花ものがたり ―松の章―
【1】



「才原さん! 総務部からお電話です」

 後輩劇団員の高い声に呼ばれ、窓際で煙草をくゆらせていた才原霞(さいばら かすみ)は気怠げに振り返った。
 前髪だけ長めに流し、横と後ろは短く切った黒髪がうなじを涼やかに見せている。痩せてとがった肩や細い腰には女らしさの欠片もないが、いつも潤んで見える大きな瞳だけは、年齢に似合わない少女のような可憐さをたたえていた。その瞳のことを劇団員やファンたちが悪魔の目などと言っているのも本人は知っている。舞台の上からその目で睨まれると誰もがすっかり魅入られてしまう、ということらしい。

「はい、お電話代わりました」

 才原は稽古場の片隅にある内線電話を取った。右手の指には吸いさしの煙草を挟んだままだ。

『あ、才原? 稽古お疲れ』
「前田さんやないですか」

 電話の先にいたのは、つい先月に四十歳の定年を迎えて歌劇部から総務部へ移動になった前田という松団の男役だった。才原も入団当時から世話になった人だ。ずっと一緒に舞台に立ってきた仲間が、今は事務方として自分に内線電話をかけてきている。その不思議さと切なさに一瞬、頭がくらりとする。自分も近い将来こういう立場で後輩に電話することになるのだろうか。稽古の休憩時間を狙い澄まして。

『総務部長が話があるそうだから部長室に来て。今大丈夫よね?』
「はい、わかりました」

 ――部長室。
 才原は急に手の力が抜けて煙草を床に落としてしまい、あわてて踏み消した。周囲の劇団員たちが何事かという顔でこちらを見る。すぐにポーカーフェイスを取り繕い、拾った煙草をポケットに突っ込んで歩き出すと、可愛らしい後輩の娘役が声をかけてきた。

「才原さん、どこに行かれるんですか?」
「子供の知らないとこ」

 キャーッと叫ぶ若い娘役を尻目に、才原は身をひるがえして稽古場を出た。

 総務部長室に呼ばれるときというのは、理由はひとつと決まっていた。
 人事異動だ。
 稽古場からたったワンフロア下の部長室へたどり着くまでの短い間、才原は自分でも知らないうちに何度も溜息をついていた。
 才原が総務部長室に呼ばれたことがあるのは過去に一度、入団のときだけだ。養成所を卒業して歌劇団に入る際、松・竹・梅のどの団に配属されるかをひとりひとりが部長室で言い渡される。
 部長室に呼ばれた回数が十五年間で一回というのは、劇団内では幸運なことだった。中には、違う団への異動を命じられたり、戦力外通告を受けて歌劇部から他の部署へ回されたりする者もいるのだから。
 そう、戦力外通告。
 才原はそれを恐れていた。三十五歳という自分の年齢なら十分にありうることだ。
 入団してすぐの頃から目立つ役を与えられ、順調にファンもつき、九年目で男役の準トップになったものの、それから六年間まったく同じ地位にいる。もうすぐ任期満了を迎える現在の松団のトップ男役は、才原より二年も後輩だ。
 トップに次ぐ存在の準トップだとはいっても、必ず次のトップになると決まっているわけではない。
 定年の四十歳まであと五年の自分より、若くてそこそこ実力のある男役のほうが、トップとしての将来性はあるだろう。

「ああ才原君、御足労かけてすまないね」

 去年の春に文化庁から天下ってきた総務部長が、才原に身振りで椅子をすすめた。官僚の割に物腰が丁寧で劇団内での評判もいい。学生時代からの筋金入りの花水木歌劇団ファンだという噂だった。

「失礼します」

 才原はジャケットの裾が乱れないように気をつけながら座った。とうとうやってきた瞬間に、視点が定まらないほど緊張する。きっと歌劇部を去れという辞令だろう。いつかは来ることとわかっていたが、それが今日というのはまったくの不意打ちだった。心の準備ができていない。

「才原霞君、あなたは次期松団のトップ男役に決まりました。引き受けて頂けますね?」
「はい。……はい……?」

 才原の大きな瞳がこぼれんばかりに見開かれていたのを見てか、総務部長は声をあげて笑った。

「五月一日から才原君が松団のトップだよ。相手役は誰がいいか来週までに選んでください。ほぼそのまま辞令を出すつもりだから」
「……はい……ええと、あの、ありがとうございます」

 普段は口から生まれたようだなどとからかわれる典型的な関西人の才原も、あまりにも予想外な出来事に、子供のようにしどろもどろのまま部長室を辞した。

 その日の夜十時を過ぎた頃、才原は稽古場にひとり残っていた。
 休憩後の稽古はなんとかこなしたものの、振りなどひとつも頭に入っていない。
 驚きのために停止していた感情は次第に動き出し、クビにならなかったという安堵からトップになれたという喜びへと移り変わり始めていた。だがこの劇団に十五年もいると、その喜びも単純ではない。
 公式発表がある来週の火曜まで、トップに内定したことは口外してはならない決まりだった。才原は普段と変わらぬ様子を装うためにエネルギーを使い果たしてしまい、自主稽古をする気力もなく、電気の消えた稽古場の床に大の字に寝転んだ。
 相手役を選べ、と総務部長は言った。

