羽衣の章 第9話


「千広、もっと思い切って上に飛んで」

 何度言われたかわからない注意を、千広は唇をかみしめて聞いた。本格的にバレリーナを目指していた時にはリフトなんて日常茶飯事だったのに、男役を相手にしたとたんどうしても怖いのだ。
 粟島は溜息をついて千広の肩をつかんだ。

「できるはずでしょう。どうしたの。私が頼りない?」
「すみません。女の人だと怖くて」

 勇気を出して言うと、粟島は何がおかしいのか声をたてて笑った。普段めったに笑わない人が笑うと暴力的なくらいに魅力的なのでやめてほしい、と千広は思った。ただでさえ、夜中の稽古場で二人きり、互いの体温を感じ合いながら踊っているのだ。

「大丈夫。絶対落とさないから。そのために十六年間鍛えてきてる」
「……でも、腰を痛めたって聞きました」
「そんなこと誰が言ったの」

 粟島は気を悪くしたようだった。しかし、粟島が過去に舞台上でリフトの途中バランスを崩し、相手役を落とすまいと無理をして腰を痛めたにもかかわらず断固として休演しなかったエピソードは、松団の者にとっては伝説的な噂だ。無理をしているのはもちろん粟島だけではない。少々背が低いとは言っても自分とあまり変わらないくらいの大人の女性を持ち上げて回したりする毎日だから、男役は多かれ少なかれ体に故障をかかえている。

「ずっと昔の話。それ以来、筋トレに目覚めて、今じゃ筋肉が鉄のコルセットになってる。だから心配しなくていい」

 それでも不安そうな表情を消すことができなくて、千広は顔を背けた。

「千広が遠慮してたらいつまでたってもできないよ。……実は、リフトを私たちコンビの売りにしようと思ってる。千広は小柄だし私も力があるほうだから、誰にもまねできないリフトができるはず」

 そんなことを考えているのか。ただ無難にこなすだけでも過酷なトップの仕事にそんなハードルを設けるなんてとんでもなかった。千広は激しく首を振った。

「だめです、そんなことしたら粟島さんの体が持ちませんよ。男性ダンサーだって腰傷めるのに」

 そして千広自身の体ももたないだろう……ショウの振付でリフトがあるとわかったとたん、ご飯を目の前にしても喉をとおらなくなる娘役は多い。水さえも飲まないでその瞬間に1グラムでも体重を軽くしようと思ってしまうのだ。
 粟島は怒ることもなく、微笑みながら千広の頭をぽんぽんと撫でた。

「大丈夫だよ。私は無理はしない。悪かったね。信頼関係もないのに肩に飛び乗れなんて、怖くてできるわけないよね」
「そういう問題じゃないですけど」

 粟島に促され、千広は稽古場の隅にある椅子に腰を下ろした。隣に座った粟島は、筋の浮き出た首の汗を拭き、新しいペットボトルをあけて水を一口飲んでからそれを千広にすすめた。松団の稽古場では回し飲みはよくあるので千広は何も考えずに飲んだが、そういえば依子たち娘役は粟島の飲んだ後を争っていたなとふと思い出した。

「最近、依子たちとはうまくやってる?」
「あ。はい」

 たまたま思い出したことを言い当てられたようで、千広はうろたえながらペットボトルの口を拭いて返した。
 はい、というのは勢いで出た返事にすぎず、本当は依子たちにずっと無視されていた。仕事に差し支えない限り千広は気にしないようにしていたが、それでも気が滅入るものではある。

「嘘はつかなくていい」
「すみません。うまくいってはいません。でも予想していたよりはましです。仕事に支障はありませんから、今のところ」
「良くないね。私から依子に話そう」
「そんなことしたら逆効果ですよ」
「大丈夫。私に任せて」

 強く言い切る相手役を見て、今日の粟島はどこか少しおかしいと千広は感じた。いつもなら、そう、と流すだけで決して強くは主張してこないのに、今日はさっきからやたらと大丈夫、心配するな、自分を信じろと押し付けてくる。

