花ものがたり ―松の章―
【5】



 しかし、粟島は、翌々日の公演日までは二日酔いを持ち越さなかった。そこはプロというものである。
 それにその日はいつもに増して体調を万全にしておく必要があった。年に一度の健康診断が行われる日だからだ。
 霞が関の本部ビルや赤坂小劇場に通っている団員たちは虎の門病院で健診を受けるのだが、国立銀座大劇場で公演の真っ最中である松団の団員たちは、交代で劇場からほど近い有楽町のクリニックへ行くことになっている。
 十一時開演のマチネが終わり、十八時半開演のソワレが始まるまでの休憩時間に、粟島は健診に出かける順番が来るのを待ちながら才原の相手をして楽屋でポーカーをやっていた。もちろん公務員なので賭け事は厳禁であり、要するに単なる暇つぶしだ。
 午後のひとときの時間つぶしはたいていカードゲームをすることが多い。才原は目が悪くなるからと言って画面を見つめるゲーム機には触らないのだ。そしてどんな種類のカードもとても巧かった。粟島が気を遣わずに負けられるくらいに。
 今回の一戦もちょうど粟島の負けが込んできたという頃合いに、タイミングよく楽屋の扉がノックされた。後輩の瀬尾がひょこりと顔をのぞかせる。

「失礼します。才原さん粟島さん、今から健診、どうぞ」

 粟島はすぐにカードを投げ出し、黒いTシャツとイージーパンツの上から財布を入れたジャケットを羽織った。ちらりと確認した腕時計は午後三時。さっさと出かけてさっさと済ませないとソワレの準備に差し支える。
 だが、同じようにすぐ出かけると思っていた才原は、なんとその場で突然もそもそと服を脱ぎ始めた。そして、素肌の上に、舞台化粧をするときに着るガーゼの浴衣を羽織ろうとしている。

「才原さん、行かないんですか」
「うん」
「具合でも悪いんですか?」

 才原は答えず、呼びに来た瀬尾に向かって微笑んだ。

「私今日熱あるから健診行かれへんって総務に伝えといてな」
「あ、はい」

 嘘だ、と粟島は確信した。今日のマチネ公演でのパフォーマンスも、さっきのポーカーの集中力もいつもどおりだった。本当に具合が悪いのなら粟島にはわかる。
 粟島はドアのところに立っている瀬尾に向かって強力な目配せを送り、音を立てずに唇の動きだけで伝えた。―――逃がすな、と。

「熱なんかないでしょう。どうして仮病を使うんですか?」
「だって健診イヤやねんもん」

 トップの口から発されたまるで駄々っ子の台詞に、粟島は頭の血管がぴくりと脈打つのを感じた。だが才原は粟島の怒りなどどこ吹く風でのたまった。

「実はこの五年、一ぺんも受けてへんのよね。胃カメラもレントゲンも採血も心電図も婦人科検診もマンモグラフィも大っ嫌い。あんな事されるくらいやったら病気になったほうがまだマシや。だいたいこの本番中の忙しいときに健康診断なんて行ってるヒマ……わ、な、何すんねん!」

 身長百六十八センチの才原よりもわずかだが背の高い瀬尾と粟島は、両側から壁のように才原の体を挟んでしっかりと腕の動きを封じた。

「じゃあ今年こそは受けましょう」
「私たちも付いて行ってあげますから」
「絶っっ対イヤ!」
「まったく子供じゃないんだから……」
「健康管理も仕事のうちですよ」
「お前らっ、いい加減にせえ! 殺す気か!」

 ぶんぶんと首を振って暴れる才原を、粟島は容赦なく押さえつけた。だが瀬尾は大先輩に対する遠慮とためらいが捨てきれないようで、力が緩んでいる。粟島は舌打ちしそうになった。
 才原のため、そして才原の率いる松団のためを思えば今受けさせたほうがいいに決まっている。トップは一般の劇団員とは比べ物にならないほどの激務をこなしているのだ。舞台にはほぼ出ずっぱりで、さらに写真撮影やテレビ番組の収録、原稿の執筆、メディアの取材、公務と呼ばれる各種イベントでのPR活動もある。それらすべての仕事において代わりは誰にもつとめられない。肉体的にも精神的にも負担は大きいはずだ。それに年齢も、まだ若いとはいえ健康に気を付けるべき時期にきている。
 粟島は瀬尾に、手を放すなと注意しようとした。だがその時、瀬尾は猫撫で声でこう言った。

