花ものがたり ―松の章―
【10】



 花水木歌劇団は、グッズの販売をほとんど行っていない。
 販売しているものは、月刊誌『はなみずき』の他、公演ごとに製作されるポスターとプログラム、そして年に一回発行されるA3サイズのカレンダーと、年間公演スケジュールの入った手帳だけだ。
 カレンダーと手帳は他の省庁への年末の挨拶回りのために作られ始めたもので、少部数の製作ではコストがかかるという理由で一般にも発売することになったのである。
 そのカレンダー用の写真撮影のため、松団の才原霞、粟島甲子、そして大貫優奈の三人は、十一月のある日の稽古終了後、とある撮影スタジオに来ていた。花水木歌劇団謹製カレンダーには、各団のトップ・娘役トップ・準トップがフォーマルな装いに身を包んだポートレートが使われる。
 いつもは自分で着る羽織袴をプロの着付師に着せてもらい、才原はそのシルエットを廊下の鏡でチェックしていた。覚えておいて今後の仕事に役立てるためだ。
 廊下の少し先にある扉の向こうのメイク室では、今、粟島がヘアメイクをしてもらっている。粟島の衣装はタキシードなので、和服を着る才原たちよりも早く着替え終わり、メイクの順番が先になったのだ。
 袴に皺が寄らないように真っ直ぐ立ったまま待たねばならないのは疲れる上に退屈だったが、すぐに話し相手がやってきた。晴れ着姿の大貫である。薄桃色を基調に藤色へのグラデーションが美しい辻が花の振袖は、ふんわりと優しげな大貫の雰囲気によく似合っていた。

「おっ、綺麗やな。よう似合うとるで、その振袖」
「ありがとうございます。才原さんの羽織姿も素敵です」

 嬉しそうに頬を染めた大貫は、化粧などしていなくても十分可愛らしい。
 しかし、緊張のためか、笑顔はすぐに固い表情に戻ってしまった。花水木歌劇団では、舞台化粧と扮装なしのいわば素の自分として撮影をする機会がほとんどないので、大貫が緊張しているのも無理はない。

「大貫はカレンダー撮影初めてやろ? わあ、私もう七回目やん。過去のもん見るの怖いわ。あ、そういえば粟島も初めてのカレンダーやな。ま、あいつは緊張なんかするタマやないけど」

 才原は後輩をリラックスさせようとひたすら話しかけたが、大貫は思いつめたような顔でじっとうつむいて話を聞いているだけだ。

「立ってるのも疲れるなあ。振袖やったら座っても大丈夫やろし、この椅子にかけとき」

 そう言って鏡の横に立てかけてあったパイプ椅子を開いて置いてやると、大貫は突然顔を上げ、意を決したように才原を見つめてきた。

「あの、才原さん。前からお話ししたかったことがあるんですけど、聞いていただけますか?」

 潤んだ瞳に見つめられ、才原は若干うろたえた。別にやましいことはないが、相手のほうは何か溜め込んでいたものがあるような言い方だ。大貫はふわふわしているように見えて芯は強い。怒らせるとやっかいなのだ。

「何やいきなり……私、大貫に悪いことでもした?」

 こわごわ尋ねると、間髪を入れずに言われた。

「それです」
「え?」
「大貫って。どうして私のこと名前で呼んでくださらないんですか? もう組ませていただいて半年になるのに」

 何だそんなことか、と才原は拍子抜けした。

「大貫だけやなくてみんな苗字で呼んでるやん。松団はだいたい同期以外は苗字呼びが普通やろ?」
「みんなじゃありません。薫さんとか」
「ああ」

 才原はその名を聞いてやっと少し申し訳なく感じた。大貫と組む前に十年間組んでいた娘役の薫のことは、苗字の熊谷ではなく薫と呼んでいたからだ。それと比べてしまう気持ちはわからなくもない。

「でも、あいつだけやん。もうやめたんやから気にせんと……」

 大貫は両手を帯に当てて才原をキッと見つめた。一度言い始めたらすっかり遠慮も緊張もどこかへ行ってしまったようだ。

「いいえ、薫さんだけじゃありません。船越彩ちゃんも」

 次に大貫が持ち出してきたのは若手の娘役だった。たしかに彩と呼んでいるが、その理由は、才原にとっては知り合いの歌舞伎俳優の娘だからというだけのことである。親を知っているのに苗字で呼び捨てにはしにくいのだ。そこに嫉妬してくるところが可愛いといえば可愛いし面倒くさいといえば面倒くさい。

「薫さんはしょうがないなって思うんです。ずうっと組んでいらっしゃいましたし。でも、どうして彩ちゃんのことだけ名前で呼ぶんですか?」
「それは、あいつのお父さんのほうが先に知り合いやったからや。彩のことは劇団入る前から知ってたし。ていうか、それがそんなに重要なことなん?」

