花ものがたり ―松の章―
【2】



 霞が関の官公庁街の一角にある花水木歌劇団ビル、通称本部は、一、二階が劇団事務所、三、四階が稽古場と養成所、五階から十二階が劇団員と養成所生徒の寮になっている。まるで寝るとき以外は稽古しろと言っているようなものだ。
 才原もここに住んでいた養成所の二年間と入団後の三年間はがむしゃらに稽古に明け暮れた。四年目に寮を出てからはずっと江東区のマンションに一人暮らしをしている。華やかなステージの仕事とはいえ一介の公務員なので、それほど贅沢はできない。ファンなどからの献金は厳しく禁じられており、洋服や美容などの費用を捻出するために寮生活をしている劇団員も多かった。才原が寮を出たのは、金よりもプライベートな時間が欲しかったからだ。
 まだ終電には間に合うと判断し、地下鉄の駅へ向かうつもりで本部を出た才原の前に、一台のバイクが止まった。
 不審に思った瞬間、ヘルメットを持ち上げた中から淡い金色の短い髪が現れ、切れ長の目がこちらを見つめてきた。

「乗っていきませんか?」
「……粟島……」

 才原は吹き出しそうになったのをこらえた。
 ヒールのないスニーカーでも十分に地面に届く、細身のジーンズに包まれた長い脚。肩のラインを強調する黒革のライダースジャケット。金髪ストレートの前髪から覗くクールな目と、ぶっきらぼうな口調。後輩の粟島甲子(あわしま こうこ)は、観客もいないのに格好良い男役を演じきっている。しかも、若い娘役相手にではなく、自分より三年も先輩のトウの立った男役に向かって。

「何そのキザり。……ていうか粟島、家六本木やろ。方向逆やないん?」
「トップさんをひとりで終電なんかに乗せられませんよ」
「……誰に聞いたん」

 才原が次のトップ男役に決まったことは、本人さえ今日初めて聞いたことだ。総務部の幹部数人と、さっき話したばかりの大貫しか知らない極秘事項のはずなのに、なぜそれを粟島が知っているのか。
 粟島は問いには答えずに黙ってバイクを降り、予備のヘルメットを出して才原に装着させたあと、シートの下に才原のバッグを入れ、再びバイクにまたがった。一連の動きが完全に慣れきっている。いったいこれまで何人をバイクの後ろに乗せてきたのだろう。

「うちの近くにいい所があるんです。付き合ってくれませんか」
「誰をナンパしとんねん。百年早いわ。今日はもう遅いし疲れた。早く帰りたい」
「少しだけですから……お願いします」

 めずらしく食い下がってくる粟島に、才原は折れてやることにした。きっと何か話があるのだろう。無口な粟島が自分から声をかけてくるなんて、めったにないことだ。

「しゃあないなぁ。ちょっとだけやで」

 才原は粟島の後ろにまたがり、遠慮なく腰に両腕を回した。今までに乗せてもらったことのある男たちに比べ、腕の中の粟島の体の細さは頼りなくて、大丈夫かと思いながらぎゅっと抱きついたとたん、その感触に才原はびっくりした。女性の体とは思えないほどの固さだ。思わずライダースジャケットの下のTシャツの腹を撫でまわしてしまう。

「何なんこの筋肉! もしかして、腹筋割れてんのとちゃう?」
「はい」
「うっわ……、男に引かれるやろ」
「…………」

 粟島は明らかに機嫌を損ねた様子で突然バイクを発進させた。才原は危うくバランスを崩しそうになって粟島にしがみつく。

「ごめん!」

 風を切って夜を走るバイクの騒音に負けないように才原は怒鳴った。しかし、粟島はまるで聞こえていないかのようにそのまま目的地までバイクを走らせた。
 無言でも気まずくないのがツーリングのいいところだ。触れ合っている相手の体温は、どう間違っても優しい温度にしかならない。
 粟島がバイクを停めたのは、東京タワーの足元だった。見上げても全体が視界に入らないくらいに近い、まさに真下の位置だ。ライトアップされたタワーのおかげで周囲は昼間のように明るい。暖かくきらびやかな光をまとった巨大な曲線が夜空に伸びている姿は、圧倒されるほど美しかった。

「いつもこんなとこで口説いてるん? 悪い奴やなあ」
「誤解です。私は口説いたことなんてありません。口説かれたことしか」
「あ、そうですか」

 稽古場で常に娘役に取り囲まれている粟島は、無表情で無口なのに、女たちが放っておかない。しかし特定の相手と付き合っているというわけでもないらしく、何を考えているのかよくわからなかった。
 芸はできる。ダンスも歌も芝居も穴がなく、その上この色気と美貌だ。今日部長室に呼ばれるまで、次の松団のトップは粟島だろうと才原は思っていた。
 エンジンを切ると、粟島はヘルメットを脱ぎ、髪を振りながら東京タワーを見上げた。

