花ものがたり ―松の章―
【7】


 新生松団のトップ披露公演が終わると同時に夏が来て、辟易するような酷暑の中、次の公演の稽古そして本番と毎日に追われているうちに、いつの間にか東京にも涼しい風が吹き始め、季節は瞬く間に秋へと移り変わっていた。

「さあ、それでは歌っていただきましょう。箱根に咲いた夜の花、アキバ娘。の登場です!」

 宴会の司会を務める養成課長の名調子に続いて、宴会場の大きな舞台の上に、制服アイドルのコスプレをした花水木歌劇団の職員選抜チームが並んだ。
 宴会の余興の出演者は、慰安旅行の参加者のなかから厳正なる抽選で選ばれる。
 劇団員のみならず事務方から劇場の表方、舞台スタッフ、オケのメンバーまで含めた二百名前後の旅行参加者の中で、余興メンバーに選ばれるのはたった十二人だ。

『ひらっとスカート翻し〜♪ 走りだした時もあったわ〜♪』

 さすがはエンターテイメント創造集団で働いているだけのことはあって、男性も混じったアイドルたちは歌も踊りもそつなくこなしている。
 浴衣姿の職員たちで埋め尽くされた畳敷きの大広間で、松団トップの才原霞はゲラゲラ笑いながら余興を楽しんでいた。

「でっかいアイドルやなあ。あ、後ろの列にいるマッシュルーム頭の子、可愛いやん。あれ誰?」

 隣に座っている後輩男役の瀬尾みゆきに尋ねると、瀬尾はなぜかひどく驚いたような顔をした。

「ええっ、わからないんですか?」
「劇団員なん?」
「粟島さんですよ」

 才原は飲みかけていたウーロン茶を吹きそうになってしまった。

「嘘や……!」

 しかしそう言われてからまじまじと見れば、カツラと付けまつ毛とミニスカートでギャルになりきっているが、まぎれもなく粟島だ。あまりにもやりそうにないことだったので気づかなかったのである。もちろん歌もダンスも完全にマスターしているが、それだけに無表情が恐ろしい。
 おじさんと男役混じりのアイドルグループは、三曲もの歌と踊りとMCを披露したあと、職員たちにひっぱりだこになって写真撮影をせがまれ始めた。もちろん粟島は一番人気である

「あいつも女やったんやな」

 タータンチェックのミニスカートからのびる長い足をぼんやり見つめながら才原がひとりごちると、瀬尾は、気を利かせたつもりか、粟島に向かって大声で叫んだ。

「粟島さん! 才原さんにウーロン茶ついで差し上げてくださぁい!」
「ええって瀬尾、いらんわ」

 才原はあわてて制したが、叫びを聞きつけた粟島はまっすぐ才原の席へと近づいてきた。そして畳に膝をつくと、無言でウーロン茶の栓を開け、才原の方へ突き出した。
「……おおきに」

 仏頂面のまま才原のグラスに酌をする粟島は、くじ引きで選ばれた以上これも自分の仕事だと割り切っているようだった。
 しかし才原はそう簡単に割り切れない。至近距離に座る女装の粟島に、思いっきり視線のやり場を失った。そしてその視線が彷徨ったあげく、揃えられたむきだしの膝のあたりを無意識に見つめてしまっていることに気づいてさらにうろたえる。

「才原さん、どこ見てるんですか」
「あ、いや、その、別に。粟島、制服姿なかなかイケてるやん。可愛い可愛い」
「……………」

 気まずさを誤魔化そうとしてとりあえず褒めてみたものの、ますます妙な空気になってしまった。
 そのとき、すぐそばでカシャーカシャーという音が響いた。瀬尾がシャッターチャンスとばかりにすかさず二人のツーショットを撮り始めたのだ。

「瀬尾、何やっとるん」
「お二人とも恥ずかしがってらっしゃる所って珍しいので、団員に高く売り付けようかと」
「アホか!」

 才原と粟島の声が完全にシンクロし、二倍になった殺意を浴びて、瀬尾は遠くへ逃げて行った。
 冷たいウーロン茶を一気に飲み干して怒りと焦りを鎮めていると、粟島がお代りを注ぎながらいつものボソッとした口調で聞いてきた。

