花ものがたり ―松の章―
【6】



「キャー、赤ちゃんだ!」
「可愛い! 薫さんのお子さんですか?」
「当たり前でしょ、他人の赤ん坊連れてきてどうするのよ」

 国立銀座歌劇場で公演中の松団の楽屋に、思いがけない客が訪れた。
 才原の元相手役で一年半前に結婚退職した熊谷薫が、生後六か月の子供を抱いて楽屋見舞いに来たのだ。
 才原は、団員たちが赤ん坊を取り囲んで騒ぐ声を壁越しに聞きながらトップ専用の楽屋に閉じこもっていた。
 薫はすでに違う世界の人間だ。花水木歌劇団の舞台に戻ってくることはもうできない。それなのになぜ来るのかと才原は思う。もし自分なら二度と近づきたくはないだろう。舞台への熱い望みを失い夢を諦めた、その痛みを思い出させる場所に。

「失礼します。才原さん、薫さんがいらっしゃいましたよ、赤ちゃん連れて」

 わざわざ楽屋のドアをノックして教えに来た瀬尾の顔は興奮に輝いている。若い女子はみな赤ん坊が大好きなものだ。

「うん」
「こちらへお連れしましょうか?」
「いやいや、ええよ、すぐ行く。ありがとう」

 ひらと手を振って瀬尾を追い出すと、背後から、松団でただひとり赤ん坊にまるで興味のなさそうな人物の声がした。

「照れてないでちゃんと挨拶に行ったらどうですか」

 粟島はいつものように長い脚を組んで机にカードを並べている。普段無口なくせにこんなときだけ余計なことを言うのが才原の気に障った。

「そんな単純なもんやない」
「……男と女は?」
「女と女や」

 才原と薫との関係にはカップルらしい甘いところは少しもなかった。可愛がった記憶もいじめた記憶もない。組んだ日から別れた日まで、お互いが相手に負けない自分になろうとして全力でもがいていた。金メダルを取るためだけに組むバドミントンのペアのように、二人はトップコンビになるために組んだのだ。

「粟島は、辞めた後もまたここに来たいと思う?」
「思いません。でも辞めて幸せになった人は来たいんじゃないですか」

 たとえ辞めて幸せになれたとしても、花水木歌劇団で成功できなかったことに変わりはないではないか、と才原は思ってしまう。それとも、この世界の外にはもっと大きな幸せがあるというのだろうか。

「薫は幸せなんかな」
「そこにいますよ」

 粟島に親指でドアを指され、才原はしぶしぶ楽屋の廊下に出た。驚くほどの早さでそれに気づいて振り返った薫が、赤ん坊を抱いたままにっこりと会釈をする。
 薫は在職中とまったく変わらぬ華やかさでそこにいた。長かった髪をばっさりとショートにし、出産後にも関わらずスマートな下半身にサブリナパンツがよく似合う。何よりも生き生きとした笑顔が美しさに満ちている。
 才原が現れると松団の団員たちはさっと道を開けた。薫の前まで来る数歩の間に、シャツの袖の乱れを何度も直してしまう。この緊張と気まずさは相手にも伝わっているだろう。

