花ものがたり ―松の章―
【4】



 松団のトップ披露公演は、つつがなく初日を開けた。
 新しく生まれ変わった松団は、新トップ才原霞のあまりに堂々とした主演ぶりのおかげで、安定感抜群と評されている。
 同時に準トップに就任した入団十二年目の男役・粟島甲子(あわしま こうこ)は、準トップとして観客の前に立つ初めての一週間が無事に終わったことを祝して、終演後に本部ビル内の食堂でひとり手酌のビールで打ち上げていた。
 いつも通勤に使っているスカイウェイブも、今夜は置いてタクシーで帰るつもりだ。
 実は、今日は休演日前というだけでなく、プロ野球の阪神巨人戦が中継される日でもある。物心ついたときから大の阪神ファンである粟島にとって、これ以上の酒の肴はない。
 食堂に置かれた大きなテレビの前に陣取り、冷えたグラスを傾けながら枝豆をつまんでいると、すぐ後ろの席から気になる会話が聞こえてきた。

「みゆき……私って、ほんとにひどいトップ娘役だよね……」
「なんで? 今日のショウのソロ歌よかったよ」
「ありがとう。だけど、初日開いてからもずっと才原さんに怒られっぱなしで、情けなくて……」

 背中の向こうに大貫の弱弱しい声を聞いて、粟島は思わず鼻で笑ってしまった。才原が大貫に対して相当細かい部分まで熱心に指導しているのを、多くの団員が熱々だの何だのと冷やかし半分羨ましがっていることに、大貫自身はまったく気づいていないようだ。

「怒ってくれるのも愛情じゃない。まあ、私もたまに落ち込むけどね。才原さんって舞台のことに関してはいつも『ハハーッ、仰せの通りでございます』っていうことを言うんだもん」

 渋く落ち着いた声で時代劇のような台詞を喋っているのは、大貫の同期で同室の男役、瀬尾みゆきだ。寮に暮らしている二人は毎晩ここで遅い夕食をとっている。

「あのね。この前、お化粧してたときに、たまたまみゆきが隣にいなかったことがあってね。背中を自分で塗ってたら、才原さんが塗ってあげるって来てくださったんだけど……」
「へえ、ラブラブじゃん」
「違うの。背中に毛が生えてる、剃刀貸して!って、みんながいる前で。私死ぬほど恥ずかしかったのに、『相手役に背中剃らせる娘役なんて前代未聞や、七年間何してたん』って言われちゃった」

 粟島は肩が震えるのを抑えるのに苦労した。文句を言いながらも放っておけず自ら手を出してしまう才原の姿が目に浮かぶ。こんな面倒見の良いトップは粟島が入団してこのかた初めてだった。団の頂点に君臨して何人もの取り巻きを従えているトップスターが、八年も後輩の娘役の世話をするなど、普通はあり得ないことなのである。
 しかし瀬尾は、ひたすら大貫に同情しているようだった。

「それは……。優奈、かわいそう。もっと他に言い方があるよねえ。それにみんなの前でそんな恥ずかしいこと言うなんて、デリカシーないよね」
「才原さんの言うこと、もっともなんだけど、言い方が心にぐさっとくるの……」

 ルームメイトに愚痴る大貫の甘えた声を聞いて、粟島は瞬時にひとつの悪戯を思いついた。
 意識して少し高めの抑揚をつけてひとりごちてみる。

「そんなん言われてもなあ」

 いつも隣で観察している成果か、自分でも驚くほど似せることができた。
 背後にいる大貫はきょろきょろとあたりを見回しているようだ。きっと真っ青になっているに違いない。愉快すぎて、左手で口元を隠して含み笑いを消す。

「みゆき、今、才原さんの声がしたよね?」
「うん、私も聞こえた。……もしかして……まさか……」
「なに?」

 ついに見つかってしまったらしい。粟島はテレビに視線を固定したまま素知らぬふりを続けた。
 そもそもすぐ真後ろに粟島がいることに気付かないのは迂闊すぎる。同じ団の先輩がそばにいるのに挨拶しなかったことだけでも怒られるには十分だ。

「今の、粟島さんですか?」
「そんなわけないやろ」

 粟島はどこからどう聞いても才原そのものの口調で答え、振り返ってニヤッと笑ってみせた。
 大貫は目を丸くして椅子から腰を浮かせかけた。瀬尾に至っては口までがぽかんと開けっぱなしになっている。

「ほんとにそっくり!」
「本人かと思いましたよ、もう、人が悪いんだから!」

 二人はついさっきまで青くなっていたことも忘れてすっかり興奮している。
 粟島は少しやりすぎたかと後悔した。劇団一クールな男役を自負している粟島は、普段からポーカーフェイスを貫き、冗談ひとつ言わない。才原が突っ込めと言わんばかりのあからさまなボケをかましてきても、大阪人の本能をぐっとこらえて無視し続けてきた。だが、今の似すぎた物真似のせいで、面白い人というレッテルを貼られてしまうかもしれない。
 粟島は話題を物真似から説教へと切り替えた。

「悪口言うときは周りに気をつけたほうがいいよ」
「すみません」

 後輩二人は神妙に頭を下げた。才原さんに言わないでください、などと余計な口止めをしないところは殊勝である。

「それにしても、粟島さん、大阪弁お上手ですね」
「大阪出身だから」

 今夜こんなに口が軽いのは、酒のせいかもしれない。粟島は答えながらもう一度後悔した。クールで都会的な男役のイメージ作りのために、大阪出身であることも極力隠していたからだ。
口調には関西の訛りがいっさい出ないよう細心の注意を払っている。服は常にシンプルな無地のモノトーンで、素材の違いで変化をつけるだけ。アクセサリーはほとんど身につけず、いつも同じシルバーのチェーンを首にかけている程度。六本木のマンションに住み、東京の街をナビもなくバイクに乗ってひとりでどこへでも行く。こうして生来の自分ではない男役としての粟島甲子を完全に作り上げているのだ。

「ええーっ!」

 声を揃えて驚く二人を横目に、粟島は仕方なく説明した。

「甲子なんていかにも阪神ファンの親がつけたような名前なんだからわかるでしょ」
「なるほど、それで才原さんとツーカーなんですね」
「ツーカー……?」

 粟島は細くつりあがった眉をぴくりと動かした。
 トップと準トップという関係になって以来、移動中も休憩中も常に才原と粟島は一緒だった。だから瀬尾が二人は仲が良いと思うのも無理はないが、それは実は才原が命じたことなのである。

『粟島、松団に友達おらんやろ』

 ある朝あの飄々とした声で失礼な事をずばりと指摘され、

『今日から私の隣におってな。稽古場だけやなくて休み時間もずっと』

 と、これまた軽い調子で言われたのだ。稽古場でいつも娘役たちに囲まれキャーキャー騒がれている粟島が、本当は団の中で孤立しているということを才原は見抜いていた。
 そのことは粟島のプライドを微妙に刺激していた。

「私だって言われてるよ。男に引かれるやろ、とか、友達おらんやろ、とか。……あいつ、デリカシーなさすぎやねん」

 封印していた大阪弁で上司の悪口を吐き捨て、テレビを睨みつけながらビールをあおる。その顔がよほど怖かったのか、瀬尾も大貫も早々に寮の部屋へと戻って行った。  その日の阪神巨人戦は延長にもつれ込み、結局引き分けた。粟島は試合が終わる十二時近くまで飲み続けながら、どぎつい大阪弁の悪態を頭の中で無限ループのように繰り返していたのだった。
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