花ものがたり ―松の章―
【11】



「明けましておめでとうございます」
「おめでとう、今年もよろしゅう」
「おめでとうございます、才原さん」
「はいはい、おめでとうさん」

 元日の朝九時。
 霞が関にある花水木歌劇団本部ビルのいちばん大きな稽古場には、三団すべての団員が、松竹梅の模様が染め抜かれた黒紋付に団カラーの袴という正装で集まっていた。全員白扇を持っている。男役は袴を腰骨あたりで履き、髪型は七三分け。娘役は袴を胸高に短めに履き、髪はお団子にしている。
 全員が全員に新年の挨拶をしようとするものだから、いかにだだっ広い稽古場といえど混雑と喧噪はひどいものだ。
 松団トップ男役の才原霞は、そのうるさい集団の中心にいた。松・竹・梅の三団のトップの中で最年長の才原には、誰もが真っ先に挨拶しようとして詰めかけてくる。

「え? 聞こえへん! 何?」
「今年も! ついていきますので! よろしくお願いします!」

 ごった返す人垣の後ろから一生懸命叫んでいる大貫が可愛らしくて、才原は、眉をしかめながら耳にラッパのように手を当てた。

「全然聞こえんわ。もっと大きい声で!」

 才原の意図に気づいた周囲の団員たちがくすくすと笑い出し、大貫は真っ赤な顔で恥ずかしそうに身をひるがえしてどこかへ行ってしまった。
 思い返せば、大貫のことを相手役として意識したのは昨年の四月だった。それまでは大貫はその他大勢の娘役のひとりでしかなく、ダンスや歌どころか芝居で台詞をしゃべっていた印象もあまりない。それがこの八か月間で別人のようにスター性と実力を身に着け、ファンの絶大な支持を得るようになった。泣き虫ののんびり屋がよくここまで自分にくらいついて来たなと、才原は改めて、後輩ながら尊敬のような気持ちを覚えた。
 あのとき大貫を選んだのは、単なる直観でしかなかった。大貫のわかりやすい女らしさや柔らかさ、そして純粋な心に惹かれただけだ。
 だが、今、大貫と並んで舞台に立つと、誇らしい気持ちで胸がいっぱいになる。どうだ、これが松団のトップコンビだ、と胸を張れる自分がいる。

「才原さん、明けましておめでとうございます」
「ああ、粟島か、おめでとう」
「何を考えていらっしゃったんですか?」
「うん……新しい松団になってから、もう八か月になるんやなあって」
「才原さんは十年前からトップやってらっしゃるような気がしますけどね」
「粟島も言うようになったなあ」

 金髪をぴたりと撫で付け、整いすぎた真顔で冗談を言う粟島を、才原はまた少しの感慨を持って眺めた。
 この後輩は女ばかりの集団のなかでどのグループにも属することなく、途中からの異動組ということもあって、完全に孤立していた。粟島のファンを自称する団員たちはいつも粟島の周りを距離を持って取り囲んでいたし、粟島も自分から溶け込もうとはしなかった。
 そんな転校生を才原も気にかけてはいたが、自分が準トップをやっていた頃には才原自身も人の面倒を見るほどの余裕がなく、もちろん粟島のほうも必要なとき以外は全く才原に話しかけてこなかった。
 それが今では、劇団内でいちばん身近な存在であり、いつも黙って隣にいる。出身地や好みや価値観など、ふとした時にお互いの意外な共通点に気づくことも多い。才原が何も言わなくても粟島は常に才原を見ていて、知らないうちに踊りの見せ方や芝居の間などがどことなく似てきていた。

「あと二年四か月、よろしゅうな」

 粟島が驚いたような顔で才原を見た。
 自分がいて、大貫がいて、粟島がいる。この今しかない松団をもっともっと磨き上げ客席に伝えたい。そのためには限られた時間を精一杯舞台に打ち込むだけだ。
 年の初めの朝に、才原は決意を新たにして初詣へと向かった。