「お久しぶりです、霞さん」
「うん……元気そうやん。子供、可愛いな。名前、なんていうん?」
「信じるって書いてマコトっていいます。よろしくね、霞おばちゃん」

 薫は赤ん坊の小さな手を握って振ってみせた。

「……おばちゃんて……」

 初めて呼ばれた呼称に軽くショックを受けていると、瀬尾がすり寄ってきた。

「ね、才原さん、ちょっと抱かせてもらいましょうよ、薫さんの赤ちゃんなんですから。私、写真撮ります」

 瀬尾は手際の良いことにデジタルカメラを掲げて見せた。

「え、赤ん坊なんて抱いたことないし……」
「大丈夫ですよ。頭を支えてください」

 才原は幾分危なっかしい手つきで薫から赤ん坊を受け取った。瀬尾がカメラを構えながら悪乗りする。

「ほうら信ちゃん、パパでちゅよー」
「何でやねん。孕ませた覚えないわ」

 瀬尾のおふざけに間髪入れずに突っ込みながらも、才原は心が和らぐのを感じた。しっとりと温かく重くやわらかい、ミルクの匂いのする小さな生き物。これを産み、抱き、育てることを薫は選んだのだ。子の命と舞台とを比べることは母親には意味がない。
 才原は理解した。薫は絶対的に幸せなのだと。何も自分が罪悪感など覚える必要はなく、ただ道が分かれてそれぞれの望むゴールへ辿りついただけなのだと。

「おめでとう、薫」
「えっ?」
「結婚と、それから、子供」
「結婚はもうかなり前の出来事ですけどね。でも嬉しいです」

 薫は笑いながらおどけて会釈をして、不意に真面目な顔になった。

「霞さんも、松団トップご就任おめでとうございます」
「……うん、やっとな」
「良かったですね。みんな待ってましたから」

 きっと一番待っていたであろう当人は、爽やかに笑った。その笑顔を見て、才原もほっとして自然に微笑み返すことができた。もう過ぎたことだ、振り返るだけ無駄だと言い聞かせてきた出来事が、思った以上に胸の一部分をふさいでいたのだと気付く。

「ちょっと信を抱いててもらってもいいですか? 優奈ちゃんと話して来たいので」
「ああ」

 身をひるがえした薫の背中を、つい気になって目で追った。大貫はきっと自分以上に薫に対して申し訳なく思っているだろう。今は才原の先妻と後妻という立場だが、もともとは仲の良い先輩後輩だったのだのだから。
 ちらちら様子を盗み見ていると、二人は急に固く抱き合った。大貫が薫に抱きついて泣いているように見える。娘役どうし集まればたいていは男役の噂話か悪口に花を咲かせるもの、どうせ才原の愚痴でも言って泣きついているのだろう。心配しただけ損をしたと思いながら才原は叫んだ。

「おーい、薫! うちの大事な嫁に何してんねん!」

 その声が大きすぎたのか、今まで大人しかった赤ん坊がぐずりだした。

「どないしょう」

 才原は今にも大泣きしそうな赤ん坊を抱えて焦った。自分のせいで泣かせてしまうなんて最悪だ。そのとき、隣から救いの腕が伸びてきた。

「貸してください」

 やけに慣れた手つきのその腕に赤ん坊を預け、ほっとして顔を上げると、なんと粟島だった。赤ん坊は粟島の腕に揺すられて恍惚としている。この仏頂面に子供をあやせるとは……。

「粟島、実は隠し子おるん?」
「いません」

 粟島は氷のように答えた。大人には厳しいのだ。
 しばらくすると薫と大貫が肩を抱き合って戻ってきた。泣き笑いの顔の大貫は、粟島の胸で安らぐ赤ん坊を覗き込んで、周りもつられてしまうくらいのとろけるような笑顔を見せる。
 薫は粟島の腕から息子を抱き取った。この二人は実は入団同期で、養成所時代からお互いをよく知る間柄である。薫の在団中は特に仲が良いというわけでもなさそうだったが、それでも同期ならではの遠慮のない関係ではあるらしい。

「甲子、ありがと」
「話は済んだ?」
「うん、おかげさまで。信、甲子お姉ちゃんに抱っこしてもらってよかったねぇ」
「おい薫。私がおばちゃんで粟島がお姉ちゃんてどういうことや」