「大丈夫ですよ才原さん、怖くないから……。終わったら美味しいマンゴープリン食べましょうね」
「えっマンゴープリン? ほんまに?」

 そのとたん才原は見事に暴れるのをやめた。
 瀬尾の才原操縦法に、粟島は感心しつつも呆れ返る。

「……ほんっと、子供と一緒……」



 百戦錬磨の看護師に才原の身柄を引き渡すと、才原は生贄にされる子羊のような目で一瞬こちらを振り返ったあと、廊下の奥へと連行されていった。浴衣なのでそのままで検査できるらしい。
 瀬尾に待合室から見送られて、粟島は自分も検査着に着替えた。これで一段落だとほっとしたとたん、若い看護師が粟島を探しに来た。

「サイバラカスミさんのお連れのアワシマさんはいらっしゃいますか?」
「私です。何かあったんですか?」

 粟島は一瞬ひやりとした。まさか、検査で即刻入院が必要なほどの重大な疾患が見つかったのだろうか。しかしすぐに、たった五分でそんなことまでわかるわけがないと気付いて苦笑する。
 若い看護婦は言った。

「とても緊張していらして検査ができないので、そばに付いて手を握ってあげてもらえますか?」

 何やて? と粟島は思わず口に出しそうになった。
 毎日二千五百人の観客に見つめられ失敗の許されない大舞台を務めていても緊張のかけらさえ見せない才原が、たかが健康診断で我を失うとは。

「私ではお役に立てないと思います。慣れている看護婦さんのほうが……」
「ご本人がアワシマさんを呼んでほしいと」
「……わかりました。お世話をおかけします」

 一段落などとはとんでもなかった。本当に大変なのはこれからだったのだ。
 才原は採血用の丸椅子に青い顔をして俯いて座っていた。
 粟島の顔を見るなり、

「もう帰る」

 と立ち上がる。

「ダメですよ。せっかく来たんですから。採血なんて痛くも痒くもないしすぐ終わりますって」

 粟島は才原の浴衣の両肩に手を置いて無理やり椅子に座らせた。笑いをこらえている様子の看護師が、才原の手首を取って腕をゴムで縛る。

「痛っ」
「親指を内側に入れて手を握ってくださいね」

 才原はたったそれだけの動作を震えながらのろのろと行った。看護師が採血用のチューブのついた針を用意し、アルコールで腕を拭く。

「なあ、なあ、粟島、もうほんまに嫌やねん。私先端恐怖症やねん……助けて!」

 針に背を向けて縋り付いてくる才原を、粟島はどうしていいかわからなかった。こんなに取り乱している才原は初めてだったし、注射を嫌がるわがままな子供を相手にした経験もない。とりあえずさっきの瀬尾の真似をして言った。

「大丈夫ですよ。終わったらマンゴープリン食べるんでしょう」
「うん……」

 効果覿面、おとなしく前を向いた才原の肩に再び手を置いたとき、粟島はふと思いついて、後ろから両手で目隠しをしてやった。針や血が見えないほうが怖さは少ないだろう。

「粟島……?」
「今のうちにお願いします」
「はい、チクッとしますよー、我慢してくださいね」
「嫌や、怖い……あぁもう、痛いやんか!」
「たいしたことないでしょう。みんなやってるんですから。……ほらもう終わりました」

 それにしても、劇団員には疲労回復のための点滴や美容のためのプラセンタ注射を日常的にやっている者も多いというのに、才原はそういった手っ取り早い体のケアには手を出していないのだろうか。こんなに注射嫌いでは献血のPRの仕事もできないだろう。
 やっと採血が終わったと思ったら、次の難関は婦人科健診だった。才原は、どうしても粟島に付いて来てほしいと言ってきかないのだ。