 才原が尋ねると、大貫はますますムキになって叫んだ。

「重・要・ですっ! まったく。才原さんって舞台の上では優しくて格好いいのに、女心が全然わかってないんですから」

 女心がわからないというウィークポイントを突かれてさすがの才原もむっとした。

「何やて? 言うとくけどなあ、一応はこっちのほうが長く女やってんねんで」
「一応は、でしょう?」

 大貫も一歩も引かずに思いもかけない反撃をしてくる。

「何っ? 大貫、お前なあ……」

 羽織袴と振袖の二人がにらみ合っているところへ、抑揚のない低い声が掛けられた。

「夫婦喧嘩はやめてください」

 プロのヘアメイクを施されタキシードを完璧に着こなした粟島は、すっぴんの二人を薄目で見下し吐息した。

「子供みたいに騒いだりして、せっかくの羽織が七五三にしか見えませんよ」

 才原は毒舌の意味を理解するのが一瞬遅れた。粟島に見惚れてしまったからだ。
 ちょっと片肘を引いた上着のシルエット、細くて信じられないほど長い脚、シャープな頤、冷たく気怠い表情、そして鋭く色気のある眼差し。これが本物の男なら、恋に落ちない女がこの世にいるだろうか。

「……おい粟島。先輩に向かってその言い草はないやろ」
「すみませんでした。優奈、メイクさん呼んでるよ」

 ちらりと奥の部屋のドアを指さすキザな仕草に、大貫が瞳をきらきらさせている。

「ほら、粟島さんは優奈って呼んでくださるじゃないですか」
「タラシと一緒にすんな」
「……どういうお話ですか……?」

 粟島の片方の眉がぴくりと持ちあがり、冷たい視線が才原を射抜く。心臓がどきりと跳ね上がった。目が合わせられない。ちょっと綺麗に化粧をしているだけで中身はいつもの粟島だ、こんなところで照れてどうする、と才原は自分に言い聞かせた。

「……大貫が、彩は名前で呼ぶのに自分は苗字やから言うてヤキモチ妬いてんねん。ようそんな細かいこと気にするよなあ……」
「当然でしょう。だから私は、娘役は全員名前で、男役は全員苗字で呼ぶことにしているんです」
「そういえば粟島さん、男役さんのことは名前で呼んでいらっしゃいませんよね」

 誰かを特別扱いしている印象を与えないように、人の呼び名にまでルールを設定しているとは驚きだった。粟島は自分の魅力と影響力を客観的に把握しきっているらしい。
 才原は以前から、粟島が初対面の娘役でも平気で下の名前で呼び捨てるのをなぜだろうと思っていた。その馴れ馴れしさは粟島の性格にそぐわないような気がしていたのだ。だが訳を知れば頷ける。

「どんなルールや。あからさま過ぎるで、その区別……」
「それじゃあ男役も名前で呼びましょうか。霞さん」

 抑揚がないくせに良く響く粟島の声が才原の脳を直撃した。下の名前で呼ばれることが最近はもう滅多になくなっているのも手伝って、異常に耳に残る。

「無理! 気色悪い!」

 才原は両手を袖の中に入れて腕をこすりながら顔をしかめた。娘役たちはいつもこうやって呼ばれているのかと思うと、改めて粟島の取り巻きの多さに納得する。側にいてそのセクシーな声で名前を呼んでもらうだけで嬉しい……娘役にそう感じさせる稀有な才能を持った男役なのだ。
 ファーストネームを呼ばれるというのはこんなに特別なことだったのか、と才原はしみじみ思った。大貫の溜め込んでいた思いも少しは理解できたような気がする。これがいわゆる女心というものなのだろう。
 才原は咳払いしてできるだけさりげなく言った。

「そういえば優奈、いつまでもそこにおるけど、行かんでええの?」
「行きますよ!」

 つんつん答えた後で、大貫はやっと気が付き、振袖を思いっきり広げて抱きついてきた。それを才原は素早く半身でかわす。

「撮影前に着崩れさせるな、アホ」
「はあい」

 叱られたというのにでれでれとした顔でメイク室に入っていく大貫を見送って、才原は溜息をついた。

「やるじゃないですか」

 粟島の口調は、からかっているのにからかっているように聞こえないのが癪だ。

「どうも。けど、名前で呼ばれるって特別なもんやねんなあ。勉強になったわ。今度から粟島のことも甲子て呼ぼうか?」
「やめてください」

 粟島は身震いして首をすくめた。やはりそのあたりの感覚は才原と同じらしい。
 面白いので、才原は退屈しのぎに自分がメイク室に呼ばれるまでずっと、嫌がる粟島を名前で呼び続けた。

「甲子ってええ名前やなあ。ご両親阪神ファンやろ、六甲おろしの甲やもんなあ。あ、甲乙丙丁の甲か。小さい頃のあだ名何やった? やっぱり甲ちゃん? 恋人にはなんて呼ばれてるん? あ、悪い、甲子今恋人おらんのやったっけ」 

 待ち時間にさんざん苦い顔をさせられたせいなのか、粟島は初めてのカレンダー撮影でカメラマンに笑顔を求められてもニコリともしないという偉業を達成したのだった。

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