「才原さん。この後また温泉行かれます?」
「いや、もうええわ」
「そうですか。おやすみなさい」

 完全に男役の素の歩き方に戻って宴会場を出ていく粟島の後ろ姿に、才原はもうこれ以上見るまいと目を閉じた。


 ここは箱根・小涌谷温泉郷にある老舗の温泉旅館である。
 毎年秋に行われる花水木歌劇団の慰安旅行の行先は、東京近郊の温泉地の巨大旅館と決まっていた。毎年同じ旅館だと市民団体に癒着などと批判されるので、順繰りに違う旅館を利用している。
 基本的に職員全員参加で仕事の一部のような慰安旅行だが、花水木歌劇団のすべての部門の職員が一同に会する機会はこのときしかなく、久しぶりの顔と酒を酌み交わせるのはそれなりに楽しみなものだった。

「才原、ちゃんと休んでる? 頑張りすぎてない?」

 声をかけてきたのは、才原が七年前に準トップになったときに松団トップを務めていた大路理恵子だった。才原より四つ年上で、現在は劇団事業部で営業課長として働いている。

「大路さん! ご無沙汰してます。あ、グラス、空いてます?」

 才原はすぐに自分の横に置いてあった手つかずのビール瓶を持ち上げた。大路は少しだけ残っていたビールを飲み干し、才原の酌を受けてくれた。

「どうも。才原は? あ、そうか、飲めなかったんだっけ」
「そうですよ、忘れんといてください」

 湯上りの長い髪をアップにした大路は、旅館の浴衣に羽織姿で才原の膳の前に横座りした。男役時代には考えられなかった姿である。そういえば、大路はトップを退任して一年後に劇団の男性職員と結婚していたのだった。男役として花水木歌劇団の頂点を極めた後、堅実に第二の人生を歩んでいる、団員のキャリアの見本のような人である。

「大路さんますます綺麗にならはったんと違います?」
「何言ってんだか。才原、仕事どう? 大変でしょ」
「はい、舞台はそれほどでもないですけどそれ以外の諸々が」

 才原が思わず本音を零すと、大路はグラスの中身がこぼれそうなほど大きく何度も頷いた。

「そうそう、そうなの。ただ稽古だけやってればいいってもんじゃないんだよね。特に松団のトップは花水木の団員代表、イコール国家の俳優代表だから、私生活でも変なことできないってプレッシャーがあるし。ストレスたまるでしょ」
「そうなんです。準トップ時代はそんなご苦労、全然わかってへんかったなって……。今やったらもうちょっとましな準トップになれると思いますけど」
「そんなことないよ、才原はいてくれるだけで心強かった。粟島君はどう? 今の準トップさんは」
「ああ、もう完璧ですよ。仕事はできるし、私のことよく見ててめっちゃ気遣ってくれて」

 才原が指でOKサインを出しながら太鼓判を押すと、大路は信じられないというような顔をした。三年前までの粟島しか知らない大路には想像もつかないのだろう。才原は可笑しかった。

「へえ、そうなんだ。あのクールガイの粟島君がねえ」
「人は成長するらしいです」
「ほんとだね。さっきも余興頑張ってたし。前の粟島君だったらくじで当たっても絶対後輩にやらせてたよね、『あんなかったるいことできるか』って。そういえば彼女どこにいるの?」
「さっき出て行きましたよ。着替えじゃないですか」
「じゃあ会ったら伝えて。私が偉いって褒めてたって」
「はい、必ず」

 大路と話した後、才原は宴会場を離れ、八人部屋の客室に戻った。大きな和室にずらりと並べて敷かれた布団には、寝ている人はまだいない。皆せっかくの一夜をとことん楽しみつくそうと旅館のあちこちに散らばっているのだろう。
 さっき粟島に温泉には行かないと答えたものの、せっかく箱根まで来たのだから、酔っ払いたちのいない今の時間にもう一度暖まってから寝るのも良いかと才原は思い直した。
 軽く体を流した後、露天風呂を目指して真っ直ぐに外へ出る。
 夜空は晴れて、細い月の明かりは弱く、星がまたたいて見えた。山の気温はもうだいぶ下がっている。風邪をひかぬよう早く温かい湯の中に浸からなくてはと岩をまたいで足を入れたとき、先客がいるのに気付いた。

「才原さん……」

 驚いたような呟きは粟島の声だった。

「粟島?」

 薄暗がりのなかで湯をかき分けながらそちらへ近づくと、粟島はすっと避けた。

「なんで逃げるん」
「どうして近寄るんですか」

 十人ほどが入れる広さの露天風呂の中には二人しかいない。なるほど言うとおりだと思って才原はおとなしく離れた場所に落ち着いた。なめらかな肌触りの出湯が外の寒さで適温になって、白い湯気を立ち上らせている。

