狼たちの夜



「肉、嫌いなんですか?」

 才原が箸でつまんだ豚肉を勝手にこちらの容器へ入れてきたのを粟島は咎めた。そういえば、以前この部屋に来たときにも、卵と酒が嫌いだと言っていたのを思い出す。

「好き嫌いが多いんですね」
「子供やもん」

 湯気の中に顔を埋めてうまそうにうどんをすする才原は、完全に開き直っている。
 その猫背を眺めながら粟島は溜息をついた。尊敬しているし天才なのも知っているが、どうしてこう手がかかるのだろうか。

「どこでタンパク質摂ってるんですか? よくそれで体持ちますね」
「すごいやろ。……ああ、おうどんあったまるなあ」

 皮肉も忠告も才原にはまったく効果はないようだ。
 東京タワーの帰り道、コンビニに寄って鍋焼きうどんを二つとビールを1缶買い、才原のマンションへ来た。ビールは才原が気を遣って買ってくれたのだ。最初は申し訳ないと思ったが、今となっては飲むものがあって助かった。しらふでは到底間が持ちそうにない。
 才原の部屋は相変わらず客が来ることなど想定されておらず、向かい合って食事のできるテーブルもないので、肘がぶつかりそうな狭いカウンターに二人並んでうどんをすすっている。

「今度たぬきうどんつくったげるな。コンビニのよりうまいで」
「才原さん、料理するんですか?」

 びっくりして顔を見ると、逆に眉根を寄せて見返された。

「当たり前やん。粟島は?」
「しません」
「全然?」
「全然」

 才原は突然箸を持ったままの手でガッツポーズした。

「やった、女子力勝った!」

 以前に数度”女心がわからない”と言ったことをよほど気にしていたようだ。
 それにしてもこれが、さっき告白してキスしたばかりの相手に対する態度だろうか。
 粟島はつい正直に言ってしまった。

「そういうところが女子力ないんじゃないですか」
「うるさい、料理できんくせに」
「できますよ、高校時代弁当屋の厨房でバイトしてましたから。所帯臭くなるのでしないだけです」
「……可愛くないやつ……」

 いけないと思いつつも売り言葉に買い言葉でムードはさらに遠のいていく。
 ついさっき、東京タワーの足元で、才原は言った。

『いつの間にか粟島のこと好きになってたみたい……』

 その声を思い出すたびに何ともいえないむず痒い幸福感が粟島の胸を満たすというのに、才原はそんなことなどすっかり忘れ去ったかのように普段のままだ。
 うどんを食べ終わると、何もすることがなくなった。何しろこの家にはテレビすらないのだ。ごみを片付けたりお茶をいれたり意外と細々動いている才原は平気のようだったが、粟島はただ沈黙が続く状況にいたたまれなさを感じた。

「いつも家で何してるんですか?」

 才原は、用事をすますと暑くなったらしくジャケットを脱いだ。脱いだジャケットはそのままぽんとドレッサーの椅子に放り投げられる。

「んー、何も」
「何も、って……」
「ただぼうっとしてるだけ」
「……退屈じゃないですか?」

 寂しくないですか、と言いそうになってぎりぎり言い換える。

「家に帰ったら電池切れるねん。何や、ねむなってきた……」

 才原はまるで小さな子供のように、口も塞がずあくびをして、カウンターに座っている粟島の背中におぶさってきた。
 人の体の重さとシャツ越しの体温の温かさが心地よく、こんな姿は絶対に粟島以外の前では見せない人だとわかっているから、そのこともまた粟島の心をくすぐる。
 才原の声が耳元で甘えるように囁いた。

「なあ、泊まっていくやろ?」
「いえ、今日は……」

 言いかけたところでビールを飲んでしまっていることに気付いた。もうバイクには乗れない。
 やられた、と粟島は思わず笑ってしまった。才原の計略にはまったのだ。

「わかりました、帰りませんよ。眠いんだったら寝てください」

 回された手の甲をそっと叩くと、ぎゅっと抱き着いてきた。オーテヴェールの甘い香りが粟島を包み、理性を曖昧にする。

「なんや……私ばっかり我儘言うてるみたいやん」
「我儘なんか言ってないじゃないですか」
「これから言うの。今夜は、離れたないねん」

 完全に負けだと思いながら粟島は才原の望み通りに振り返ってキスに応えた。
 あの色気のない会話から数分でこの状態に持ち込む鮮やかさに、粟島は感心するしかなかった。素直になることが才原の武器なのだ。ストレートすぎて躱すこともできない。
 寂しい。側にいて。好き。
 大きな瞳と熱い唇で訴えてくる才原に、粟島も全身全霊で応える。
 送り狼にはならないと言ったが、姫に仕える馭者にならなってもいいと粟島は思った。

