花ものがたり ―松の章―
【3】



 待ちに待たれていたベテラン才原のトップ就任と、今までまったくのノーマークだった大貫優奈の娘役トップ抜擢は、ファンのみならず劇団内部の人間をも驚かせた。だが決まってしまえばこちらのものだ。印刷物が作られ、スケジュールが確定していくうちに、どんな人事もいつのまにか当然のように人々に受け入れられていく。
 そしてほどなく、新生・松団トップコンビの初仕事が決まった。国立銀座歌劇場六月公演の制作発表記者会見だ。
 国立銀座歌劇場は、銀座のど真ん中にある客席数二千五百の大劇場である。花水木歌劇団にとってここで行う公演がいわゆる本公演で、各団のメンバー全員が出演する。通常は松・竹・梅の三つの団が一か月交代で公演を行っているが、毎年一月には三団合同の特別公演が打たれる。
 花水木歌劇団の公演は、まずショウ、そのあとに芝居、という二本立ての構成と決まっていた。ショウは顔見世(かおみせ)舞踊ショウといって創立当時から行われているものだ。初めて花水木歌劇団を見る観客も、顔見世舞踊ショウを見れば、主な劇団員の顔と名前が一致するようになっている。
 六月の新生松団トップコンビ披露公演は、ショウのタイトルが『ブラン・ニュー』、そして芝居は『雪之丞変化』と決まった。
 『雪之丞変化』は、親の仇を討つために役者になった美青年の雪之丞が、仇の娘・浪路を誘惑して敵の懐に入り込む……という、昔からたびたび舞台化されてきた有名なストーリーである。歌舞伎俳優を演出に迎えて行う本格的な時代劇だ。

「……あの、才原さん、記者会見はお着物で出られますか?」
「ううん、私は洋服やけど。大貫は着物でもええんちゃう?」
「いえ、私も洋服にします! どんなお洋服になさるんですか?」
「まだ決めてへんけど……。大貫は自分に似合うもん着たらええよ、私のことは気にせんと」

 そう言って才原は箸を持った手をひらりと振った。
 午前中に大貫が悲壮な表情で「ランチをご一緒していただけませんか」と話しかけてきたので、何か悩みでもあるのかと思って付き合ったら、記者会見のときに着る服の相談をしたかったらしい。
 だが才原は、娘役の服装については本人に任せることにしていた。自分自身に似合う服ひとつ探すのも楽ではないというのに、他人の好みや服の相性まで気にしていてはきりがない。それに、補助金は劇団からいくらか出るものの、自腹を切って服を購入するのは本人だ。記者会見の服などに時間とお金と労力をかけるより、その分舞台の稽古に集中したほうがいいと才原は考えていた。
 しかし大貫はまだ思い切れない様子だ。

「……でも、やっぱり相手役さんと並んで綺麗に見えたほうがいいですし……」
「大貫も私も綺麗やさかい、着るもんなんて何でも大丈夫」

 才原はそう言い切って黙らせた。キャリアが八年も離れていると、どうしても下が気を遣いすぎてしまう。それはトップコンビの関係としても職場の環境としても良い状態とは言えない。
 そのとき、頭の上からクールな低音の声が降ってきた。

「才原さん、来週の記者会見の服の件なんですけど」

 準トップ男役の粟島甲子だ。彼女も一緒に記者会見に出ることになっている。

「あ、メール見てくれた?」

 才原は箸を置いて粟島を見上げた。粟島にはあらかじめメールで相談を持ちかけていたのだ。男役どうしで格好がそっくりだったり、準トップのほうがトップよりフォーマルだったりすると、記者たちもどちらがトップなのかわからなくなってしまう。

「粟島何着るん? やっぱり黒? 私もな、ダーク系のスーツにしようかと思てんねん」
「才原さんいつもスーツですよね。私は今は髪が明るいんで黒はやめときます」
「髪色、そのままなん?」
「はい、どうせ芝居はカツラなんで」
「ほな私は黒に戻そうかな。そしたら粟島が明るい色、私が暗い色でまとめたらええやろ」
「そうですね。じゃあグレーにします。ネクタイはどうしますか?」
「一応トップ御披露目やから団カラーで行くわ」
「じゃあ私は……ノータイでいいでしょうか」
「スカーフぐらいしといたら? 可愛いやつね」
「……善処します」
「持ってへんのやったら貸そうか?」
「結構です」

 大貫が前にいることも、ざるそばを食べている途中なこともすっかり忘れ、才原はこの些細な雑事にここで一気にかたをつけてしまおうと早口で粟島と話を詰めた。
 そのとき、急に向かいの席からばたりと箸を置く音がした。

「ごちそうさまでしたっ! お先に失礼します!」

 大貫は才原がびっくりするほどの勢いで音を立てて立ち上がると、あっけにとられている才原を振り返りもせずに食堂を出て行った。

「どないしたんやろ」

 思わずつぶやくと、粟島が声を出さずにくっと笑ったのが椅子の背の振動で伝わった。

「何がおかしいねん」
「私が来る前、優奈と何を話していらっしゃったんですか」
「記者会見の服のこと。私が何着るか聞いてきたさかい、別に気にせんと好きなもん着たらええよって……」

