花ものがたり ―松の章―
【8】



 十一月の半ば、松団は、十二月に赤坂小劇場で公演するクリスマスコンサートの稽古に明け暮れていた。
 季節はもう冬の入口だ。風は日々冷たくなり、乾燥も激しい。巷では悪質な風邪が流行り始めているとテレビのニュースで話題になっていた。
 稽古が終わり、シャワーの後濡れた髪を乾かしていた粟島は、隣で同じように髪を乾かしていた才原に肩を叩かれて、ドライヤーの電源を切った。

「粟島、今日まっすぐ帰る?」
「はい。何か」
「悪いけど、家まで送ってんか」
「いいですよ」

 二人の帰る時間がたまたま一緒だったときなど、粟島が才原を自宅までバイクに乗せて行くことは時々あった。そんな様子から松団の団員たちにはプライベートでも仲が良いと思われているが、実際はマンションの前でおろしてそのまま別れるだけである。
 才原に「お茶ぐらい飲んでいかへん?」と誘われても、実は意外と人見知りな粟島は、プライべートな場所へ踏み込むことに遠慮してしまうのだ。
 今日も粟島はもちろんいつものように才原をマンション前で落として帰るつもりでいた。
 だが、スカイツリーを目指しながら江東区の才原のマンションへとバイクを駆っている途中、背中に微妙な違和感を覚えた。
 しっかりとしがみついているはずの才原の体が、カーブのたびにぐらりと揺れる。しかも、接している体の温度が異常なほどに熱い。

「才原さん、大丈夫ですか?」

 信号待ちで止まったときに問いかけても返事はなく、ぐったりと背中に体重がかかっているのがわかっただけだった。これは本格的にまずい。
 今日の稽古はいつもどおりの集中力でこなしているように見えたが、そう言えば、送ってくれないかと声をかけてきたときには少し元気がなかったような気がする。こんなに急に高熱が出るとは、先日ニュースでやっていた悪性の風邪を引き込んだに違いない。
 才原の自宅まではもうあと五分ほどだった。粟島は、頼むから落ちないでくれと祈りながら這うようにゆっくりとバイクを走らせ、ようやく才原のマンションへたどり着いた。

「才原さん、着きましたよ。大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫……」

 ヘルメットを脱がせると、才原の顔は真っ赤で目がどろんとしている。バイクから抱き下ろしたが、足元はふらふらと危なっかしく、とても一人で置いておけそうになかった。
 粟島はぐったりしている才原を背負い、部屋まで連れて行くことにした。とりあえずパジャマを着せてベッドに寝かせるところぐらいまではしてやらなくてはならないだろうと考えながら、勝手に才原のコートのポケットを探ってマンションの鍵を取り出した。



 初めて目にする才原の部屋は、粟島の想像とはかけ離れていた。
 緊急事態とはいえ突然他人の家へ上がり込むことに多少の後ろめたさを感じていた粟島だったが、才原の部屋は、まるで誰かが訪れるのを待っていたかのように綺麗だった。いや、綺麗というより、がらんとしていると言ったほうが正しい。
 玄関には靴は一足もなく、飾りの絵ひとつない。十五畳ほどのスタジオタイプのワンルームには、シンプルな白いカバーのダブルベッドとガラス天板のドレッサーがあるだけで、テレビもオーディオもなかった。ダイニングテーブルのようなものも置いておらず、片隅のキッチンのカウンターとスツールが食事の場所なのだろう。
 才原がこんなに生活感のない部屋に住んでいるとは、かなり意外だった。これに比べたら、粟島の六本木のマンションのほうがまだ温かみがある。

「お邪魔します」
「どーぞ」

 才原は粟島の背中から降りて自分で靴を脱ぎ、疲れ切ったようにベッドに倒れ込んだ。

「寝る前に着替えないとだめでしょう。パジャマ、どこにありますか?」
「もうええから帰り」
「でも、すごい熱じゃないですか」

 粟島が才原の額に手を当てようとすると、才原は弱弱しく振り払い、代わりにその手に黒い携帯電話を押し付けてきた。

「これで妹に電話して」
「妹さんが来てくれるんですね。苗字は才原さんですか?」
「いや、名前……葵で入ってる」

 さっそく電話帳を開いてア行の一番上にその名前を見つけたとたん、粟島はすぐ携帯を閉じた。自宅電話の市外局番が06だったのだ。もう夜の九時近いこの時間に大阪からここまで呼び出すなど、できるわけがない。

「妹さん大阪じゃないですか。電話するのは明日にしましょう。今夜は私がいますから」
「あかん、もう帰れ、うつるから……」
「大丈夫ですよ。とりあえず着替えましょう。パジャマどこですか?」

 部屋には洋服箪笥のようなものが見当たらない。きっとどこかにウォークインクローゼットがあるのだろう、と粟島はあたりを見回した。
 だが、才原が指さしたのは、ドレッサーの横の壁に取りつけられた透明なアクリルボードの棚だった。そこには香水のボトルが店のディスプレイのようにいくつか並んでいるだけで、服などもちろん置かれていない。

「香水?」

 粟島は一瞬とまどったが、すぐにその意味を理解した。
 才原は普段パジャマを着ないで寝ているのだ。一糸まとわず、香りだけを身に付けて。
 なぜそんなことがわかったかと言えば、粟島も偶然同じ習慣だからなのだが……。