「何を今さら……」

 遅すぎるんや、と才原は薄い唇を噛んだ。
 才原が十年近くパートナーとして組んできた四期下の熊谷薫は、昨年結婚退職したばかりだ。三十歳だった。彼女がやめたいと言ったとき、才原は心の底から申し訳ないと思った。薫は容姿が特に華やかで芝居が上手く、組む男役さえ違っていればトップ娘役になれた子だった。ずいぶん以前から今の夫と婚約していたようだし、きっと「もう待てない」とでも言われたのだろう。
 薫がいない今、誰を『嫁』にすればいいのか。
 才原にはもうどうでもよかった。終わりを覚悟していた舞台生活が奇跡のように戻ってきたのだから、誰と組みたいなどと贅沢は言わない。劇団の人事に任せてしまおう。
 劇団が推してくるのはきっと、今売り出し中の入団四年目の若い娘役、船越彩(ふなこし あや)あたりだろう。彼女は有名な歌舞伎俳優の娘で話題性も十分だし、いかにも花水木歌劇団らしい雰囲気のおっとりしたお嬢様だ。キャリアの差は大きいが、あの子なら可愛がってあげられるかもしれない。
 そこまで考えたとき、才原の頬を突然涙が伝った。

「……ごめん、薫……」

 苦労を共にしてきた薫と一緒につかむはずだった夢をひとりで手に入れてしまうことの切なさと悔しさとが込み上げて、それは結局、自分のふがいなさを責めることにつながっていく。勝手にやめていったのは彼女のほうだと割り切ることは才原にはできなかった。

「……あれ? まだどなたかいらっしゃいますか?」

 ふわりとした声と同時に、真っ暗な稽古場が急に明るくなった。
 才原は眩しさに片腕で目を覆う。軽やかな足音が駆け寄ってきた。

「お布団なしで寝たら風邪ひいちゃいますよ、才原さん」
「寝てへんよ。月見てたん。ほら、満月やで今日……」

 才原が窓の外を指さすと、大貫優奈(おおぬき ゆうな)は、まだ稽古着から着替えていない姿で窓に飛びついた。室内を映している邪魔な窓ガラスを開けて、闇にうかんだ三日月を見上げている。

「満月じゃないですけど、でも、綺麗……」

 バレバレの嘘については何も追及せず、素直に月に見とれている。気が利くのか、単に頭が悪いのか、この入団七年目の娘役はただふわふわとしているだけだ。

「大貫は何しに来たん」
「自主稽古です。今日の振り、全然覚えられなくて」
「私も」
「ええっ、嘘です! 才原さん振り覚え早いのに」
「今日は全然集中できひんかった。うわの空やったん、気づいてたやろ? ごめんな」

 大貫とは組んで踊る場面がひとつあった。先に覚えてリードするべき男役が、相手役に頼りっぱなしになってしまっていたのだから、いくら大貫だって気づいているはずだ。
 大貫は、床の上に起き上がった才原の隣に来ると、稽古用の長いスカートに体を埋めるようにしてしゃがみ、才原の顔を心配そうにのぞきこんだ。

「お体の具合でも悪いんですか?」

 大貫の体からは、汗に混じって甘いストロベリーの香りがした。すべてがふんわりと甘いマシュマロのような子だ。今はお団子にしている髪も、解けばおさまりが悪い天然のウェーブヘアになる。そして、覗き込んでくる瞳はガラスのように見えるほど黒目がちだ。
 なんだか癒される子だ、と才原は思った。大貫の細く優しい声を聞いていると、苦しい気持ちが楽になる。

「ううん、大丈夫。……実はな、次のトップに決まったねん、私」

 言ってはいけないことをなぜかポロリと口にしてしまったことに才原が動揺するより早く、大貫の目にみるみる涙が溜まっていった。

「……うわぁ……、良かった……、良かったです……!」

 両手を口元で祈るように合わせ、顔をくしゃくしゃにして号泣しはじめた大貫に、才原はわけもわからず肩を抱くしかなかった。キャリアも離れているしそう何度も組んだわけではない大貫が、声をあげて泣くほど才原のトップ就任を喜ぶ理由がわからない。

「大丈夫? そんなに泣かんでも……」
「才原、さんが、トップに、なってほしかったんです、松団のみんな、そう思ってます! でも今日、総務に呼ばれたって噂になって、やめちゃうんじゃないかって……」