 毎年、正月は、国立銀座歌劇場で花水木歌劇団の全団合同特別公演が行われる。
 一月二日の初日には、まず朝九時に本部で年賀の挨拶を行った後、劇団所有のバスで赤坂の山王日枝神社へ初詣に行き、長唄『君が代松竹梅』の舞を奉納する。そして同じバスで劇場入りし、初日の公演を行うのが通例となっていた。
 多くの花水木ファンは日枝神社で劇団員たちを待ち構えていて、舞の奉納が終わると急いで劇場へと移動し、初日の舞台を観劇するのである。

「なあ、粟島は初詣で何お願いする?」

 霞が関の本部から銀座や赤坂の劇場へ移動するのに毎日乗っているのでバスの席順はすっかり決まっている。才原の席は運転手のすぐ後ろの席の窓際で、その隣が粟島だ。

「無病息災」
「なんでそこでボケへんねん。会話が終わってまうやんか」

 答えが面白くなかったことに文句を言うと、粟島はお情けのように聞いてくれた。

「才原さんは何をお願いするんですか」
「よくぞ聞いた。『粟島がもっと素直になりますように』」

 才原はどうだと言わんばかりの顔で答えたが、期待したようなクールな突っ込みは返って来ない。

「あれ? 痛いとこ突いてしまった?」

 紋付の肩をくっつけて隣の顔を覗き込むと、粟島は正月から能面のような極め付けの無表情でバスの床を見つめていた。なんと、図星らしい。もちろん会話はそこで途切れ、才原は気まずい思いをするはめになった。
 最近の粟島はどこかおかしかった。仕事は完璧以上にこなしているが、休憩時間に才原が話しかけても目も合わせなかったり、そうかと思えばふと気づいた時にじっと才原の方を見つめていたりする。私生活で悩みでもあるのかと思い、初詣の願い事にかこつけて話を引き出そうとしてみたが見事に失敗したというわけだった。
 沈黙が続くいたたまれなさを紛らわせようと車窓から正月の街の賑わいを眺めていると、やがて神社に到着した。バスが駐車場に停まるや否や粟島はさっさと降りて行く。

「待って、粟島」

 慌てて追いかけてバスを降り、駆け寄って粟島の腕を掴んだ瞬間、耳をつんざくような大人数の叫び声に襲われて立ちすくんだ。バスを遠巻きに取り囲んだファンの一群が、才原の動きを見て興奮のあまり黄色い歓声を上げたのである。

「才原さん、手を離してください」

 粟島に囁かれて初めて才原は人目を意識した。ロープの外に並んだ分厚いコート姿の女性たちが皆デジタルカメラや携帯電話をこちらへ向けている。才原は急いで粟島から離れ、手で素早く髪型を直し襟を正した。多くのファンが待ち構えていることはわかっていたはずなのに、粟島を追いかけるのに夢中になっていたのだ。どうも粟島の前では自分はただの子供のようになってしまうらしい。才原は深く反省し、気持ちに活を入れた。
 これから今年一年の初仕事なのだ。きちんと松団のトップらしく振舞わなくてはならない。
 にこやかにファンに会釈したり手を振ったりしながら、才原を先頭に、花水木歌劇団の団員たちは玉砂利を踏んで神社の奥の奉納舞台へと向かった。
 正月の寒さは着物一枚の身にはこたえる。ひゅうと吹いた風に才原が首を縮めると、隣を歩いていた粟島が小さな声で尋ねてきた。

「ショール、バスに置いてきたんですか?」
「うん。忘れた」

 すると不意に肩と背中がふわりと温かくなった。粟島が自分の黒いショールを外して才原の肩にかけてくれたのだ。思わずファンの集団に目をやると、ほぼ全員が口を手で押さえている。先ほど叫んでしまったのを反省して今度は耐えたらしい。

「なあ、粟島、ちょっとキスとかしてみる?」
「は?」
「駆け寄ったりショールかけただけであんなに喜んでくれるんやから、もうちょっと見せつけたら失神したりする人いるかもなあと思って……」
「正月早々くだらないことばかり言わないでください」
「へい」

 やっぱり初詣に神様にお願いするのは、素直なだけでなくノリのいい粟島にしよう、と才原は思った。本当はひねくれて冷めたポーズの粟島が好きなのだとわかっていたけれど。

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