*    *    *    *    *

 寝るには早い時間だったが、才原がべったりと甘えてくるので、もういいだろうと粟島は思った。

「もう着替えますか?」
「ん、パジャマないねんけど……いつもな、裸で寝てるねん……」

 もごもごと話す才原に、そこで照れるなと思わず突っ込みそうになる。もちろん粟島はそんなことはわかっていて聞いたのだ。脱ぐのを手伝おうか、などと言ったらあからさますぎるではないか。

「明かり、消しましょうか」

 煌々と明るい蛍光灯の下では脱ぎにくいだろうと声をかけたら、才原が噴き出した。さっきから首元のボタンをのろのろといじり続けているくせに、突っ込みだけは素早い。

「気が利き過ぎや。この遊び人が」
「……才原さんに言われたくありません」

 粟島は勝手に部屋の照明を消し、いつまでもボタンに手をかけたまま埒の明かない才原に近づくと、早替わりのときにしているように、シャツを後ろから脱がせ、下ろされたズボンを素早く足元から抜き取った。
 ほのかな夜の光の中に才原の白い体が浮かぶ。
 筋肉が目立つ板のような背中、くびれの少ない狭い骨盤、丸みのない尻、細い太腿。服を脱いでも相変わらず女らしさの欠片もない才原の後姿は、きっと自分と大差ない。それでもそれが才原の体だから、粟島は愛おしく思うのだ。
 裸になった才原は逃げるように真っ白な布団の下にもぐってしまったので、残された粟島は仕方なく一人で服を脱ぎ始めた。ここまでで、ベッドの中での自分の役割もおおよそ想像がつく。

「……姫なんやからまったく……」
「何か言うた?」

 地獄耳の才原は粟島の呟きを聞きつけたらしい。
 そしてついでに、気を紛らわすためなのか、余計な独り言まで喋り出した。

「おっかしいなあ、なんでこんなに恥ずかしいんやろ。別にただの粟島やっちゅうのに。……なんや、やる気満々やん」

 タンクトップを脱いだところでそんなことを言われて、粟島はげっそりした。もちろんやる気がないわけではないが、二十代前半の子供でもなし、相手の出方を見るくらいの余裕はあるつもりだ。

「私もいつも裸で寝てるんです」
「ふうん」

 精一杯嫌味っぽく言ってみたが、才原が信じたかどうか、その生返事からは読み取れなかった。
 ベッドに入ると才原は突然襲い掛かってきた。
 のしかかられて滅茶苦茶にキスされ、その勢いが受け止めきれなくて、粟島は力ずくで才原を抱きしめ、立場を逆転させた。才原の乱れた前髪を掻き上げて、込み上げる笑いを抑えつつ、いたずらな目を間近から覗き込む。

「やる気満々はどっちですか」
「ええやん、粟島、早く来て」

 気が逸るのはわかる。きっと才原も自分と同じように楽しくて仕方がないのだろう。
 粟島は才原の腰のくぼみを指で辿るように撫でた。そこが弱いのは、芝居で体に触れた時の様子などからなんとなく知っていた。随分前から才原とこうなることを無意識に想像していたのだと気づいてひとりで可笑しくなる。

「……何をニヤニヤしてんねん、やらしいな……」

 むっとして言い返そうとした瞬間、粟島はふと思い付いて才原のやり方を真似してみることにした。今感じているこの気持ちを、素直に、飾らずに、直球で投げかける。

「愛してます」

 この作戦は相当な効き目があった。
 今まで見たことがないほど真っ赤になってすっかりおとなしくなってしまった才原を、粟島は思う存分楽しんだのだった。

おわり

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