「さっきな、宴会場で、大路さんが粟島のこと偉いって褒めてはったで」
「それを言いにわざわざいらしたんですか?」
「別にそういうわけやないけど。来たらあかんかった?」
「いえ」

 先刻温泉に行くのかと粟島に尋ねられたとき、もしかして一緒に入りたいのかと才原は思ったのだが、そうでもないらしい。それならそれで勝手にすればいい、と才原は頭を岩に乗せて湯の中にだらりと全身を伸ばした。東京から離れた山の中で過ごすリラックスしたひとときに、日頃の疲れがゆっくりとほどけていく。
 時折ふくろうの声だけが聞こえる静寂がしばらく続いた後、粟島が口を開いた。

「才原さん」
「何?」
「私、トップになれると思いますか」

 意外な言葉に、才原は寝ていた体を起こして粟島を見た。

「なれるやろ。っていうか、内示出るまで次のトップ私やなくて粟島やと思ってたもん」
「まさか。才原さんを差し置いて私がトップになれるわけがないじゃないですか」
「ん、それはまあそうやな……って嘘嘘、ほんまにその時はそう思ってた。粟島は若いし、トップとして十分やっていける実力も華もあるし」
「でも私がトップになっても誰も付いて来ないでしょう」

 とてつもなくネガティブな台詞だが、あまりにも冷静に言われたので、才原は否定するタイミングを失った。

「それに誰を相手役にすればいいのかもわかりませんし」
「そんなことないやろ。粟島に憧れてる娘役いっぱいおるやん」
「ちゃんとコンビとしての関係を築く自信がありません。才原さんと優奈みたいに」
「うちらかてまだまだやで」

 普通にそう言っただけなのに、粟島は薄く笑った。

「何をおっしゃいます。知ってますよ」
「何を?」

 才原は眉根を寄せて薄闇に浮かぶ濡れた金髪の下の目を見つめた。
 トップ娘役の大貫優奈は、薫の楽屋訪問の一件があってからだいぶ固さがほぐれてきて、稽古場でも舞台でも才原にぶつかってくるようになった。たまにはプライベートで食事に行ったりすることもある。それくらいは花水木歌劇団ではごく普通の上司と部下の関係だ。

「付き合っていらっしゃるんでしょう?」
「はあ?」

 才原は思わず頭の上に乗せていたタオルを湯に落としてしまった。慌てて拾い上げて岩の上に放り投げる。

「何でやねん。あるわけないわ」
「誤魔化さなくてもいいじゃないですか。コンビで恋人同士なんてよくあることですし。松団でも気づいてる人は気づいてると思いますよ」
「だからほんまに違うねんて!」
「じゃあどうして優奈から才原さんの香りがするんですか」

 笑みを含んだ冷たい声でそう言われて、才原はやっと誤解の原因がわかった。
 ひと月ほど前、好きな香りは何かと大貫に尋ねられたので、そのときたまたま持っていた携帯用のフレグランスアトマイザーを譲ったのである。
>  才原は夜気を震わせる声でひとしきり大笑いした。

「同じ匂いがしたくらいで何をやらしい想像してんねん、このムッツリスケベが」

 お湯を掬って遠慮なくバシャッと粟島の顔を狙う。

「使いかけの香水あげただけ。移り香やと思ったん?」
「すみませんでした」

 珍しく顔を赤くした粟島は、逃げるように露天風呂から上がった。

「ちょっと待って!」

 その引き締まった後姿を才原は急いで呼び止めた。言い忘れたことがある。

「粟島、自分で思ってるほどひとりやないよ。クールなふりしててもほんまは面倒見ええやん。人はそういうとこ見てるねんで、意外とな。今日の余興も粟島がおじさんたちに踊り教えたんやろ」
「劇団員が私だけでしたから」

 粟島はそれだけぼそりと答えてそそくさと出て行ってしまった。
 仕事が終わり帰宅した夜中にアイドルの動画を何度も見ては振付を覚え、それを物わかりの悪い中年男性たちに根気よく教えている粟島の姿を思い浮かべて、才原は静かに微笑んだ。

「ええ子やな」

 呟いた独り言は、湯気のように夜に吸い込まれていった。

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