「私はスカイツリーよりこっちの方が好きです。綺麗で、暖かくて、ほっとする。何より昔から東京を見守ってきたシンボルですし。ただ大きけりゃいいってもんじゃない」
「ふうん」

 才原もヘルメットを脱いでタワーを眺めるふりをしながら粟島をちらりと見た。こんなに饒舌な彼女は今まで見たことがない。いったいどうしたというのだろう。
 すると、そんな心の動きを見透かされたように言われた。

「変なやつだって思ってるでしょう? 私のこと」
「いや。そんな言うほど知らんもん」
「私が松団に入ったとき、才原さんはもう小劇場公演の主役でした。そのときからずっと見上げてました。圧倒的に綺麗で、キラキラしてて、でもすごく暖かくて」

 粟島の言いたいことがだんだん飲み込めてきて、才原はいたたまれなくなった。なんと、東京タワーに例えられている。
 わざわざ現地に連れて来てのこのセリフ。これで『口説いたことがない』なんて、きっと大嘘に違いない。

「なんで急に私の魅力について語り始めるん? まさか家に連れ込もうとかしてないよね? そうなったら腕力では絶対勝てへんやん! 卑怯やで自分」
「才原さん……」

 粟島は呆れたように溜息をついた。

「ちゃんとご自宅まで送りますから。もう少しだけ話聞いてください」
「そんならさっさと話して」
「わかりましたよ。……よろしくお願いします。頼りない準トップですみません」

 粟島は噛みつくようにそれだけ言うとヘルメットを被って向こうを向いてしまった。
 そういうことだったのか。
 松団の準トップ男役の内示を受けるために部長室に呼ばれて、そこでトップが才原だと聞き、挨拶をしようとしてこんなところまで連れ出したのだ。

「……なかなか可愛いとこあるやん、粟島」

 ライダースジャケットの背中でくすっと笑ったのを聞かれたらしい。
 そのあと抱きついた粟島の体は、ほんの少し熱くなっていた。

 その明くる日のことである。

「おーい、瀬尾!」

 稽古が終わって劇団員が三々五々帰り支度を始めたとき、才原は後輩男役の瀬尾みゆきに声をかけた。瀬尾は大貫優奈と同期入団で、寮でも同室の親友である。男役としてはもう一皮むける余地があるように才原には見えるが、キャリアの割に信頼のおける団員のひとりだ。
 この瀬尾と大貫とはただの同期ではない。
 松団には、トップコンビ以外の団員も決まった相手とペアを組むというしきたりがあり、瀬尾と大貫はそのペアなのだ。ペアは当人同士の話し合いだけで組まれるものなので必ずしも公演の配役に反映されるわけではないが、男役と娘役は私生活においても擬似的なカップルのように存在するのが好ましいと考えられ、それも俳優修業の一環と捉えられていた。
 このしきたりは他の団にはなく、松団特有のものだ。松竹梅の三団の中で最も古い松団には、男役は男らしく娘役は女らしくという考えが根強く残っている。
 才原と大貫がトップコンビになると、必然的に瀬尾と大貫のペアは解消されてしまう。
 公式発表でそのことが明らかになる前に、瀬尾には伝えておかなければならなかった。

「いきなりで悪いんやけど、今日これから時間ある?」

 先輩からの誘いはたとえ私用があったとしても断ってはならない――それが花水木歌劇団の鉄の伝統だ。瀬尾からはもちろん、

「はい、大丈夫です」

という返事が返ってきた。

「ほな一杯付き合うてな」
「コーヒーですよね?」

 才原は返事の代わりにパシッと瀬尾の肩を叩いてシャワーを浴びにいった。
 実は、才原は、酒が一滴も飲めない。
 性格からすると信じられないようなことだが、体質的にアルコールアレルギーなのだ。だから才原は、プライベートな話があるときはいつも半蔵門にある夜カフェに相手を誘う。瀬尾も何度か連れて行ったことがあった。
 稽古場を出た二人はタクシーを捕まえて本部ビルからほど近いカフェへ移動した。
 ガラスの扉をくぐると、ほの暗い間接照明の中にアンティークのさまざまなテーブルや椅子が並んでいる。才原はそれらのテーブルではなくカウンター席を選んだ。
 オーガニックのベジタリアンメニューから軽い夕食を注文する。どうせ後輩は奢られると思って遠慮するので、常連の才原がひとりでどんどん決めていった。
 料理が出てくるのを待つ間も、食べている間も、才原はひとりでどうでもいいことをしゃべり続けた。そうでもしなければ酒も飲まずに今日の本題を言い出すことなどできない。