 そこまで言って大貫は才原のシャツの腕にすがりついてまたひとしきりむせび泣いた。白いシャツの袖が涙の染みで冷たくなっていく。やはり稽古場の皆も気づいていたのだ。今日なんらかの内示があったことを。そしてこの子はずっと才原の様子を気にしながら耐えていたのだろう。

「……才原さんが、いなくなっちゃうんじゃないかって、不安で、……薫さんもやめてしまわれたし、もうここにいる意味、ないって思ってらっしゃるのかも、って……。だから嬉しくて……」

 心の奥底をほとんどずばりと言い当てられてしまったことに情けなさを感じて才原は苦笑した。クビになるのはいやだと思っていたが、それより前に、薫がやめて行った時点でクビにされたような気がしていたのだ。あの出来事は、あなたと居ても未来はない、と言われたのと同じだった。

「ありがとう。……もう泣かんといて、な? それとごめん、本当は火曜日まで言うたらあかんことやねん。秘密にしといてくれるか?」
「はい」

 大貫は泣きはらした真っ赤な顔で健気にこくりと頷いた。才原はたとえ大貫が誰かに言ったとしても責めるつもりはなかったが。

「すみません、お洋服、汚しちゃって……」
「ええよ、稽古着やし。……なあ、大貫は、定年までここに居たい?」

 そう尋ねながら、才原はふってわいたように自覚した己の気持ちに驚いていた。
 あの内線電話からずっと振り回されてきた感情は、最後にとんでもないところへ落ち着いたらしい。
 ――深夜の稽古場で、自分のために泣いてくれた娘役を気に入るという。

「いいえ。入団したときから、十年勤めたら広島の実家に戻ろうって思ってました。両親が年をとっているので面倒みたくて。私、一人っ子なんです」
「ふうん、そうなんや。親孝行やね」

 大貫の勤続十年まではあと三年。ちょうどトップの任期三年と重なる。
 才原はうつむいている大貫の顎をそっと掬って顔を上げさせた。舞台でさんざん鍛えた自分の武器を利用して、相手の瞳をじっと見つめる。これで彼女をうんと言わせられなかったら、悪魔の目などという称号は返上しなければならない。

「大貫、これ本気やから、真面目に答えてな。……私の相手役になってくれへん?」

 二人の息がどちらも止まり、数秒の時が流れた。

「……どう? あかん? 今すぐは返事、無理か」
「あの……、才原さん、本気で仰ってるんですか?」
「今言うたやろ、本気やって」

 才原はわずかに苛立った色を出してしまい、すぐに後悔した。

「すみません」

 案の定、大貫はますます萎縮してしまっている。
 彼女が信じられないのも無理はない。才原でさえたった今そのことを思いついたのだ。だが、思いついてみればもうそれしかありえないという答えだった。
 大貫優奈という娘役には不思議な魅力がある。舞台の真ん中にいるわけではないのに、その場の空気が甘く夢々しくなり、相手役の気分を高揚させるのだ。花水木歌劇団の娘役は概して男役よりも精神的に強靭だが、大貫はそうではなかった。それに、ミルクのように白い肌、あどけない顔立ち、グラマーな体つきなど、男女を問わず惹きつけられるわかりやすい女らしさを身に備えている。

「ごめん、驚かせて。けどな、ほんまにそう思ってるんや。私はコンビに嘘があるのは嫌やねん。大貫はちゃんとほんまの気持ちで私のために泣いてくれたやろ。松団の中で私のこと一番思ってくれる娘役やと思う。違う?」

 大貫の目からまた涙があふれたのを見て、才原はポケットを探ってハンカチを取り出した。一日使って皺くちゃになってしまい、ないよりはましという状態のそのハンカチを差し出す。

「泣いてばかりいたらわからへん」
「すみません」

 大貫はもう真っ赤になってしまっている目元にハンカチを押し当てた。そして顔を上げて必死に才原を見つめようとしている。

「私、才原さんが大好きです。でもそれだけで、後は何も、トップ娘役にふさわしいところなんてないと思うんですけど……。それでもいいんですか?」
「もちろん。私が相手役になれって言うてるんや。受けてくれるよな、プロポーズ」

 気づいたら鼻先が十センチしか離れていないところまで迫っていた。これでは脅迫だと思いながらも、体に入った力が抜けない。自分にもまだこんな情熱と呼べるような感情が残っていたのかと才原はひとり可笑しくなった。

「……はい……」
「よっしゃ、決まり。大貫、これからよろしゅうな」

 無理やりイエスと言わせたことへの申し訳に、才原は、大貫のひっつめ髪の頭を子供にするように優しく撫でた。大貫の肩は震えている。これから彼女に待ち受けているものの重さに耐えかねるように。

「もう遅いから稽古はやめよう。瀬尾が心配してるやろし、はよ帰り」
「おやすみなさい、才原さん」
「おやすみ」

 寮へ戻る大貫を見送って、才原は帰り支度を始めた。

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