花ものがたり ―松の章―
【12】



 正月の全団合同公演は、無事に千秋楽を迎えた。
 花水木歌劇団のチケットは抽選販売方式だが、この合同公演ではその倍率が過去最高の十五倍に達した。それは、今年のトップ三役には人気実力ともに歴代スターの中でも屈指のメンバーが揃ったからだ。一か月間一席も空席のない満員御礼の日々は、花水木歌劇団史上でも珍しく、才原は出演者としても団を代表するトップ男役としても心の底から満足した。
 千秋楽の後は特に休みになるわけでもなく、翌日からもう次の公演の稽古が始まった。竹団や梅団の団員たちが去ってまた元の松団のメンバーだけになった稽古場には、なんとなく祭りの後のような寂しさと安堵感が漂っている。
 才原は、本読みと歌の稽古と雑誌の取材だけの一日を終えてエネルギーを持て余していた。まっすぐ帰るのもつまらないし、残って稽古をする気にもなれない。
 『はなみずき』というファン向けの月刊誌に収録するための対談を終えたばかりの会議室で、才原は、その対談相手の粟島に声をかけた。

「粟島、今日もう帰る?」
「はい」
「今から粟島の家遊びに行ってもいい?」
「ダメです」
「なんで」
「掃除もしてませんし散らかしてますから」
「そんなん気にせんよ」
「私が気にするんです」


 粟島はスケジュール帳越しに、何を寝ぼけたことを、という目で才原を見た。
 才原&粟島という対談相手の組み合わせはファンからのリクエストで第一位だったというのに、粟島にはプライベートの話題を提供する気はなさそうである。才原は口をとがらせて不満をアピールしながら次の作戦を考えた。今夜の暇はどうしても粟島でまぎらわせたい。

「ほな、あそこ連れてって。前に行ったやん。東京タワー」
「行ってどうするんですか?」

 才原はそこまで考えていなかったので一瞬詰まったが、すぐに口から出まかせを言った。

「ご飯食べる」

 粟島は妙な顔をしてわずかに首を傾げた。

「ファストフードしかありませんよ」
「それでええよ。ポテトなら食べれるし」
「……わかりました」

 考えてみればこうして稽古の後に粟島と二人だけでどこかへ行くのは初めてだった。家まで送ってもらったことはあるが、途中で食事をしたことさえなかったのだ。大貫や他の団員たちとは気軽にオフで会っているのにどうして粟島とはそうしなかったのだろうと才原は今さらふと思った。仕事の間はほとんどずっと二人でいるので、終わった後まで一緒に出かけるという発想がなかっただけかもしれない。
 才原はもう自分専用のようになっているヘルメットをかぶり、すっかり乗り心地にも慣れた粟島のスカイウェイブにまたがった。

「早く早く」
「何をそんなにはしゃいでるんですか」
「え? 初デートやん」
「…………」

 真冬の夜のツーリングの体感温度は猛烈に低く、シルバーのライダースジャケットを着た粟島にしがみついている体の前側だけが温かい。どうやら粟島は腹部にカイロを貼っているようで、そのおかげで才原の手はかじかまなくてすんだ。
 凍り付くような透明な夜気の中に東京タワーはいつもより明るく輝いて見えた。バイクを降りてヘルメットを脱ぐと、とたん冷たい風が頬を刺し、息が白くたちのぼる。
 粟島は単車置き場にバイクを停めるとすぐにタワーの中へ入ろうと歩き出したが、才原はしばらくその場に立ったままタワーを見上げていた。以前、粟島はこのタワーに才原を例えたのだ。綺麗で、暖かくて、ほっとする、と。

「ご飯食べるんじゃないんですか? 寒いから早く入りましょう、風邪ひきますよ」

 振り返った粟島がこちらへ歩いてきた。タワーの赤い光に金髪がきらきらと輝く。
 そうだ、綺麗なのも暖かいのもほっとするのも、すべて粟島のことだ、と才原は思った。
 東京タワーへ連れて来られたあの時から……いやもっとずっと前から粟島は才原を見ていた。その視線は熱いときも冷たいときもあったが、決して才原から離れることはなかった。それがどれだけ心強いことか。そして、どれだけ孤独を忘れさせてくれることか。

「もうちょっと見てたいねん」

 粟島は軽く溜息をつきながら少し離れたところに立ち止まった。ちらっと横目で確認すると、案の定、タワーではなく才原を見ている。才原はこぼれる笑みを抑えきれなくなってしまった。

「何見てるん」
「……別に」
「粟島、私のこと好きやろ。口説いてみ」

 確信はあったが、別に単なるデートごっこだと思われてもそれはそれでかまわない。キザなラブシーンを極めた男役なら、仲間相手にこういうアドリブのひとつやふたつはすぐ言ってのけるものだ。
 だが粟島はむっとしたように眉をひそめた。何がそんなに機嫌を損ねたのか、その瞳は明らかに才原を冷たく非難している。本気で怒らせてしまったのかと思った瞬間、近づいてきた粟島に突然腰を抱き寄せられ、唇を押し付けられた。
 冷たい唇がじんわりと温かくなるまで触れ合わされた後、そっと離れていく。

「何やそれ! 問答無用?」

 才原は笑いながら、お互いのリップバームが混じりあった唇を手の甲でぬぐった。

「……口説く必要もないと思ったので」
「なんで」
「違いますか?」
「違わんけど」

 ごく自然に認める言葉が口をつき、才原はそんな自分に少しばかり驚いた。
 初めて準トップになった七年前から、才原は恋をするのをやめていた。仕事が忙しかったのもあるが、この年になったら将来の見えない相手を好きになるのはアホらしいと思っていたのである。それに、人生のパートナーにふさわしい男をもし見つけたとしても仕事の関係で結婚は何年も先になるかもしれず、寂しいからといって女を側に置いたところでお互いに将来の可能性をつぶしあうだけだ。それくらいなら恋愛などしないほうがいいと思っていた。
 だが、粟島と過ごすうちに、単純に人を好きだと思う気持ちを思い出したのだ。
 隣にいると楽しくて、体温が上がる。離れれば会いたいと思う。一緒に寝ると安心する。
 先のことなど考えても仕方がないし、側にいられる時間はそもそも限られている。だったら今の気持ちに素直に従うのがいちばんではないか。

「いつの間にか粟島のこと好きになってたみたい」

 そう言うと粟島は思ったとおりに目を伏せて表情を固くした。天邪鬼もここまでくればむしろわかりやすいというものだ。

「どうせすぐ飽きるんでしょう」

 才原は耐え切れずに噴き出した。静かな都心の夜にハスキーで楽しげな笑い声が響く。

「なんで素直になれへんの。嬉しいくせに」

 粟島は無言でライダースジャケットのポケットから煙草を取り出した。才原もすかさずちょうだいと手を差し出す。並んで煙を吸い込むと、深々と落ち着いた気持ちになった。心の温かさで二月の外の寒さもそれほど気にならない。

「ご飯、どうします?」
「一服したらどうでもよくなった」
「どこかに食べに行きませんか?」
「外食は疲れるから、買って帰って家で食べたい。粟島も一緒に食べよ」

 はい、と真面目に頷く粟島を見て、才原はにんまりしながら付け足した。

「送り狼になってもええよ」
「なりません」

 目も合わさず即答した粟島に、才原はまた声を上げて笑った。その後しばらく黙って煙草を吸い、吸い終わったあともう一度キスをして、二人は東京タワーを後にした。

松の章 終わり
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