花ものがたり ―松の章―
【9】



 花水木歌劇団は、月曜日が公休日だ。
 月曜日は劇場も公演がなく、稽古場も事務局も、本部ビル全体が休みになる。
 一週間に一日だけの休日など、ここぞとばかりに朝寝をして溜まった用事を片付けるだけで瞬く間に過ぎてしまうものだが、松団準トップの粟島甲子はそうではなかった。
 月曜日は趣味のフィットネスジムに通う日なのである。
 バイク三十分の後、トレーニングマシンを一通り回って、ランニングを一時間やり、もう一度バイクを三十分漕いでクールダウンするのがいつものメニューだった。今まではヘッドホンをお供にショウの歌や振付を頭の中で浚いながらトレーニングしていたのだが、最近、同じ時間にいつも顔を合わせる人に話しかけられ、ジム友達ができた。

「粟島君、おはよう」
「おはよう。早いね」

 筋トレで疲れた後にランニングをするという持久力アップのためのセオリーに従って走っていると、隣のランニングマシンにその彼がやってきた。平日の午前中にジムにやってくる働き盛りの男の職業はプロレスラーだという。粟島はプロレスには詳しくないので、彼の自称を信じるしかないのだが。

「今日ちょっと粟島君に相談したいことがあってさ」
「へえ、珍しい」

 目の前の鏡に映る彼を見ると、立派なガタイに似合わずもじもじしているようだった。思わず笑みが込み上げる。
 粟島はこの男との会話がかなり楽しかった。なぜなら、彼は、粟島のことを完全に男性だと思い込んでいるからだ。最初に「もしかして俳優さんですか?」と言われたとき、適当にそうだと答えてしまったのだ。男役としてのアドリブ修業にもなるので、特に訂正することなくそのまま若手俳優を演じている。

「実は俺、七年付き合ってる彼女がいて、まだ結婚しないのかって雰囲気になってきちゃってるんだよね」
「ああ」

 粟島は、ありがちなことだ、というニュアンスの相槌を打った。

「結婚つってもこっちは収入不安定だしさ、人の生活にまで責任持てないっていうか。もちろん彼女のことは愛してるんだけど」
「へえ」

 のろけに唇の端を上げただけで、粟島は黙々とランニングを続けた。もともと相談などに乗る気はないし、相手のほうもジムでたまたま知り合った程度の人に人生をかけるような問題の答えを求めているわけではないだろう。

「粟島君も彼女いるんでしょ」
「今はいないけど、気になる先輩がひとり」

 調子に乗って思い付きの答えを返すと、プロボクサーは目を輝かせて喰いついてきた。

「へえ! 事務所の先輩? ってことは女優さん? なんて人?」
「カスミさん」
「うわ、いかにも美人って名前。歳は?」
「三つ上」
「いいなあ、女優さんとかマジうらやましいよ。粟島君ぐらいのイケメンだったら女優にもモテるんだろうけど。そういえば、気になる先輩ってことはまだ付き合ってないんだろ? その人紹介してくれよ」
「ダメ。カスミさんは俺のもの」
「くっそー」

 笑いながらも半ば本気で残念そうな彼を見て、粟島はひそかに呆れた。さっき七年間付き合っている彼女に結婚を迫られているという話をしたばかりではないか。これだから男は、と言いたくもなる。

「ねえ、粟島君はその先輩に告白しないの?」
「まだ早い」
「え、なんで? 行けると思うけどなあ。もしかしてもう彼氏いるとか……でもそういう女ほど燃えるんだよな。男の狩猟本能っつうか」

 粟島は次第にプロレスラーの相手をするのが面倒くさくなってきた。天気の話や地元の話をしているうちはよかったが、恋愛の話などをするようになってしまうと、ジム仲間としてはわずらわしい。それに、自分から言い出したことではあるが、カスミさんについていろいろ勝手な想像をされるのも気に食わなかった。

「俺、男じゃないから」
「え?」
「じゃあ」

 マシンの上で走り続けている自称プロレスラーがその意味するところに気付かないうちに、粟島は素早く立ち去って女性用のシャワールームへ逃げ込んだ。あの男はもう二度と話しかけてはこないだろうが、別に構わない。
 シャワールームの湯気にこもる芳香と熱い湯の勢いが粟島の心身を解していく。最近買ったシャワージェルとシャンプーは、才原が熱を出した日につけていた香りと同じラインのブルガリのものだった。店頭でたまたま勧められ軽い気持ちで購入したのだが、使うたびにあの夜の出来事が思い出される。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして買ってしまったのだろう。
 ついさっき自分自身が冗談のつもりで口にした「気になる先輩」という言葉がいつのまにか頭から離れなくなっていた。
 準トップの内示が出た日、才原を東京タワーに連れて行って憧れを告白した。そのときの思いは、たくさんの時間を共に過ごして裏も表も知った今でも変わらない。
 圧倒されるほどの才能、魅入られそうな黒い瞳、そして和装もスーツも完璧に着こなすセンスとスタイル。誰の目から見ても花水木歌劇団のトップにふさわしいスターでありながら、粟島のような生意気で付き合い下手な人間にも、いつでも温かく接してくれる。限りなく子供っぽくふざけているように見えて、松団の全員の過去と今をきちんと知っている。
 トップというものがそんな資質を求められる役職だとしたら、自分に務まるのだろうか……。そう思って尋ねたとき、才原は当たり前のように、なれるやろ、と言った。
 もちろん粟島がトップになれるかどうかは三年後に組織の上層部が決めることで、今はまったくわからない。しかしその決定が下されるとき、もう才原は隣にいないのだ。

「あと二年半か……」

 残りの時間を数えた瞬間、湯気の香りが急に息苦しくなった。

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