 粟島はこれみよがしな溜息をついた。

「男役歴が長すぎると女心がわからなくなるんですね」
「何っ?」

 失礼きわまりない後輩の言い草はさりげなく真実をついていた。歌劇団に入ってから十七年、たしかに男役の考え方が身に付き過ぎてしまったと言えなくもない。癪にさわるが、粟島にはわかるらしい大貫の女心とやらが気になった。あのふわふわとしたのんびり屋があれほど怒っているところは今まで見たことがない。

「トップコンビの御披露目なんですから、ペアルックぐらいしても罰はあたらないでしょう」
「はあ……?」

 才原は眉根を寄せた。大貫がプレッシャーを感じないようにと自由にさせようとしたのが裏目に出て、かえって相手に興味がないように思われたのだろうか。

「ちゃんとフォローしたほうがいいですよ。あの子、芯は意外と強いですから」

 粟島はそれだけ言って才原の肩に冷たい手をすっと置くと、そのままどこかへいなくなった。

 それから数日後―――。
 とうとう記者会見の当日がやってきた。
 今日は朝九時から本部の一階ロビーで会見を行った後、稽古場に移動して出演者とスタッフの顔合わせをするというスケジュールになっている。才原はいつものように関係者専用の通用口から入り、ロビー横の控室に直行した。
 そこにはすでに大貫がいた。大貫は、黒く戻した天然ウェーブの髪によく似合う淡いピンクベージュの上品なワンピースを着ていた。胸元に揺れるシフォンのフリルが女らしい体つきを控えめに見せている。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「髪、黒くしたんや? 似合ってるやん」

 見るなり、才原は速攻で褒めた。
 大貫は一瞬嬉しそうに微笑んだが、すぐに目を伏せた。まだ完全には機嫌が直っていないようだ。

「笑うと可愛いのになあ」

 何気なくわざとらしい独り言をつぶやく。
 今までヒロイン役が付いていなかったのが不思議なほど、トップ娘役になった大貫は美しくなっていた。白くふっくらとした頬や二の腕のライン、優しい印象の切れ長の大きな瞳と小さな口。最近多い手足の長いきつい印象の美人とは違い、昭和の半ばごろのポスターのような懐かしい愛らしさがある。この子を相手役に選んだ自分の目は正しかった、と才原は改めて悦に入った。
 今日の才原は、黒髪をオールバックに固め、チョークストライプのダークグレーのスーツにオーダーメイドの白いカッターシャツを着て、松団のカラーであるグリーンのネクタイを締めている。才原お得意のまったく着崩さないビジネスマン風スタイルだ。女のくせにこんな恰好が似合ってしまうとは、これが仕事でなければ悲しくなるところだ。

「おはようございます。才原さん、優奈の機嫌直りました?」
「あと一押しやな」

 本部の控室に最後に顔を出した粟島は、ライトグレーのスーツに身を包み、首に薄紫のスカーフをあしらっていた。そのやわらかい質感が、伸びた金髪とあいまって、怜悧すぎる美貌を和らげている。
 二人の会話が聞こえているに違いない大貫は、俯いたまま白い頬を赤らめていた。
 その最後のあと一押しをすべく、才原は大貫に向かって手を差し出した。

「大貫、右手ちょうだい」

 才原は、おずおずと差し出された大貫の手首を片手で軽く握り、スーツのズボンのポケットから小さな金色の文字盤に飴色の革ベルトがついた腕時計を取り出した。才原の右手にも、少し大ぶりなサイズのお揃いの腕時計が光っている。

「……えっ……」

 大貫の細い手首にその新しい時計をつけてやりながら、才原はぼそぼそと言い訳をした。

「私な、娘役にああしろこうしろ言うの好きやないねん。男役どうしは服が被るとあかんから相談するけど。私の考えでは、男は引き立て役やから、隣にいる娘役が一番輝いてるのが嬉しいん。そのほうがお互いに素敵に見えると思うし」
「でも……薫さんはいつも才原さんに合わせていらっしゃいましたよね?」

 見上げてくる大貫の目の真剣さに、才原ははっとした。こんな余計な思いまでさせていたとは、女心がわからないとなじられても仕方がない。
 大貫は薫の代わりになろうとしてくれていたのだ。薫が才原といつも服装を合わせていたから、自分もそうしなければならないと思ったのだろう。それをあっさりと断られ、さらに目の前で別の相手と相談をされ、傷つかないはずがない。

「逆、逆! あれは薫が私に指図してきよったんや。それでヤキモチ妬いてたん? 可愛いなぁ」

 もう二度と気にしなくていい、心配いらない、と伝えたくて才原はわざと明るく笑い飛ばした。
 以前にペアを組んでいた熊谷薫は、大貫とは正反対の性格で、才原よりも後輩だというのに自分たちをコンビで売り出そうとプロデュース力を発揮していたのだ。その上昇志向の強さが、いつまでたってもトップになれない才原を見限って先に辞めるという行動につながってしまった。
 この子の手は、最後まで決して離さない。
 細い手首にベルトを巻きながら、才原は改めて自分の心に誓った。
 腕時計をつけおわると、はい、と文字盤の位置を直してやる。

「私からのプレゼント。大貫がどうしても私と揃えたいんやったら、時計ならええかなと思って」
「才原さん……。ありがとう、ございます……」
「ほらまた泣くー。これから仕事やで? わかってんの?」

 叱っても大貫はなかなか泣き止まず、粟島がすかさず差し出したハンカチを目に当てて泣き続けた。

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