「……おかしいやろ、粟島。いまどき皮ジャンでバイク乗る奴いるか? しかもフルヘルで! それにな、バイクいうてもビッグスクーターやで。あんな予備ヘルメットの入るバイクなんか、ナンパするためのもんやん? あいつ普段どういう生活してんねやろなぁ。瀬尾は絶対ああいうの真似したらあかんで……っていうか気ぃつけや、あれがまさしく送り狼ってやつや」
「才原さん、襲われたんですか?」
「まさか」

 瀬尾の突拍子もない発想に、才原は一瞬きょとんとした。
 瀬尾は昔から想像力のたくましいところがある。それに、こんな女ばかりの足の引っ張り合いのような劇団の団員にしては、珍しいほど素直なのだ。
 あの粟島が才原などに手を出してくるほど人肌に飢えているはずがないのに、瀬尾は本気で心配そうな顔をしている。

「才原さんこそ気をつけてくださいね」
「気をつけようがないわ。知ってる? 粟島、腹筋割れてんねんで」
「……見たんですか?」

 瀬尾の声が裏返った。才原はカウンターに両肘をついて盛大に噴き出した。

「瀬尾おもろいわー。あ、そうそう、飲み物何にする? お酒でもええよ」
「いえ、私は、コーヒーで……」
「ここカプチーノがうまいんやで。カプチーノでええ?」
「はい」

 結局才原は自分の好きなものを勝手に注文した。相手に気を遣わせないためにはそのほうがいいこともある。

「それで、本題なんやけど」

 可愛らしいクマのアートが施されたカプチーノをそろそろと口に運びながら、才原はやっと切り出した。

「はい」
「大貫と、ペア解消してくれへん?」

 さすがに緊張して、必要以上にさりげない芝居のようになってしまったが、返ってきた台詞は拍子抜けするものだった。

「もうしましたよ」

 ほんの少し得意げな後輩の顔を、才原は驚いて見つめた。

「ほな、もう知ってるん?」
「はい、昨日聞きました」
「なんや……大貫何も言わへんねんもん……」

 目いっぱい遣っていた気が抜けて、才原はカウンターにぐったりと肘をついた。そういうことなら話は早いが、この数時間の気苦労がむなしい。

「きっと、発表前に私に言ったことがばれたらまずいって思ってるんじゃないですか?」
「アホやなあ。こういうことは発表前に言わな意味ないやん」
「確かに」

 トップの人事は発表までは極秘というのが建前だが、そこは二人の仲だ。もし才原が大貫の立場だったらやはりパートナーには真っ先に打ち明けるだろう。

「どうして優奈を? って聞いてもいいですか」

 瀬尾は遠慮がちに尋ねてきた。
 それは当然の疑問だが、才原も、はっきりと説明できるほど論理的に決めたわけではない。ほとんど勘といっていいようなものである。

「そうやなぁ。不思議やろ? 自分でも驚いてるもん。……一言では言われへんけど、見た目やら性格やら実力やら、私との釣り合いやら、他のトップコンビとのバランスやら、総合的にいろんなことを考えて、大貫とのコンビが一番成功の可能性があると思って決めたんや」

 そこまで真面目くさってぺらぺらと喋ったあと、さすがに良心がとがめて小声で付け加えた。

「……って、嘘やけど」
「やっぱり!」

 瀬尾は呆れたように眉をへの字にゆがめたが、肩が小刻みに揺れている。笑いをこらえているらしい。

「えー、なんでバレたん」
「偶然通りかかったからじゃないかって優奈が言ってましたよ」

 才原は図星をさされたのを誤魔化すようにアハハと笑って、一瞬だけ真顔に戻した。
 ちゃんとした答えと言えるかどうかはわからないが、瀬尾には自分の思いを伝えておきたい。養成所に入ったその日から八年間も苦楽を共にしてきた大切な相手を、才原に託そうとしてくれているのだから。

「まあ、確かに偶然もあるけど、それだけやないで。大貫とおるとホッとすんねん、私が。強いて言うなら、人柄、かな」
「そうですか……」

 セルフレームの眼鏡をかけた瀬尾の横顔がふと和んだ。

「才原さん。優奈をよろしくお願いします」
「……わかった」

 二人は額を寄せて、熱いカプチーノの器をかちりとぶつけあった。

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