「冗談じゃありませんよ。恥ずかしくないんですか?」

 さすがの粟島も呆れ果て、今まで上司だからと思ってこらえていた怒りの色を隠すこともやめてしまった

「全然。なあ、一緒にきて。一人で入るの怖いねん」
「才原さんいくつですか? こんな検査ぐらいなんでもないじゃないですか、まったくバージンでもあるまいし」

 二人が検査室の入口で低い声で揉めているのを、忙しそうな看護師が早くしてくださいと言いたげな目で見ている。

「あの椅子が怖いねん、昔病気で手術したときのこと思い出して……」

 声を潜めて囁かれた言葉に、粟島は不覚にもうろたえてしまった。

「そんなこと私なんかにぽろっと言わないでください」

 才原の過去については、粟島は何一つ知らない。
 ある意味で才原は粟島以上にプライベートを他人に悟らせなかった。誰かが才原の自宅に遊びに行ったという話など一度も聞いたことがない。家族や恋人の話もしないし、私服の話や普段のスキンケアの話もしない。これだけ注目されている存在なのにゴシップとも無縁だ。逆に粟島のほうが、理想の男役を演出するためにプライベートをわざと匂わせているようなところがあった。
 きっと自分にだけ打ち明けたのだろう、その過去のつらさを思えば、同情の余地はある。

「わかりましたよ。早く脱いでください」

 諦めの溜息交じりで言うと、才原は勝ち誇ったようににんまりと微笑んだ。

「パンツ見んといてな」
「…………」

 瞬発的に繰り出しそうになった突っ込みを、粟島は震える拳を握りしめて押しとどめた。
 ―――これはもしかしたら初めから自分を弄ぶために才原が企んだ悪戯だったのではないか。本当に健康診断に五年も行っていないのかどうか、総務に確認しておくべきだった。

「才原さん、もしかして、これ全部芝居ですか?」
「粟島は優しいなあ」

 しみじみとしたその声を聞いたとたん、粟島は初めてキレるという言葉を体感した。
 それは熱い怒りではない。今まで気にしていたことすべてが完全にどうでもよくなる瞬間なのだ。

 粟島は才原を放置してさっさと更衣室に戻って私服に着替え、看護師に声もかけずに病院を出た。もうこの後の検査を受ける気はまったくなかった。そんなものくそくらえだ。


 この数時間の出来事をなかったことにして、粟島は楽屋着の流水柄の浴衣に着替え、鏡の前で静かに精神を統一していた。
 たとえ共演者との間に何かがあっても仕事となれば切り替えはできる。それは粟島が国立劇団の女優として自分に最低限課していることのひとつだった。それができなければ舞台を楽しみにしている二千五百人の観客に申し訳が立たない。
 雑念を振り払おうとしていたそのとき、楽屋のドアが小さくノックされた。

「失礼します」

 慎ましやかに滑り込んできた人影を後輩かと思って振り向くと、才原だった。いつになく萎れた顔をしている。

「お礼にマンゴープリン、買って来たんやけど」
「甘い物は苦手なので」

 言ってから後悔した。大人しくありがとうございますと受け取っておけば追い出せたのだ。

「ほな、何がいい? コーヒーゼリー?」

 才原は勝手に粟島の化粧前で箱を開け、黄色いプリンと黒いゼリーを取りだした。

「どうしてあんな嘘ついたんですか」
「嘘やないで。注射大嫌いなんも手術したんもほんまやし」
「健康診断に五年間行ってないというのは?」

 才原は粟島のきつい視線を逃れるようにもじもじと俯いた。

「あれは……実は六年間」

 ひそひそと囁くように告白した才原に、粟島はもう溜息をついて降参するしかなかった。

「けど、ごめん、悪ふざけが過ぎた」
「反省してください」

 準トップになる前、松団の全員と距離を置いていたころは、才原のことを純粋に尊敬していた。できないことなど何もない万能の持ち主で、明るく誰からも愛される人格者だと思っていたのだ。
 粟島の目にそう映っていたということは、才原も実のところは他人と距離を置いていたのかもしれない。弱さや甘えを誰にも見せることのないように。

「才原さんがこんなに困った人だとは思いませんでした」
「私も粟島があんなに優しくしてくれると思わんかったわ。いつも私が笑わそうとしても冷たい顔してるやん……やから、試しに思いっきりわがまま言うてみたらどうなるかなあって。粟島がおってくれたおかげで今年は血液検査受けられた。ありがとう」

 反省のかけらもなくけろりと礼を言う才原の笑顔は、腹が立つほど眩しかった。
 まったくどうしてこうなるのかと思いながら、粟島は才原と差向いでほろ苦いゼリーを味わったのだった。

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