 とりあえずそこには突っ込まずにいられない才原だった。少なくとも粟島ならお兄ちゃんと言われても文句は言えまい。

「しいっ、静かに」

 人差し指をふっくらした唇に当てた大貫にたしなめられて、才原は思わず不服を顔に表してしまった。

「どうせ私は粟島みたいに子供の扱い上手くないし」
「子守に慣れたのは準トップになってからですよ」
「それどういうこと?」

 才原が眉間に皺を寄せると、薫はたまらないというように声を上げて笑い出した。

「甲子がそんなこと言うようになるなんて。人って変わるのね」
「私の教育の成果や」
「さすがです、霞さん」

 粟島の子守発言には納得いかないが、薫に褒められるのは悪くはなかった。
 粟島は初舞台から松団に配属されていたのではなく、竹団から人事異動で松団にやってきた。異動してきたとき粟島はすでに入団して七年目の完成された男役だった。才原とはキャリアが三年離れているため養成所時代も知らず、育っていく過程をまったく見ていない。そのせいで、毎日稽古場で団員一人ひとりに目を配っている才原にも粟島がどういう人間なのかよくわからなかった。ただ、演技以外は感情を表に出さない、誰かと一緒に行動しないという特徴だけが際立っていた。
 だが、隣にいるようになってから二か月ほどが経ち、なんとなく粟島という人がわかってきた。本来は非常に気を遣う細やかな女性らしい性質なのに、それを人に知られるのを嫌うのだ。本当の自分を知られるくらいなら近づかない、そんな慣れない猫のようなところがある。だから才原はそこをほじくりかえしたいと思ってしまうのだが。
 短い訪れの後、薫たちを送り出すときに低く呟かれた粟島の声が、才原の地獄耳には聞こえてしまった。

「わざわざこんなところまで来てもらってごめん。気を付けて」


 その日、マチネとソワレの間の休憩時間、再び楽屋に二人きりになったとき、才原は配られたカードを見つめたままさりげなく尋ねた。

「なあ。粟島が呼んだん?」
「何のことですか」
「なんで薫を呼んだん。私が会いたがってると思った?」

 粟島は相変わらずポーカーフェイスのままカードを二枚捨てた。

「言えません」
「何が言えません、やねん! 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさい」

 才原は、出会ってこのかた初めて粟島を本気で怒った。粟島は目を伏せてカードをテーブルに置き、組んでいた脚を戻した。

「……優奈が、才原さんは本当は薫を相手役にしたかったんじゃないのかと悩んでいたので」
「なるほどな、相談された事やから言いにくかったんか」

 大貫がトップ娘役になった当初からずっと薫のことを意識しているということは才原にもわかっていたが、それはもう仕方のないことだと思っていた。薫とは十年も組んでいたのだから、その年月を気にしないようにしろというのはいくら言っても無理な話だ。
 だが、粟島は、それを何とかしようとしたのだ。そして実際にしてみせた。今日のマチネの大貫は、子供を連れた薫が監事室から観ていると知りながら、まったく萎縮せずにのびのびといつも以上の彼女らしさで舞台に立っていた。今までなら考えられないことだ。

「それに、才原さんも薫が辞めてから元気がないように見えましたし」

 続けられた言葉に、才原は驚いた。他人のことなど気にかけないように見えた粟島が、押し隠していたつもりの変化に気付いていたことに。

「そうか。トップコンビがいつまでも昔の女の影に悩まされているのを団員として放っておけませんでした、いう事か」
「そんなに勝算があったわけじゃありませんが……。才原さんが『うちの大事な嫁』と言ってくださったのが効きましたね」

 冷静にそんな分析をする粟島が小憎らしくて、わざと嫌がりそうなことを言ってみることにした。

「粟島、意外にお節介やなあ。でもそういうとこ、ええ所やと思うで。これからもっと出していったらええわ」
「いえ、これ以上は」
「照れてるの?」

 急に鉄仮面を被った粟島を見て、才原はニヤリとした。粟島がこういう無表情をするときは動揺しているときなのだ。才原は立ち上がって、向いに座っている粟島の金髪の頭を浴衣の胸に押し付けるように無理やり抱きしめた。

「ありがとう、すっきりした。粟島のおかげや。お礼のチュウしていい?」
「いい加減にしてください、調子戻りすぎですから」

 今度はぴしりと才原が怒られてしまった。

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