「マジかよ」

 粟島が思わず呟くと、才原はベッドの上でもぞもぞと服を脱ぎ始めた。粟島はすぐに部屋の暖房を付け、バスルームへ行った。元気なときならいいが、こんな具合の悪いときに裸で寝るなど言語道断だ。パジャマがないのならバスローブか何か着せなくてはならない。
 幸い、もこもことした暖かそうなバスローブが見つかったので、それを掴んで部屋へ戻ると、才原はもうベッドの中にもぐりこんでいた。床にばらまかれた物から察するに、本当に素っ裸らしい。粟島は大きな溜息をついて掛け布団を引きはがした。

「何すんねん!」
「熱があるんですからちゃんと暖かくして寝ないと。これ着てください」

 粟島は、才原のあられもない格好には見て見ぬふりをしながらバスローブを着せ、上から大きめのバスタオルで肩と胸元を覆い、布団をしっかりと着せてやった。
 才原はすぐに目を閉じてしまい、体温計の場所や薬のありかなどを尋ねることもはばかられたので、粟島は近所の薬局までそれらを買いに行き、ついでに立ち寄ったコンビニで卵と日本酒を仕入れた。
 まず才原の額に買ったばかりの冷却シートを貼ってから、部屋の片隅のキッチンへ行く。棚から勝手に取り出した大きめの湯呑に卵を割り入れ、スティックシュガー一本分を入れて甘い卵液を作り、沸かした日本酒を少しずつ注ぎながら混ぜていった。自分が飲むときには砂糖は入れないが、才原には甘いほうが飲みやすいだろう。出来上がった卵酒はそのまま蒸したらプリンになりそうにも見える。

「才原さん、起きられますか? 卵酒作りましたけど、飲めますか」
「卵も酒も嫌いやねん……」
「栄養があってぐっすり眠れますから飲んでください」

 粟島は有無を言わさず才原を抱き起こして無理やり唇に湯呑を押し付けた。ベッドに入ってからたった三十分の間に才原の体はもう汗ばんでいる。嫌いな酒の匂いに顔をしかめながらちびちびと口をつける才原の背中を支えて、粟島は少しずつ湯呑を傾けてやった。

「もういらん」

 才原は湯呑の半分ほどまで飲んで顔を背けた。

「はい」

 粟島はそれ以上無理には飲ませず、湯呑をサイドテーブルに片付けると、もう一度才原の背中を支えながらゆっくりとベッドに横たわらせた。普段一滴も酒を飲まないのだから、湯呑半分程度の卵酒でも十分効くだろう。そう考えたとおり、才原はすぐに眠ってしまった。
 しかし一時間ほど経つと、熱がさらに上がったのか、がたがたと震え始めた。
 この際プライバシーなど気にしている場合か、と、粟島は家じゅうのあらゆる収納場所を覗いたが、予備の毛布ひとつ見当たらない。粟島は自分のマフラーを才原の首に巻いてやった。それでも震えは収まらず、寒い寒いとうわごとを言っている。
 いかにクールと言われている粟島でも、次第にその様子を見ていられなくなってしまった。

「……しゃあないなあ……」

 粟島は少しのためらいを捨てて覚悟を決めた。
 暖房を強めた後、服を脱いで下着姿になり、才原の隣へもぐり込む。経験上、ベッドの中を温めるには人が入るのが最も効果的だと思ったからだ。
 目の前の才原の首筋から、熱い肌に温められたブルガリの香りが妙に甘く漂ってくる。粟島は、自分こそ移り香に染まりそうだと思いながら、才原の首に腕を回して抱きしめた。
 時計の秒針の刻む音だけが響く長い秋の夜を、才原の横顔をただじっと見つめて過ごす。
 眠る才原の側に今自分がいる、しかも二人とも裸同然の姿をして体温で互いを温めあっている。
 この人とこんな状況に陥るとは―――いや、自分が病人に添い寝までしてやるような人間だとは、半年前まで想像もできなかった。しかし、不思議なほどに違和感がない。
 才原は松団のトップで課長職、自分は準トップで課長補佐だからこれは仕事の範疇なのだと粟島は思ったが、すぐに自分でおかしくなった。普通の会社で上司に添い寝してやる部下などどう考えても異常である。この場合、上司と部下のどちらがセクハラしていることになるのだろう……などと考えているうちに、粟島もうつらうつらと浅い眠りに入ってしまっていた。



 献身的な看病の甲斐あって、才原は三日後から稽古に復帰した。
 粟島の目には、才原は少し痩せただけで気力も体力も完全に復活したように見えた。花水木歌劇団のトップオブトップとして西へ東へ働きづめの日々のなかで、病気とはいえ数日間体を休めたことがかえって良かったのかもしれない。タップダンスのキレも自由自在なフェイクも、いっそう鮮やかさを増していた。

「今夜快気祝で大貫と食事に行くねんけど、粟島もどう?」

 帰り際、本部の通用口で才原が声をかけてきた。才原の半歩後ろで大貫が嬉しそうに小さなショルダーバッグを抱えている。遠慮したほうが良いような気がして、粟島は答えた。

「いえ、私は結構です」

 すると、才原は馴れ馴れしく粟島の肩に肘をかけながら顔を寄せてこう言ったのだ。

「何や、他人行儀やなあ。一夜を共にした仲やんか」

 すぐ後ろで聞いていた大貫に真ん丸な瞳で見つめられ、粟島は自分のお人好し加減を心から後悔するはめになった。

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