務部長は、黒革のソファにふんぞり返ったまま、変な生き物でも見るような顔をした。

「あー、辞令っていうのはそういうものじゃないんだよ、君」

 トップになってくれと言われて断る人など、過去にはいなかったのだろう。それはそうだろうと戸澤も思う。トップになればほぼすべての公演で主役を演じることになる上、いわば日本のファーストレディのような形で公の仕事も増える。三年間の任期をまっとうして歌劇部をやめた後も他の部署で責任のある仕事につくことができ、下世話なことを言えば、将来もらえる年金だって増えるのだ。

「もう上のほうで決まったことだから」
「わかりました」

 戸澤はしかたなく受け入れた。ここで反抗して事務局との間に波風を立てるよりは引き受けた方が楽だと思ったからだ。

「それじゃ、来週までに相手役誰がいいか決めて報告してください」
「……はい」

 ――――相手役。
 とりあえず返事はしたものの、戸澤はすっかり困り果ててしまった。
 戸澤が演じるのはいつも老け役やワンポイントの個性的な役だったので、女性と恋愛するような芝居をしたことがないし、ダンスで組む相手も特に決まっていない。交際範囲の狭い戸澤には個人的に心当たりのある娘役もいなかった。突然相手役などと言われても、誰の顔も思い浮かばない。

「どうしよう……」

 総務部長室を出て一人になったとたん、戸澤は泣きたくなった。
 花水木歌劇団では、トップ・娘役トップ・準トップ以外の配役はすべてオーディションで決まる。団員たちは自分の希望する役の――というよりもあらゆる役のオーディションを受けまくり、少しでも良い役をもらえるように必死に努力する。
 だが戸澤はオーディションを自分から進んで受けたことがなかった。なるべく出番の少ない楽な役でいいと思っていたからだ。それに戸澤は、オーディションを受けなくても、演出家の方から、

「そこの大きい人、○○の役やって」

と名指しされることが多かった。舞台上の大道具とほぼ同じ扱いである。
 そんな戸澤が、突然トップスターにさせられてしまったのだ。
 自分でも受け止めきれない現実なのに、周りの竹団の団員たちはいったいどう思うだろう。こんな自分をトップとして認めて付いてきてくれる人などいるのだろうか。
 ネガティブな想像に悶々としながら戸澤が寮の自分の部屋に戻ると、そこにはルームメイトがいた。同期入団で現在松団トップスターを務めている宇津見純(うつみ じゅん)だ。

「純!」

 助けてくれそうな人が見つかった嬉しさに、つい明るい声で叫んでしまう。困ったときに相談できる友人がいて、しかもすでに彼女はトップとしていろいろなことを経験してきている……これはまさしく不幸中の幸いだ。
 宇津見は眉間に深い皺を寄せてデスクで原稿用紙と向かい合っていた。彼女は美人だが常に深刻そうな顔をしていて、ファンからは憂いの貴公子などと呼ばれている。戸澤から見ればいつも疲れているだけなのだが、ファンにはそこがたまらない魅力らしい。

「おかえり。冷蔵庫に差し入れあるよ。シュークリーム」
「ありがと。……ねえ、純。トップになってもなるべく出番少なくてあんまり忙しくなくてご飯いっぱい食べられて人にいろいろ言われずにすむようにするのって、どうしたらいい?」

 デスクからゆっくりと振り返った宇津見は、般若より恐ろしい顔をしていた。

「無理」
「やっぱりねえ。辞退できないのかなあ、本当に……」
「辞退って、まさかとは思うけど、トップに内定したの?」

 戸澤が頷くと、宇津見は全身から空気が抜けるような盛大な溜息をついて椅子に死体のようにもたれかかった。

「ジーザス……」

 昔から動きや発言が芝居がかっているのは変わらない。戸澤は相手にせず、ミニ冷蔵庫を開けておやつを取り出しながらぼやいた。

「ありえないよねえ、私をトップにするなんて。上の人も何考えてるんだか」

 宇津見は、口いっぱいにシュークリームを頬張っている戸澤に向かって、ぴしりと人差し指を突きつけた。

「愛が今まで誰よりも出来るくせに出来ないふりして楽しようとしてたツケが回ってきたんだろうが。どんなに目立たなくしようとしたってわかる人にはわかるんだよ。まあ、いいチャンスなんじゃないの? ずっと給料泥棒してたんだから、三年くらいは本気で仕事してみたら」

 なんとなく予想はついていたが、宇津見はまったく甘えさせてくれなかった。おめでとうの一言すらもない。

「私トップなんかできない……。だって部長、来週までに相手役選べとか無理難題言うんだよ」

 戸澤はシュークリームを食べ終わると、ごろりとベッドにうつ伏せになって、外まではみ出してしまう足をばたばたさせた。

「そりゃそうでしょ、管理職なんだから」
「明日お稽古場で、『娘役トップになりたい人!』って言ってみようかなあ。こういうのはやりたい人がやるのが一番いいよね」
「本気で馬鹿言うんじゃない」

 戸澤はなかなか良い考えだと思ったのに、宇津見は一言で却下した。

「だめか。……純はどうやって相手役選んだの?」

 寝返りを打ち、ごろりと仰向けになって宇津見を眺める。
 入寮してこの部屋に同居し始めてから養成所時代を含めて十四年、戸澤はいつもこうやってデスクに向かう宇津見の後姿を眺めていた。歌劇団に入団し同期の先頭に立って出世街道を爆走していく宇津見がプレッシャーやストレスに苦しむ姿を、いちばん近い場所ですべて見てきたのだ。自分はそんな経験をすることなど一生ないだろうと思っていたのに、なんだか知らない間に宇津見と同じポジションに立つ展開になっている。

「私は前の年からヒメと組んでたからそのまま」
「ああ、松団はそれがあるからいいよねえ」

 宇津見の所属する松団には、男役と娘役が普段から特定の相手とペアを組むという伝統がある。宇津見はトップになる前から今の相手役である姫野京子とペアを組んでいたので、そのまま二人がトップコンビになったのだ。もし竹団にもそんなしきたりがあれば相手役の指名で悩むこともなかったのにと戸澤が思った瞬間、

「愛みたいなのはたとえペア制度があったとしても誰とも組んでないだろうけど」

とばっさり切り捨てられた。まさにその通りである。戸澤は自分の存在をなるべく誰にも見つかりたくないと思っていたのだから。

「うん、そうかもね……。あーあ、なんでこうなっちゃったのかなあ。ほんと気が重い。準トップの峰ちゃんが昇格してくれたら何の問題もないのに、留学するから劇団やめるんだって。ひどいよねまったく……。ねえ純、純は誰がいいと思う? 私の相手役」
「竹団の娘役なんて知らねえよ!」

 宇津見はそう叫びながらデスクの上の重そうな分厚い本を投げつけてきた。

「うわっ!」

 かろうじて胸の前で受け止めたその本の表紙には、『月刊はなみずき―若手娘役特集号―』と書かれている。今月発売されたばかりの花水木歌劇団の機関誌だ。

「ありがと、純」

 いつも不機嫌で怒ってばかりいるけれど、やっぱり結局のところ宇津見は優しい。戸澤はにこにこ顔で特集のページをめくった。

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