「粟島さん、疲れてるんじゃないんですか? 一日十時間の稽古はやりすぎだと思います。何をそんなに焦ってるんですか?」
「私が焦ってるって?」

 粟島は息を吸い、長い間をとった後、深い溜息をついた。

「……ごめん」

 彫りの深い白い横顔に、ぼうっとしたような無防備な表情が浮かぶのを千広は初めて見た。これは反則だ。美しすぎる上に可愛いなんて。

「バレエ、苦手なんや。千広を相手役にしようと思ってから毎日レッスンしてきたけど、付け焼刃はあかんな」

 相手役に合わせるために苦手分野を特訓するトップスターなんて聞いたことがない。その粟島の度量の広さに、なぜそこまでするのかという疑問で胸がいっぱいになると同時に、関西弁特有のゆるやかな音程と淡い子音の響きが千広の心を揺さぶり、不安定にした。考えてみれば、いつも究極の男役として一分の隙もなく格好つけている粟島の本当の姿なんて千広はまったく知らないのだ。

「確かに焦ってる。千広にはお見通しか……」
「明日はきちんと休んでくださいね」

 千広は強い口調で釘を刺した。一週間ぶりの休日にも、おそらく粟島は何かのレッスンに通うか、稽古場に来て自分のパートを練習するつもりなのに違いないからだ。そんなことをしていては、初日までに体がボロボロになってしまう。
 だが粟島は言った。

「嫌。休んだら一人になってしまうから」
「は?」
「稽古してないと寂しくて耐えられへん。あの人がいなくなってから……」

 あの人、とは才原のことだろうか。以前、夜中にかかってきた電話で、二年以上付き合っていると言っていた。才原が五月の末に退団してから約半月が経っている。そう言われれば、粟島は元々夜遅くまで居残り稽古をするタイプではなく、プライベートを犠牲にしない効率の良い人だった。それがトップになってからは連日の深夜稽古で、主演としての責任感からだと千広は思っていたが、実は稽古に打ち込まずにはいられない事情があったのだ。

「失恋してやけになって稽古で自分をいじめてるんですか?」

 粟島は恨みがましい目で千広を睨んできた。

「そう。だから一人になりたくない。明日、うちに来て一日中添い寝して」

 だらりと絡みついてきた長い腕を千広は必死に押し返した。

「お断りします! セクハラとパワハラで訴えますよ!」

 抱き着いてきた粟島は千広のレオタードの肩に額をぴたりと預けたまま笑い出した。

「笑いごとじゃないですからね。今の時代、セクハラは命とりなんですよ」

 だがやがて千広は、粟島が笑っているのではなく泣いているということに気が付いた。

     *     *     *     *

 帰りは終電になる、と連絡を入れていたので、啓太は駅まで迎えに来てくれていた。お疲れ、と、自分も仕事を終えた後なのに、着替えなどの入った重いバッグをさりげなく受け取ってくれる。こんなとき、啓太と付き合っていてよかったと千広は思う。

「毎日遅くまで大変だな。明日は休みなんだろ?」
「うん。……ねえ、私が粟島さんと添い寝したらどう思う?」
「そういうシーンがあるの?」
「いや、プライベートで」

 啓太は夜道に立ち止まった。目をぎょろっとむき出したわかりやすい表情で固まっている。

「まさか……粟島さん共演者に超手が早いって噂は本当だったのか……」

 そんな噂が裏方のスタッフにまで広がっているのかと千広はおかしかった。

「違う違う、もしもの話。添い寝なんかするわけないじゃない。第一、私が女の人に関心あるわけないでしょ」

 啓太は崩れ落ちそうな大げさな溜息をつき、再び歩き出した。

「脅かさないでくれよ。俺だって千広がそっちに行くとは思ってないけどさ、粟島さんだったらもしかして……なんて」
「ばか」

 ジャンプして、啓太の刈り上げた後頭部を軽くこづく。

「明日、粟島さんの家に行くの。添い寝はしないけど、話し相手にね」
「え、明日は一緒にいられるんじゃないんだ」
「ごめんなさい」

 啓太はあきらかに落胆したようだった。稽古が始まってから、休日も台本を覚えたり歌を覚えたりで余裕がなく、ほとんど会えなかったのだ。

「まあ、しょうがないか。トップ娘役のことを嫁って言うくらいだもんなぁ。話し相手ですんでよかったよ。……早くほんとのお嫁さんになってくれよな」
「最低三年後になるけどいい?」

 照れ隠しにそんなことを聞きながら、千広は、幸せな気持ちの中にふと、今ごろ粟島はどうしているのだろうかと思った。

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